<御詠歌>
ありがたやひとまきならぬ普門院
仏の誓ひたのもしきかな
天正年間に、下条家(武田方)配下の
林久左衛門という郷士が備中原の春日社横に住んでいたが、
天正15年(1587)下条氏落去の際、家康配下の飯田城主菅沼定利に討たれてしまった。
その菩提を弔うために建立されたと伝えられる観音堂で、本尊は
聖観音座像である。
入口右手に、
上原茂左衛門の西国四国秩父坂東供養塔(明和7年/1770)と、その時持ち帰ったという
百日紅の木がある(今あるのは2代目だそうです)。浄久寺には同じ時持ち帰ったという百日紅の老木がある。。
ちょうど8月には赤い花が満開で、境内が華やいで見えた。
野仏に赤い花散る普門院
(阿智村かるた)
境内には多数の石造物がある。
寛文12年(1672)の名号碑や江戸中期と見られる多宝塔、一石の五輪塔などである。
また、
三十三所観音の石仏群(阿智村有形文化財)が境内左手にある。元橋から普門院にかけての古い坂道に並んでいたものを、明治時代に境内にまとめたものと思われる。かつては、観音様の数を数えながら参拝の道標にしていたのだろう。
浄久寺の末院で、元は小作料6俵ほどの田畑があり、明治から昭和初期にかけて堂守の尼僧が住んでいた。戦後の農地解放により、現在は無財産である。
(2004.8.4 撮影)
(参考)→阿智村誌 下巻 p.777
第7章五 堂・庵・廃寺 1普門院