1990年2月23日
この学生たちがビールを浴びるように飲んでにぎやかなことといったら・・・ | |
日本人的感覚だと駅で入国審査なんて考えられませんが・・・ | |
旅行中の宿泊先を全部決めて予約を取った上、それを証明する書類を持って警察に行き・・・ |
フランクフルトで西側の食い物にしばしの別れを告げ、中央駅から東ベルリン・フリードリヒ通り駅行きの列車に乗りました。もちろん2等車。
6人乗りコンパートメントに中年女性1人とフランクフルト大学の学生−ペギー、トーマス、ハノスの3人、そして私の計5人が乗り合わせました。この学生たちがビールを浴びるように飲んでにぎやかなことといったら。夜行列車だったのですが全く眠る気配を見せません。中年女性も苦笑いしていました。
学生3人は西ベルリン出身で、これから里帰りするのだとか。また、3人のうちの1人ハノス君はお父さんがカナダ人、お母さんがドイツ系アメリカ人で、今は両親とも西ベルリン在住なのだとか。従ってドイツとアメリカ両方の国籍を持っており、パスポートもそれぞれのものを携帯していました。知識としてはこういうことがあるということは知っていましたが、目の当たりにすると日ごろ確固としたものと感じていた「国籍」ってなんなんだろうと、あらためて考えてしまいます。
西ドイツから東ドイツへ、そして東ドイツから西ベルリンへと、夜中に2回国境を越えて、そのつど係官が乗り込んできてパスポートチェックをするのですが、上記のとおりどんちゃん騒ぎしてましたので、全く緊張感のないまま過ぎ去ってしまいました。
東ベルリン領域内に入った直後の車窓から見た風景です。手前半分は東ベルリン、向こう半分が西ベルリンの町中です。西ベルリンでは道行くバスもカラフル、建物もこぎれいで、まあふつうの西側の町、という感じ。これからしばらくはお目にかかれない種類の風景です。 | 7時50分、やっと東ベルリンのフリードリヒ通り駅に到着。この駅は東ドイツの入管も兼ねています。ここの係官がまた絵で描いたように権威的で、共産圏の雰囲気を生身で体現していました。 日本人的感覚だと駅で入国審査なんて考えられませんが、国境が陸続きだとこういうこともあるわけです。分断国家とはいえ、鉄道が通じているだけまだましなのでしょう。韓国と北朝鮮の間にはそれすらないのです。 それにしても、東側に入ってから、突然建物がぼろっちくなったのには驚きました。人々の服装も西側に比べると何となく地味というか、質が悪いというか、明らかに貧しさを感じさせます。 |
アレクサンダー広場の朝ぼらけ。ひたすらだだっ広く、周辺には無駄に巨大な感じのビル群が林立してます。ビルのデザインも実用1点張りというか、おもしろくも何ともないものばかりです。 | 東ベルリン名物、テレビ塔。上の丸いところが展望室やレストランになっています。 それにしても共産圏の国家は巨大建造物を造るのが好きだ・・・。ちなみに高さ365m。東京タワー(333m)よりちびっと高いわけです。球形部分まででも200mほどあります。 |
実はアレクサンダー広場駅でもらった入国許可は「24時間パス(ちなみに発行手数料は5マルク、しかも西ドイツマルク立て。当時450円くらいか)」で、有効期間は24時間のみのものでした。東ドイツ国内を旅するためには、旅行中の宿泊先を全部決めて予約を取った上、それを証明する書類を持って警察に行き、期限付きの滞在許可を取らなければならないのです。ああめんどくさい。
とにかく旅費を安く上げるにはユースホステルに限ります。そこで、東ベルリン市内のユースホステル協会で、2週間の滞在分303マルク(またしても西ドイツマルク、27000円くらい)を払い、滞在予定の都市名を告げて宿をとってもらいました。で、その証明書を作ってもらって国営旅行社(Reisebuero)に行き、15マルク(またしても西ドイツ 以下省略)で滞在許可証明書を入手。ようやく天下晴れて東ドイツ領内を堂々と旅することができます。