NPO東山道神坂総合研究所の主催、阿智村の共催で、3月5日にコミュニティー館ホールで行われた記念講演会のメモです。内容が斬新で、大変中身が濃かったのですが、プロジェクターを使った説明を正確にメモできなかったのが残念です。何かの機会に資料を取り寄せられたら、補足したいと思います。
祝辞:岡庭 一雄 氏(村長)
昭和43年に神坂峠の発掘調査をした頃の思い出話を交えて
富士見台の放牧牛を管理するため使われていた万岳荘に泊まり込みで発掘した話など
挨拶:原 治幸 氏(阿智村文化財委員長)
神坂峠等の遺跡発掘の思い出(中原遺跡が桑畑だった頃の思い出も交えて)
石製模造品の紹介(川畑遺跡)、県宝指定の経緯の紹介
白い鹿にも例えられた荒ぶる神とは、霧や雷を始めとする自然現象への畏れか?
県宝指定の石製模造品の時代に限らず、縄文時代の遺物や、その後の時代の陶器も発掘されている
(鉄剣は中まで錆びていて指定に至らなかったこと、トラック一杯の陶器の話)
講演1:北條 芳隆 先生(東海大学助教授)
○原東山道と、官道としての東山道(8世紀〜)は区別して考えなければならない
*石製模造品の作られた時期は5世紀で、伝応神天皇陵の作られた古墳時代である。
○道の形成には人の動きが関係しており、政治的背景の他に自然環境の変化が関係している
→花粉を調べて気象変化を追うと、3〜7世紀は寒冷期だった(古墳寒冷期)
○古墳時代以前(2世紀頃)は、信濃川を遡り関東に至る人の流れが主流
→朝鮮製の剣や腕輪が、善光寺平〜関東で出土、人骨に朝鮮系の特徴
→善光寺平の前方後円墳の背景には、日本海側から海路で関東へ入る人の流れがある
○前方後円墳の大きいものは近畿地方の他には関東地方に多い。
→榛名山麓での古墳形成は、北陸・東海方面からの人口流入が関係している
→寒冷化に伴い、移住による水田開発(食糧確保)が必要になり、新しい集落が形成
*飯田エリアの前方後円墳(6世紀)の背景には、神坂峠を越えて関東に至る人の流れがあるかも
*離れた地域での古墳の類似性や出土品の比較(埴輪など)が必要
○石製模造品については、作られた場所や使い方に謎がある。朝鮮半島との比較も必要
講演2:松本 建速 先生(東海大学助教授)
○正史に書かれていることを、そのまま事実とは認められないが、文献の比較で分かることもある
*古事記は8世紀、万葉集は7〜8世紀、官道化は8世紀〜(大宝律令後)、延喜式は10世紀
*石製模造品の時代(5〜6世紀)より後の時代の様子が記述されている。
○文献の記述を比較して、「荒ぶる神」の正体に迫る
○「荒ぶる神」という表現は、古事記に見られる表現。
*用法は、荒ぶる神を言向け、まつろわぬ(従わない)人等を平らげる
・熊野の山、山河の荒ぶる神 :自然
・東西の荒ぶる神、東の方十二道の荒ぶる神:人
・荒ぶる蝦夷(1カ所のみ:後に書き替えか) :人
○日本書紀では「蝦夷(えみし)」に置き換えられている
*毛人(えみし:当て字)→蝦夷(えみし)→蝦夷(えびす・えぞ)と、読み方や字が変化している
*信濃→北関東→東北・北海道と、エミシの世界との境も動いている
*いずれも、境の外の存在(異国、異民族)を表す相対的な言葉
○石製模造品の祀りは、なぜなくなってしまったのか?
*自然環境は今も変わらず厳しい。境の変化により、峠の神への祀りが必要なくなった?
○石製模造品に使われた結晶片岩(緑色片岩)は、加工しやすく光沢が青銅に類似している
*一般には滑石製と総称されるが、成分分析の結果、三波川帯の岩石と特定できる
講話「石製模造品に魅せられて」:原 隆夫(阿智村文化財委員)
○石製模造品は東山道ルートの重要地点を示す遺物として注目されたが、
古墳時代の住居跡からも出土することから、集落の祭祀に関わる物もあることが分かってきた。
○このことから、古代東山道が中原遺跡を通る必然性(中通り線)はなくなり、上手線が有力になった。
○石製模造品は役場や公民館に収納されていたが、平成17年9月に「長野県県宝」に指定され、
元信用金庫跡地を「文化財センター」として借用できる運びになった。
○県宝指定に尽力した井原由雄さんが、17年3月に急逝したのは痛恨の極みである。
【添付資料】
*「桑畑の中の考古学(原 治幸/伊那 S46.3月号)」
*「千五百年前のお賽銭(原 隆夫/南信州新聞 H17.1.5)」
*「阿知駅以東の推定路線(原 隆夫/H13東山道サミット資料)」