中関の衆生院跡
〜 以下はほぼ原文です (文責さんま) 〜
かつて伊那西国三十三所の第三番札所であった中関の慈眼山衆生院は、私の生家の蚕室の敷地のところにあったといわれ、縦四間、横三間のお堂であったというが、その観音堂が東向きであったか南向きであったかは、もう知っている人もありません。
そのお堂の裏手にあった墓地は今もそのままに残っていますが、最後の堂守りであった尼僧称成さんが明治35年12月14日に亡くなってからは、手入れをする人もなくなり、最寄りの私の生家で掃除をしたり花筒を立てかえたりしてきました。私たちが子どものころ、この墓地にかなり大きなナワシログミの木が二本あって、その実が赤く熟すころは友だちとそのグミの木の枝に登ってよく食べたものです。
この墓地には、大きな台座に座したお地蔵様が中央に鎮座するほか、歴代の住僧の無縫塔(里芋の型をした石塔)と自然石の石塔15基をはじめ、石仏や名号石、庚申塔などが2列に向い合ってひっそりと立っています。
このあたりは、明治初年頃までは大樹の繁る《お観音様の森》であったらしく、直径7,80cmの太い枯木が3,4メートルの高さで中断されたまま2本、つい先年まで立っていたし、同じ位の太さの切り株も西北端に残っていました。
伊那史料叢書によると、
「延宝四辰年(1676)下伊那郡三十三所ノ観音順礼始ルト云。
然レドモ慥ニ廻リ初メタルハ夫ヨリ十年程後元祿ノ初年ニ始ル也。
伊那百番モ此節ヨリ廻リ始メシ也」
とあるように、紀州那智山を一番とした西国三十三所になぞらえて、伊那西国三十三所が最初にでき、つづいて伊那坂東三十三所、伊那秩父三十四所ができ、合せて百ヶ所の札所が整ったようです。伊那坂東は南部と北部の二組があり、伊那秩父には竜西と竜東の二組がありますが、これら札所にはそれぞれにその土地に因んだ短歌形式の御詠歌があり中関の衆生院の御詠歌は、
命にはさだまる関のあるなれば 心にかけて願へ後の世
というものです。中関の関(あるいは逢地の関)にかけて、「人には生れながらに定命という関(堰)がある。つねに仏を信心して後世の安楽を願いなさい」という意味なのでしょうが、この歌はわかりやすく、調べもよくて、一読して心にしみるものがあります。ここで他の札所の御詠歌との優劣を論ずるつもりではありませんが、衆生院のものは三十三所中でもいちばん《ありがたい》感じがするのは身びいきでしょうか。おそらくこれをお作りになった何寺かの和尚さまは、ここで快心の笑をもらされたことだろうと思われます。
山本慈昭さんが衆生院のことを書かれたの機会に、最近この墓地について詳しく調べてみたところ、中には長年の風雨にさらされて読めなくなっているものもありましたが、長岳寺の過去帳に残る住僧の世代や戒名とほぼ一致していました。
墓塔の数は全部で15あって、これを戒名別に分けると、大徳6基、浄徳1基、法師1基、法尼2基、比丘尼1基、比丘1基、上座1基、難読2基で、これを形式別にすると、無縫塔10基、自然石等5基でした。大徳というのは僧侶としては低い位のものと思われますが(僧侶というより堂守あるいは道心というが適切か)中には中興の順誓大徳(元文元年没)のように構造に手のこんだ墓石もありました。
