安布知神社と阿智神社
〜 以下は要旨です (文責さんま) 〜

1 古すぎる神社創建
 安布知神社の創建は、社伝では仁徳天皇56年とされる。日本書紀に従うと西暦368年で、古墳時代の前期となるが、推古天皇元年(593年)以前は、西暦を当てはめないのが通例である。
 ところで、飯田下伊那で古代創立所伝の神社は数多くあるが、市村咸人先生の「下伊那史」によると、安布知神社以外は8世紀以降の創立と伝えられる。これらの社伝について市村先生が、
「社伝をそのまま採用したものはまだよいとしても、捏造或は附会して、いたずらに由緒の古さを誇示したものが大部分を占め、権威ある古文献・棟札・金石ないしは遺物等を原拠として記されたものは極めて少ない。このようなあらわれは、その神社に史料なきによる結果と思われ、従ってその全部が事実として信じがたいものであることは何人も異論なきところであろう」
と述べられているように、安布知神社が飯田下伊那のうちで最も古い創建の神社の一つであるにしろ、仁徳天皇56年は後世の人の創作で、おそらく祭神の誉田別命(応神天皇・八幡神)が仁徳天皇の父親とされることから、昔の神主さんが勇み足で定めたのだろう。

2 神社名と御祭神の変遷
 「信ずべき文献により、上代における存在の確実と認められる」と、市村先生が見ている神社は、延喜式内社の「阿智神社」「大山田神社」及び、三代実録記載の阿南町の「早稲田神社」である。しかしこれらの神社も、現在まで何の波乱もなく続いてきたわけではない。
 下條村の「大山田神社」は、下条氏が居城を吉岡に移した際に現在地へ遷宮したと言われる。元の鎮座地が不明確なため、明治維新の際には、式内大山田神社の社号で神社間の争いがあった。
 式内社の「阿智神社」も、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのか釈然としない。鎮西清浜が、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、昼神(現阿智神社)を奥の宮と言へり」と書いているが、これを裏付ける事実がある。

@昼神は駒場の分郷であるという。(「信州伊奈郡郷村鑑(1740頃)」、「伊那旧事記(1740)」)
A両神社とも同じような社歴で、古くは「吾道(あち)大神宮」と奉唱されたという。「大神宮」の尊称は、思兼命を祀ってきた駒場の社に有利
B両神社とも江戸時代には往古の神社名が使われておらず、特に昼神の祭神には「思兼命、表春命」が見当たらない。駒場の社では、天正元年(1573)に新羅明神を勧請した際に社殿を三間社流造りに改築したこと等から、地主神として既に思兼命を祀っていた(他に八幡神)のが確実。
C慶長6年(1601)に朝日受永が寺社領を寄進した際、昼神(山王権現/現阿智神社)を加えず、駒場(よさか八幡/現安布知神社)の方に寄進している

3 長く疎外された思兼命
 朝日受永は下条または駒場の生まれと言われ、阿智地域での寺社領の寄進(1601年)も2神社3寺院と多い。ところが「よさか八幡」に10石を寄進し、「山王権現」を取り上げなかったのは、駒場を前宮・昼神を奥宮と見たからではないか?(山王権現には慶安2年(1649)朱印状下付) あるいは、他にも「権現」と名のつく神社への寄進がないのは、「権現」を好まなかったのか?

 市村咸人先生は、下伊那史第4巻で山王神道との関連について触れている。神坂峠は伝教大師が広拯院、広済院を設けて旅人の難渋を救った由緒のある土地であり、後に山王一実神道に従って知の神・功の神「思兼命」を祀ったのではないかという。山王信仰が盛んになった鎌倉時代以降、阿智神社の社名は忘れられ山王権現となったが、阿智神社と山王権現は異名同体であると。

 正徳元年(1721)の日付で山王権現の神主が書いた「社例古書改写」には、昼神地区の神社・祠を大小余さず書き出しているが、「思兼命」も「表春命」も見当たらない。山王権現の祭神は、大物主尊、国常立尊、豊斟渟尊となっている。
 しかし、「伊那旧事記(1740)」の筆者関盛胤は、山王権現は阿智神社であると断定し、天明元年(1781)に山王権現を訪れた伊豆竜沢寺の東嶺和尚も「これこそ探していた阿智神社だ」と歓喜して、「吾道宮縁由(あちのみやえんゆう)」を執筆して阿智神社への復古を勧告している。「知らぬは本人ばかり」の状況だった。
 文化元年(1804)春になって「山王権現」へ「阿智神社」、その年の秋に「よさか八幡」へ「安布知神社」の社号が神祇管領長吉田家より認可された。昼神が先に阿智神社という名前を付けてしまったので、駒場のお宮が安布知神社という名前になってしまったのかもしれない。

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