むかしの人は信仰心があつく、観音霊場や弘法大師の霊場を巡拝し、その供養のまとめと記念に回国供養塔を建て、村人を招いて法要と披露の宴をしたといいます。
写真の供養塔は西国(近畿)、四国、坂東、秩父(関東)の霊場百八十八ヵ所を巡拝したあと建立したもので、正面には、「奉納西国四国坂東秩父供養 願主敬白」とあり、高さ198pの大きなもので、時は享保20年(1735)、建立者は林甚右衛門尉藤原清定と刻字があります。
時代的にも古く造りも大形で、笠石の重厚さは見事です。清坂の出身の人といわれ、駒場区有林の横川山の監守として派遣された人と思われます。もとは大品坂にあったといわれ、「此の所二間三間永代供養場に相定めるもの也」と彫られていますが、今は移されて清坂の畑の中にあります。 (S57・1)
→「愛郷探史録」p.34 地名と回国供養塔