上中関の「かぎのて」道
〜以下はほぼ原文です。(文責 さんま)〜
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 上中関に竪町という名の集落があります。これは旧村社「春日神社」に対して参道の延長のように縦長に続く道なのでそう名づけられたものと思いますが、その大部分はかつての中馬街道(伊那街道)でした。
 ところがその百メートル余りの延びた直線道の、駒場方面への接続部分も、山本方面への接続部分も、直角に近い角度でいわゆる「かぎのて」のように直角に曲がっています。
  → 絵図参照 

これは、駒場から飯田までの街道としてみたとき何とも不自然ですし、ことに私の提唱する
  令制東山道は「直線的で指向性をもつ道」であり、
  「阿智〜育良間は東山道がそのまま伊那街道として利用された」
という論考には、意地悪な障害となっています。

 この絵図は江戸時代中ごろの作成ですが、問題の竪町はこの図では横線になっています。伊那街道が左下から木槌沢の橋を渡って北上し、現在の佐々木さんと増井さんの間の十王坂を登りきった所で竪町へTの字の形に突き当たります。図では十王坂の方向がやや斜めに描かれていますが、実地ではほとんど直角です。
 それから竪町を東の方向へ110mほど進んで高札場につき当たり、ここでもう一度直角に北の方向に曲がって山本境の方へ進んでいます。このあたりには「横町」とか「牛宿」という屋号の家があって、竪町とともに小規模な合の宿的な家並をしていたようです。

 その家並を通り抜けると、道路の左側は旗本近藤氏領の山本村、右側は天領(幕府領)上中関村で、その先七q余りの北方村までは道路が村境となっている境界道がほぼ直線的に東北方をめざして延びていて、古代東山道が集落の境となり、伊那街道となった経過を暗示してくれるわけです。

 ところで、この竪町の二か所の直角の折れ曲がりは、どう考えたらよいのでしょうか。城下町や宿場町には「桝形」といわれるわざと造った道路の喰いちがいがあります。飯田市では伝馬町と箕瀬にあったといわれ、伝馬町の方は警察署入口の信号機のある交差点がわずかにその面影を残しておりますが、箕瀬の方は羽場坂を登った道が箕瀬の通へ直角に折れまがったあたりでしょう。木曽の妻籠では保存されている宿場町の南端に「桝形」が残っておりますし、中津川市でも東山道の調査に行った時、中山道の経路上に桝形の残っているのを見学しました。

 この上中関の折れ曲がり道もスケールの大きな桝形ではないかと思いましたが、二三の方に話しましたところ「違うだろう」と否定されてしまいました。飯田市や中津川市の桝形の喰い違いはせいぜい数mで、上中関のように110mも横ずれした桝形というのはあり得ないかもしれません。「桝形」とは一体何のために造ったかというと、戦時の防備のため城館の出入口に設けた虎口の一形態といわれます。外来者が町の外から町中まで見通せないようにわざと道を屈折させ、防備の武者を忍ばせたというのです。

 上中関にはそうした桝形を必要とする城も館もありません。図の中に市岡氏かまたはそれ以前の郷士が住んだと思われる「堀ノ内」という地名がありますが、それは位置的に対応しません。ただこの絵図の中ほどに「」という地名があります。「下条記」に、下条氏が全盛の頃、阿知川を越えて松尾小笠原領のこの地まで進出し、そこに前線基地を造って境界とした。それが「境」という地名である−−とありますが、それが本当とすれば、その時にこのような道の形にされたのかもしれません。その時代は文明年中(1469〜1486)といわれ、駒場の方から来た道をここで百mあまりかぎのてにねじ曲げて、そこにを造ったものと想像されます。ここは、七久里の台地との間にある「小島」から「牧畑」の盆地を見下せる、砦には格好の地形です。
 なお、春日神社が片手石から現在地に遷座したのが文禄元年(1592)、上中関領主市岡氏の菩提寺として隆芳寺が創建されたのが寛文四年(1664)で、いずれも道路改変の後となります。


