1, 雑記帳 (1) 2002/10/21-2003/4/23(公開以前)




 今夜はサイト公開に向けて、トップページのフラッシュアニメーション1号を手直しした。今回は文字を入れ、しかもエフェクトを加えてみた。まあ、最初に作ったものに比べてみれば多少なりとも見られるものになったように思う。

 さて、滞りがちだった最終の手直しも終わりつつある。もうそろそろホームページスペースの申し込みをしておこうか。

 2003,4,23



 本日、自前のフラッシュ・アニメーションを作ってみた。これは本サイトのトップページの味気なさを、多少なりとも動きのある要素でひとひねり加えたく思っての事である。まあ、それを後押ししたのは興味本位を過ぎたるものではないのだが。

 今はこの手のアニメーションを作るフリーのソフトがあるので、思っていたよりもに簡単に作ることが出来た。しかし、簡単にとはいっても原画を作るのはそれなりの労力が必要である。たかだか数秒の動画を作るのに200枚近くの原画が必要であった。今回作ってみたものはもちろん第一作目なのであって、その出来具合などは評価の対象にさえならない程度のものに過ぎないが、ともあれ、初めて動くものを作ることが出来たので、それはそれとして良しとしよう。

 今後、この手のものを作ってみるかは思案中。原画を作ることの煩わしさがあるので。

 2003,4,16



 ただ今、最終的なチェックを断行中。しかしながら、当初の気がかりが現実味を帯びてきた感が若干ながら感じられる・・・。というのも、本サイトは私が全くひとりで製作、運営(しようと)しているのであり、未だ公開前の段階ながら内容的に肥大化が進み、細かな点にまで目が行き届きにくくなってきているのである。しかも(よせばいいのに)今後さらに追加してみたいものも控えているのである。もちろんそれは、公開後の然るべき時までは手をつける事はないのだが、それにしてもよくもここまで・・・自分でも半ば呆れてしまいそうである。まあ、自分で仕出かした事である。しかも自分の意志によって。さて、くどくどと言っていないで作業の続きに取りかかる事にしよう!

 2003,4,8



 さあ、長かった(実に・・)準備期間もまさに終わりに近づき、公開時期も秒読み段階だ!・・・と、思いきや数箇所に未解決のまま残っていた不備を発見。・・・という事でただ今修正中、である。思えば公開前にしてよくもここまでページを作ったものだなと我ながら感心してしまわずにはいられない。”これを追加”、”だったらこれも追加しよう”、”いや、少し待て。アレがないぞ!”、ここがもう少しこうだったら・・・”等々、そのような自分自身の胸中での葛藤(?)のままにずるずると今日まで来てしまった。まあ、もうそろそろ踏ん切りをつけようではないか!。さもなくんば永久にこのサイトは日の目を見る事もかなわない危険性すら現実味を帯びてくる・・・。ともあれ修正である。しかし、まだ他のところにも小さな不具合があったような・・・それは私の記憶違いであろうか?いや、そうに違いない。・・・そうあって欲しい(本音)

 2003,4,4



 さて、土壇場になって急遽追加してしまった”音楽室”も、その第1回目を書き終える事が出来た。今後も時機を見ながらシリーズものとして続けていきたいと思う。まあ、これでひとまずは本サイトの体裁も、一応は整ったと思えるものとなった。あとは全体を一通り見渡して、ある一定以上の問題がなければ晴れて一般に公開という運びである。ともあれいい加減に事を成したいものである(我ながら・・・)。

 2003,3,25



 本サイトのコンテンツ充実の一環として”音楽室”を追加したのはいいのだが、実際の譜例を作るという事は思いのほか面倒な作業であるという事が判明・・・。まあ、時間を見計らって気長に進めたいと思う。・・・(苦笑)

 あと、音名表記の統一規格としてドイツ語表記を用いる事とした。これは私自身が使い慣れているという事情があるからに他ならないのであるが、便宜を尽くして英米系の表記との対応表をのせた(しかも読み方まで・・・なんと親切な人であろうか!=自分)。

 2003,3,14



 本日、”音楽によせて”の項目に”音楽室”を追加。・・・というか”追加してしまった”というべきか・・・。というのも、本サイトにおいて項目が増えるという事は、言うまでもなく私自身の作業量が増えるという事である。私が今、真にやらなくてはならぬ事・・・それを考えた場合、大いに?である。しかし、すでにもう書き始めてしまったので取り下げたくもない。とりあえずはコンテンツ・アップ、サイトの充実とやらで前向きに行きたいと思う・・・。ちなみに内容は12音技法について、である。

