<御詠歌>
聞くにさへ解脱を得ると誓ひある
ましてや御名を称えぬる身は
蓮門精舎旧詞によると、寛文4年(1664)、上中関村領主の市岡理右衛門尉則次の菩提のため、その子理右衛門尉が建立した。開山は
単岌(たんきゅう)上人で、浄久寺の末寺である。
市岡氏の系譜には
則次の名がなく、寛永16年(1639)没の
忠次が正しいと思われる。忠次の法名は、「
隆芳院殿長岳道智居士」であり、この院号が寺号になっている。
寺を建立したのは、忠次の孫の瀬兵衛清次だが、祖父の養子となって家督を相続したという。親が若くして亡くなったのだろうか。
単岌上人は延宝3年(1675)に示寂し、市岡氏も貞享2年(1685)に
改易になった。第2世以降の住僧については、100年ほどにわたって戒名すら不明である。
文化初年(1800過ぎ)、第13世の
勇誉義観和尚の世代から経営も安定し、過去帳も年次的に整理されるようになった。昭和53年(1978)まで住職がおり、境内の一部を春日保育所として使用していたこともある。
本堂裏の墓地には、名号石や五輪塔の他、
木曽八の供養塔がある(左側前から2番目)。一見ただの三界万霊だが伝説を秘めており、明和7年(1770)の建立以来、毎年供養が行われているという。
(参考)→ 『阿智村誌 下巻』 p.755
境内には、
芦沢内蔵之助(1791〜1858)の報徳碑「
山路塚」があり、安政4年(1857)の建立である。
内蔵之助は駒場村上町の黒柳家から養子に来た人で、文化12年(1815)に25才で名主役を初めて務め、以来13回(合計13年)名主役を務めた。
寺子屋を常時開設したのではなく、農閑期などに手習いを指導したのだろうと思われる。台石には建立費用を寄進した71名と若連中など団体名4つが記されている。「施主筆子中」と記されているが、女性の名は見られない。
(参考)→ 『阿智村誌 上巻』 p.836
寺子屋師匠の事績