戒名や歿年の詳細は抄略しますが、古い時代と思われるもの2基が難読で、過去帳で初代となっている源空大徳は拓本をとって解読したところ貞享元年ではなく享保九年辰ですから、やはり衆生院が観音堂として堂守が住みはじめたのは元祿初年ではないでしょうか。なお、大徳・浄徳・法師などというのはどういう階位の相違があるのか、時代が経っているだけに判断がむずかしく、上座というのも二字を接して刻ってあるので読み難く、山本さんにお聞きして推定した。これも僧としては下の階位で大徳と同じ程度ではないかと思われますが、広辞苑によれば「三綱の一、法事などを司どり、その上座に位する年長・逸材の僧」とあり、三綱とは「僧職の次位で、上座・寺主・都維那又は上座・維那・典座」と説明されていますが、戒名として使われる場合もそのままに解釈してよいかどうか、不勉強でわかりません。この上座の墓石は極めて小さなもので、最初は子供の墓石かと思ったほどの大きさであり、漬物石ほどの形のよい自然石でした。
墓地の中央部に地蔵菩薩が1基ありますが、お地蔵様といえば立ったお姿が普通ですがこのお地蔵様は座っていて総丈157p、台座までの高さが90pほどあるので御本尊の座高は67pで、手には宝珠を持っています。祖母が生きている頃はいつも笠をかぶせてあげていたそうですが、時々は誰かがヨダレカケを奉納してあるのを私も見ました。しばしば失せ物に霊験をあらわしたそうですから、そんなことの大願成就の奉納だったのでしょうか。
このお地蔵様で思い出すのは昭和8,9年頃でしたか、伊那四国八十八所(弘法大師札所)か何かの開帳があって、その折衆生院が弘法様の札所ということでこの墓地一帯を青年会員が大掃除をして、さて長岳寺の秋田住職様が来て法要を営む段になって和尚様が首をかしげ、墨をもって来いというので私の家からスズリを持ってきて台座の梵字に墨を入れてみたところ「これは弘法様じゃあない、お地蔵様だ」ということになり、供養は取り止めとなって帰って行かれ、区長様たちは手もちぶさたでお開きになったことがありました。あとで私の母は「お姑様がお地蔵様にと笠をおぶせておったのがどうして弘法様になったのかと不思議に思っていたが、やっぱり……」といっていました。このことから、新たに衆生院に弘法大師像を造ることになり、今も公会堂に安置されているのはそのときの造立です。
さて、この地蔵尊には、台石に建立の年号や施主も刻まれていたのと思われますが、風化が甚しく、正面には「南無……」左の面には「施主……」以上は読むことができません。したがって、何の由来もわからず、区有文書にでも勘化帳か建立入用帳でもあればと思うが望みは少ないようです。
また、別項山本さんの文中に「衆生院境内に大石塔あり云々」というのは、高さ150pのズングリした自然石の名号石のことで、中央に「○南無阿弥陀仏」その右わきに「浄久寺十三代単誉上人供養」左わきに「宝永二酉歳十月二十三日原七郎左衛門」と彫られています。浄久寺十三代とは戦時中に供出した大釣鐘鋳造の時の住職のことです。衆生院は長岳寺の末寺でしたが、中関村の家々は浄久寺檀家がほとんどでしたから、浄久寺関係のものも同一に扱われることになったのでしょう。なおこの石塔の左横面の下方に「信州中伊那寺江村いしや弥五エ門」と達筆で刻してありますが寺江村とはどこか、ご存じの方は御教示下さい。
石塔の列の南端に庚申塔が2基あります。元文5年(1740)と寛政12年(1800)のものでいずれも庚申の年の建立です。豊丘村では元祿5年頃から庚申塔がたくさん立てられているのに庚申年建立のものはほとんどないようですが、阿智村の文字の庚申塔は庚申年に限って建てたようで、天竜川の東西では庚申塔の建立の風習が違っていたように思われます。
ところがこの2基のうち、寛政12年の庚申塔の台石の表面に10p角程の「佛」の字らしいものが棹石の下からのぞいていたので、来合せた弟の手をかりて棹石を傾けて、水で洗ってみると、棹石の下になっていた部分からはっきりと「×無阿弥陀佛」の刻字が現れました。かつて名号石であったものを、何かの理由で台石に利用したものらしく、相当に大きな名号石を、こともあろうに庚申さまの台石に据えるとはどうした理由によるものか、その由来を知りたいものです。
