1990年2月26日〜3月1日
運転手は列の最初から順番に乗せるのではなく自分の好き勝手に客を拾うのです・・・ | |
コップがプラスチック製だったりするのが本当にわびしいですね・・・ | |
優雅な王宮に比べ、手前にずらりと並んだ車のみすぼらしさ・・・ | |
「共産主義様式」とでも呼ぶべき無味乾燥な建造物群ですが・・・ | |
年金暮らしのお年寄りが日々地味に生活する分には問題なさそうで・・・ |
ライプチヒを19時20分に発つ列車に乗りました。しかし、途中の駅でえらく長く停車したりしていて、とうてい時刻表通りに運行していないようです。何のアナウンスもないまま、目的地に1時間以上遅れて到着しました。ドイツ人なんだから日本人と同じように時間には正確なのかと思っていましたが、少なくとも東ドイツでは全くそんなことはないようです。
ドレスデン到着直前、下車しようと降車口の前で立っていたら、若い男性から英語で話しかけられました。みると白人ではなくアジア人です。東ドイツにはこのころなぜかベトナム人がたくさん(出稼ぎで?)いたのですが、彼はカンボジア人で、留学中だというのです。久しぶりに同じアジア人をみて、懐かしさに話しかける気になったのでしょうか。カンボジア人としてはベトナム人に対して複雑な感情を持たざるを得ないでしょうが、私はベトナム人には見えなかったようです。
結局、夜遅く着いたドレスデンで、彼に宿泊先のユースホステルまで連れて行ってもらい、本当に助かりました。駅でタクシーを拾おうとしても順番待ちの人で長蛇の列、しかも運転手は列の最初から順番に乗せるのではなく自分の好き勝手に客を拾うのです(東ドイツではレストランでもどこでもやたらと行列ができるのですが、だいたいこの方式でランダムに客を誘導するので、いつまでも列が解消されません。店内に入るとそれほど混んでいなかったりするのです)。我々もアジア人だからか何台にも乗車拒否され、ようやく乗せてもらったタクシーであちこち迷いながら、やっとのことでホステルにたどり着き、おまけに固辞したのにも関わらず、カンボジアの彼がタクシー代まで払ってくれてしまいました。このあたりアジア人としてよくわかる感覚ではあります。
私を助けてくれたカンボジアのHing Chandaraさんがくれた名刺。日本語でどのように書き下すのかはよくわかりません。何しろろくにお礼もせずにお別れしてしまったのが心残りです。できれば改めてお礼を申し上げたいのですが、いくらなんでもいまだにドイツにいらっしゃる、ということはないでしょうね・・・。 |
正確にいうと、ドレスデン市内ではもう宿はいっぱいとのこと(後で触れますが、どうもお祭りが開催されていたせいらしいです)で、その近郊のラーデボイル(Radebeul)という町のユースホステルに泊まりました。
翌日からドレスデンの町を歩きました。
古都ドレスデンには西側と同じような高級ホテル(当時の名前はHotel Dresdner
Hof、今はHilton Dresden!)もいくつかあり、夕食だけはそこのレストランでとったりしました。ちょっとした贅沢です。 あれこれ食べて腹一杯になっても18マルクちょっと。これは東側のマルクですので正規レートでも1マルク30円くらい、換算すると540円!本当にプチ贅沢です。 今じゃさすがにこうはいかないのでしょうね。 |
ドレスデンの町には戦災で破壊されたのち復活した歴史的建物があちこちにあります。これはオペラハウス(歌劇場)。19世紀前半に建築家ゼンパー(Gottfried Semper)により創建されたためゼンパー・オパー(Semperopfer)と呼ばれるもの。その後火災に遭うも再建、第2次大戦でまたも破壊されましたが1985年にまたまた元の姿のまま復活。こういうしつこさは我々日本人にはありません。 | 夜の十字架教会(Kreuzkirche)。ここはハインリヒ・シュッツ(バッハより約100年前に活躍したバロック初期の作曲家)ゆかりの教会です。夜、ライトアップの明かりを頼りに撮影したのでよくわかりませんが、外壁には先の大戦で爆撃されたときについた焦げなどがはっきりと認められます。バラバラに散らばった破片を一つ一つ拾い集めてレゴブロックみたいに組み立て直したわけ。石の建造物ならではとは思いますが。木造建築では全部燃えてしまいますから。 |