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 前章で上中関の「かぎのて」道の私見を書きましたが、充分なまとめになりませんでしたので補足をしたいと思います。
 江戸時代に往来のさかんであった伊那街道が、竪町のところで不自然な直角の曲がり方を2か所もしていることについて考えてみたわけですが、この「かぎのて」道の解明ができないと、東山道が伊那街道になったという説がなりたたないほどの重要な意味をもっているからです。

 結論をいそぎますと、東山道のころは、駒場の「阿知駅」の方から北上してきた道が上中関の十王坂を登りきった所で、現在のように右方向へ直角に曲がったのではなく、そのまま直行して隆芳寺の境内を通りぬけ(その頃隆芳寺はなかった)、坂を下って旧国道下にわずかに残存する伊那街道の跡へつながっていたと思われます。

 次の古絵図は、上中関村の部分図です。このあたりには古代東山道が直進していたという地形的な遺構も、地名も残ってはいませんが、この絵図にその一角が「」という地名で記されています。この「境」という地名について、佐々木喜庵の著「下条記」に次のような記事があります。

一 下条家ノ事、連々賑々シク、弥松本ヨリノ御猶子吉岡へ御移リ遊バサレ候以後、内所ニテノ小セリ合ハ数ヲ知ラズ、中ニテモ松尾ノ城主小笠原掃部太夫殿トハ相身体故勝負ツケガタク、年並ノセリ合也。サレドモ下条方強クシテ度々松尾ヲ追クズス、其ノ証拠ニハ大境阿知川ノ様ニ双方ヨリ覚エ候エドモ、下条家ハ度々阿知川ヲ乗リ越エ、終ニハ右ノ趣、立石、中関、駒場、昼神辺迄、文明年中ニ康氏公切リ取リ、前原ニ境ヲ立テ、新関ヲ之ヘ居エタリ、今ニ境ト云フ所有リ、其ノ時ノ境ナリ、

 この「下条記」の記事が示すように、文明年中(1469〜1486)に阿知川を越えて小笠原領のこの地まで進出した下条勢が、新関(前線基地)を東山道の路線上に造り、道路は100mあまり東方へ迂回することになったと考えられます。「境」という地名は、江戸時代にはこの絵図で見るように、竪町と横町の道路に囲まれた広い地域の名称でしたが、明治時代の土地台帳では現在のセブンイレブン寄りの一隅に「境田」という小字名になって残っているだけになっていました。

 この絵図でもう一つの発見がありました。それは上中関村の北・東・南の三方の村境が道路境となっていることです。北といっても北西方向ですが、図のように「大道境」と記されています。ここで「大道」というのは伊那街道のことで、実際にはもっと直線的で、伊那街道は古代東山道の上に乗っている−−という論考の発端になったところです。

 ところが上中関村の境界道はここだけではなく、東方の高須藩松平氏領の竹佐村との境も半分以上が道境なのです。これは現在、化成工業やミカレディ工場のある道で、昔は桑畑の中の一本道だったと思います。村境の道(境界道)というのは、古くからあった比較的重要な道路を境界として集落(村)が形成されたことを示しますから、その道がどのような役割りをもっていたかを考えると、興味深いものがあります。

 もう一つ、上中関村の南面の境界は同じ幕府領の中関村ですが、ここがやはり道路境になっています。上中関と中関は古来一村で、太閤検地の検地帳も中関村一つで上中関はありません。鎮守神も春日神社で一緒です。地誌にも一村であったのが江戸初期に旗本市岡氏の領地となったとき別村になったと書かれています。
 しかし、天正六年の上諏訪造宮帳に「北関之郷」「中関之郷」とある「北関」のなぞがこの境界道で解けそうです。この絵図では中関村との境が直線で「道境」と描かれていますが、直線部は中央の畑地の区間(阿智高校と盟和産業の間)300m余だけです。それが古い境界を暗示しますので、太閤検地以前にも別集落として「北関之郷」の存在が実証されると思います。
 (H10・5〜6)