なおこのほかに庚申関係のものとして、元祿5年(1692)建立の「南無阿弥陀仏、庚申供養、同行八人」というものがあります。元祿五年は壬申ですが、この頃から庚申塔を建てることが各地ではじまったようです。それにしても同行八人というのは、どこかへ参拝旅行をしたという意味なのでしょうか。こうした供養塔はあまり見かけません。青面金剛童子を本尊とする寺はどこなのか、猿田彦命なら伊勢でしょうが、このころ伊勢への抜けがけ参りがはじまったといいますから、中関村で初めてお伊勢様へ抜け参りをしたというので、今でいうなら月面を踏んだ宇宙飛行士のような得意な顔をして八人の衆がこの供養塔を建てたとしたら、想像の楽しくなる石塔です。
もう一基、正徳3年(1713 癸巳)建立の「南無青面金剛童子」があり、これには同六人と刻されています。青面金剛童子は庚申会の本尊であったし、猿田彦命も庚申の祭神でありました。
なお、中関の庚申塔は、ここに、元祿5年(1692 壬申)をはじめとして、元文5年(1740)、寛政12年(1800)があり中関上の平の弘法様のところに万延元年(1860)のものがあり、次の大正9年(1920)のものは公会堂の裏手にあって、60年毎に建てたものが揃っています。実はかく申す筆者も庚申の生れなので、6年後に近づいた庚申年のことなど思いながら書き加えておく次第です。(安布知神社境内入口に同級生で庚申塔を建立しました(1980)〜補記 さんま〜)
このほかに、寛保3年(1743)建立の観世音立像(首がなくなっている。台石に同行八人とあり)や、観音像を刻んだ西国三十三所供養塔(連中十五人。享和三年(1803))、同様の石仏で文字が難読のもの1基、三界万霊六道四聖(寛保三年(1743))、馬頭観音(文化四年(1807)・施主原六兵衛)などがあります。
墓石の列の北端に一株の八重うつぎがあります。ひところは数十本の幹が叢生し、二かかえほどもある大株になり、高さも3m程にもなって、夏のはじめには美事な花を咲かせたものですが最近はすっかり樹勢が衰えて枯れそうにもなっています。これは駒場の逢地の関跡のさかさウツギと同じものらしく、何か関係がありそうです。今は道をへだててしまっていますが、これも衆生院墓地の一部でした。
昔は墓地の南端が赤線の道で、駒場から馬場・五反田を通って来た道と、京田の方から来た道とがこのあたりで一本になって、衆生院の南側を通り、金比羅大権現・秋葉大権現・御嶽山など三つの大きな石碑の前を通って中関の里道に通じていたのです。私の生家で蚕室を建築した折、道路のつけかえをしたため、墓石群とウツギの間を道が通るようになったとのことです。
なお私の生家は江戸時代からここにあったのではなく、明治7年廃仏棄釈で廃寺になった衆生院が観音堂として京田山のふもとの山崎へ移転して後、明治12年に通称元屋敷から引き移ったのですが、私は幼少から秋葉さまの石積みのあたりを遊び場にしてきたことや、ナワシログミを食べた思い出もあって、したしみを感じつつこの墓石の調査をしました。
衆生院についてはこのほかに、本尊聖観世音菩薩のこと(調査未了)、貞寿尼僧のこと(死去諸雑用調帳あり=安政6年)、宮崎利吉翁と御詠歌会のこと、内田源内の寄付した寺鐘のこと、最後の尼僧称成法尼が浄久寺の宗旨になったことなど、調べて書きたいことはありますが又の機会にゆずります。 (S49・7)文
(参考)→ さんまのメモ書き 下伊那郡(竜西)百観音札所一覧表 『慈眼山衆生院』