慈眼山衆生院(伊那西国3番、伊那四国69番札所)
所在地(江戸時代の村名):阿智村春日(中関村)
<御詠歌>
命にはさだまる関のあるなれば
心にかけて願へのちの世
創建の時代は明らかでないが、伊那西国三十三所の観音巡礼が始まったのは、元禄初年(1688)頃と言われる。小笠原家(屋号:篭平/当時は浜島家)の家伝によると、同家の内庵であった所へ山本の人々が参拝に来て札所にしてほしいというので、村庵にしたという。
篭平の内庵というには距離が離れているが、当初の敷地と4畝歩の畑(字観音前)は同家が寄進したもので、安永5年の中関村検地で除地として認められている。
他にも年貢地(高8斗5合6勺)の田畑があって(長岳寺並門徒分限改書上帳)、当院の香煙は比較的順調に継承された。
明治6年(1873)に廃寺の布告で取り壊されるまで衆生院があった場所には、原治幸さん宅(屋号:上溝垣外)の元蚕室が建っている。その裏手には、歴代住僧の墓石15基や、お地蔵様の座像、庚申塔、名号石などが立ち並んでいる。
蚕室と住宅の間の通路は馬場・五反田に通じていた古い道で、中関の里道と突き当たる所に、金比羅、秋葉、御嶽の大きな石碑が建つ。
明治10年(1877)に現在地(字山崎)へお堂が再建され、明治35年までは称成(しょうじょう)さんという尼僧が堂守をした。
その後、宗円寺の隠居所を譲り受けて改築したが、戦後は隣接する中関公会堂に仏像を移した。
更に、平成15年(2003)に敷地全体を「高齢者生きがいセンター」として整備し直し、地域住民交流の場となっている。
本尊は聖観世音菩薩立像で、寛政3年(1791)の銘がある。創建当初のものではないが、優美な姿だという。
(2004.8.4 撮影)