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 八幡社

  所在地(氏子):阿智村伍和丸山(旧向関村丸山)

  祭神:○誉田別命(ほむだわけのみこと/八幡大神)

 丸山地区は、江戸時代には向関村の飛び地として宮崎氏の支配を受けた(後に天領)。しかし、この地には向関村とは異なる草分けの人々がいたとも伝えられる。菩提寺も一向宗善勝寺(飯田市)であり、浄土宗の檀家が圧倒的な阿智村の中では異色である。

 向関村の「村方有来訳(享保年間)」に、丸山平開発のことが取り上げられている。丸山は備中原村と隣り合っており、その先は河内川(丸山川)の谷になっている。丘陵地区の片岸を「はけ」というが、文書でも「丸山ほっけ」と書かれている。水利が悪い小草山で、備中原村が馬放し場にしていた。馬草代として、向関領主宮崎氏の田んぼの代かきに馬2匹を労務提供したり、後には薪や金銭200文(受け取りについては問題あり)を届けていた。
 宮崎氏では、丸山を下郷地区、「とちのとう」を上郷地区の草山に割り振ったが、丸山では「丸山じせう」という人物が、既に家の近辺を開墾して25石分の畑にしていたという。後に向関宮崎氏の所領が減らされた際も、開墾地として相続が認められた。
 向関村の検地を行う前に、丸山の畑になりそうなところを下郷地区で切り起こしていき、残らず畑にしてしまったので、備中原では馬の草が不足するようになってしまった。などなど。

 明治22年の文書に、明和3年(1766)の棟札の写しがあり、この年に小山八幡社から分社して祀ったと思われる。これ以前にも祭祀していた神祠があったと思われるが、明らかでない。明治22年の段階で、氏子は20戸129人とされるが、戦後に村社が廃止されるまで、丸山の住民は小山八幡社の氏子でもあった。

 拝殿の向かって左手には、武田信玄の供養塔がある(写真下の左側)。これは根羽村横畑の信玄塚にある宝篋印塔を明治30年に原寸大に模造したものである。丸山の高坂氏は武田氏の家臣高坂弾正の末裔とも伝えられ、信玄の供養のために建立したという。

 → 『阿智村誌』 p.744
 → 『愛郷探史録』p.380
      向関村・村方有来訳
 → 『探史の足あと』p.78
      塔身なき信玄の供養塔