総合目次 札所一覧 足あと 3章 愛郷 4章 更新記録 さんまのメモ
 紅岳山隆芳寺(伊那板東21番、伊那四国70番札所)

    所在地(江戸時代の村名):阿智村春日(上中関村)
       
隆法寺本堂
御詠歌
山路塚
本堂裏の墓地
<御詠歌>
 聞くにさへ解脱を得ると誓ひある
 ましてや御名を称えぬる身は


 蓮門精舎旧詞によると、寛文4年(1664)、上中関村領主の市岡理右衛門尉則次の菩提のため、その子理右衛門尉が建立した。開山は単岌(たんきゅう)上人で、浄久寺の末寺である。

 市岡氏の系譜には則次の名がなく、寛永16年(1639)没の忠次が正しいと思われる。忠次の法名は、「隆芳院殿長岳道智居士」であり、この院号が寺号になっている。
 寺を建立したのは、忠次の孫の瀬兵衛清次だが、祖父の養子となって家督を相続したという。親が若くして亡くなったのだろうか。

 単岌上人は延宝3年(1675)に示寂し、市岡氏も貞享2年(1685)に改易になった。第2世以降の住僧については、100年ほどにわたって戒名すら不明である。
 文化初年(1800過ぎ)、第13世の勇誉義観和尚の世代から経営も安定し、過去帳も年次的に整理されるようになった。昭和53年(1978)まで住職がおり、境内の一部を春日保育所として使用していたこともある。

 本堂裏の墓地には、名号石や五輪塔の他、木曽八の供養塔がある(左側前から2番目)。一見ただの三界万霊だが伝説を秘めており、明和7年(1770)の建立以来、毎年供養が行われているという。
(参考)→ 『阿智村誌 下巻』 p.755

 境内には、芦沢内蔵之助(1791〜1858)の報徳碑「山路塚」があり、安政4年(1857)の建立である。
 内蔵之助は駒場村上町の黒柳家から養子に来た人で、文化12年(1815)に25才で名主役を初めて務め、以来13回(合計13年)名主役を務めた。
 寺子屋を常時開設したのではなく、農閑期などに手習いを指導したのだろうと思われる。台石には建立費用を寄進した71名と若連中など団体名4つが記されている。「施主筆子中」と記されているが、女性の名は見られない。
(参考)→ 『阿智村誌 上巻』 p.836
         寺子屋師匠の事績