ツヴィンガー宮殿(Zwinger)。ザクセン王国最盛期のフリードリヒ・アウグスト王(Friedrich August,またの名をアウグスト強王August der Starke,在位1694-1733)が離宮として建てたものです。 この年、私が訪れたときはあちこち修復の最中でした。この大屋根も足場で覆われています。 |
バロック様式の建物ですから、装飾過多とも思えるほどあちこちにこんな彫刻が配置されています。これは私が気に入ったもののひとつで、上目づかいで重そうにしている表情がいいですね。 |
ここも爆撃で大被害を受けていますので、彫刻も破壊されて足りないものがあるわけです。そこで、宮殿の構内にちょっとした工房が設けてあり、こんな風に復元作業もしています。それにしてもそっくりに仕上げるものです。 | ドレスデンはエルベ川に沿って発達した町。この川が旧市街と新市街を隔てているのですが、今まで見てきたのは旧市街。これから新市街に入っていきます。 その前に目に入るのがこれ。川沿いにこのような石畳の道が続き、実に美しい風景を形作っています。これがドレスデン随一の名勝”ブリュールのテラス(Bruehlsche Terrasse)”。ゲーテが「ヨーロッパのバルコニー」と評したことでも有名です。 |
まあ、確かに絵のようにきれいです。これというのもかつて王宮文化が花開いたからなのでしょう。 |
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こういうところだけ見ると「ドイツの町並みは美しい、それに引き替え日本は・・・」と「あちら出羽守」になってしまいそうになりますが、いやいやどうしてどうして、このドレスデンにも汚いところはいっぱいありました。 エルベ川に架かる橋のたもとに公衆便所があったのですが、そこはドイツには珍しく常駐の管理人がいなかった(ドイツの公衆便所にはたいてい管理人のおばさんがいて、タオル代などの名目で小銭を取ります。これが管理人の報酬なのだそうで、そのかわりトイレの中はぴかぴかです。なにしろおばさん、この中でお茶を飲んだりして1日過ごすわけですので、掃除にも身が入ろうというもの)ので、もう地獄のように汚い。う**だらけ。和式の便所は多少汚れていても何とか使えますが、洋式便器はもうどうにもなりませんわ。泣きそうになりながら中腰で用を足しました。 おまけに目つきのおかしい男どもが用を足すでもなくうろうろしていまして、加えてなぜかコンドームの自動販売機が設置されているあたり、何とも怪しい雰囲気を醸成しておりました。写真なんか撮ると恐ろしいことになりそうでしたし、どうせここに載せられるような生やさしい状態ではありません。早々に退散しました。 |
ドレスデンは歴史的町並みで有名ではありますが、もちろん新しい建物もたくさんあります。だいたいどれも東ベルリン・アレクサンダー広場で見たような「共産主義様式」とでも呼ぶべき無味乾燥な建造物群ですが、そんなところにも普通の人々の普通の生活がありました。戦後日本文化の申し子たる私としては、重厚さで胃もたれしそうな歴史的町並みより、むしろこちらの方に親近感を覚えたりするのです。
何ともすばらしい歴史的遺産に恵まれたドレスデンですが、もちろんそこに住んでいる人々は普通に暮らしているわけです。
共産圏というと物不足でみじめな暮らしという印象が大変強いわけですが、実際行ってみると車のような耐久消費財はともかくとして、食料品などはまずまず充足している(ただし質を問わなければ)ようでした。さすがにかつて社会主義の優等生と言われただけのことはあるということでしょうか。年金暮らしのお年寄りが日々地味に生活する分には問題なさそうです。