 2003,3,11



 そう、今日になって気が付いたことがひとつあった。つまり、本サイトとあなたとを結ぶ窓口についてである。それは無論、E-Mailの事である。今までもこの窓口については設置してあったのではあるが、何分トップページの一番下の部分に申し訳程度に置いてあったにすぎない。しかし、これではせっかくE-Mailで文句のひとつでも書いてやるかという人がいたとしても、その人に対してあまりにも失礼ではなかろうかと思い、改めてE-Mail用のページを設ける事にした。名付けて”E-Mail 投函箱”という(ありがち・・・)。

 このページへのリンクはトップページの”表記事項”下段と、左側の項目案内フレーム内に独立した項目として追加した。

 さて、それはそうとして、果たして私のもとへメールは届くのだろうか?私にとって有意義なあなたの声。

 2003,2,27



 ただ今、本サイトの表題、すなわちトップページを改装中。今までは3つの大項目のリンクと説明文をを縦一列に配していたのであるが、今回はそれを改め、2列に配置し直した。何故なら1列に配置した場合、どうしても縦方向のスクロール量が大きくなってしまう嫌いがあるからである。私のように製作する側にとってみれば特に煩わしい事とは思えなくとも、いざ閲覧する人の側に立ってみれば、やはり見渡せる範囲がより効率良くまとまったかたちで提供されていた方が良いと思われるからである。

 しかし大変な事は、そのような改装に踏み切った場合、当の改装部分が同一ページの他の要素に与えるデザイン的影響は無視できないものがあるという点である。したがって、部分的改装を施した場合、それを含むページ全体をもう一度見直し、その上で再構築していかなければならない。特に今回のようにトップページの改装ともなると、その影響が及ぶ範囲は意外と広いものである。すなわち私の場合、表題としてのトップページはサイトの顔(変な)であり、そこにあるデザイン的要素を統一的基準として、他のページの体裁をそれに基づいて整えていくからである。だから今回もその関連性から、他のページも一部、手直ししなければならない必要があるであろう。これがまた面倒な作業である。しかしその上で重要な事は、その影響の及ぶ範囲の見極めと、その地点に立ちつつ、ならばどこまで手を入れられるのかとの判断である。やりすぎは往々にして失敗を招くものである(実はよくやってしまう)。

 2003,2,22



 今夜も少々、本サイトのデザインを手直ししてみたのであるが、どうもしっくりとしないところがある。どこがどうという訳ではないのであるが、今一歩納得しかねている・・・。もっとも、3ヶ月ほど以前のものと比べたなら随分と私の意に添うものに近づいてはきている。そのころのものときたら全くもってお恥ずかしい限りの代物である。とても人様などには見せられたものではない。そのことを考慮すれば現状は良しとしておこう。

 しかし、まだ何かしっくりとしない・・・。それはどこなのだろうか?

 2003,2,12



 ”一体、いつになったら公開するのか?”という声が私の周りから聞こえてきそうである。本サイトも今の時点ですでに公開に踏み切っても差し支えない程度にはその体裁を整えては来ているが、しかしながら私の考えるところによると、未だ整わざる弱さというものが見え隠れしている以上、おいそれとは公開に踏み切るわけにも行かない。いや、必要以上に慎重になっている訳ではない。またそうする必要もあるまい。では何が私を踏み止まらせているのか?ひとつには”時”である。私と私を取り巻く状況との関わりを含んだ”時機”である。これは別に何某かの戦略が有るなどということではない。これは多分に私自身の感性的な部分によるものなのであって、この事を適切に説明する事は難しいのであるが、簡単にいってしまえば私にある種の”ふんぎり”がつけばあとは半ば自動的に事は運ぶであろう。

2003,2,11



 今日は新キャラクターを2種、いや2匹追加してみた。ネコとオオカミ(どう見ても毛並みの悪い座敷犬にしか見えないが)である。何ゆえそうなのか?実のところ私にもわからない。強いていえば自由な即興性に基づく些細ないたずら書きと、単調な空間に質的変化を伴う対比物として与える事との意味的混合物とでもいっておこう。さて、今後どのように飼いならしていこうか?

2003,2,9





 本日、少しばかりの記事を書き足したのであるが、そこで改めて思う事は”我ながら文才が無いなぁ・・・”という事である。頭の中ではある程度まとまっていたとしても、いざ書き出したとたんにまとめておいた紐が緩み始め、ひと段落する頃にはもとの形を留めていない事などはしばしばである。しかしここで嘆いても仕方あるまい。文才に乏しいのならそれなりに努力せねばなるまい。

2003,2,8






 気になり始めたら徹底的に気になってしまうというのは人間の人間たる特徴である。ましてや私などはその傾向性が強いようである。何に対してそうなのか?それは別項”作曲小屋_1,作曲のための道具”でも紹介した、いわゆるPC騒音に対してである。私のように”音”を扱うための環境の中心的役割を担わせるためにPCを運用する都合上、これは避けては通れぬ問題ではある。しかし、どうにも我慢がならなくなってきた。時には苦痛ですらある。だからWEB上にて静音関連の情報をいろいろな角度から集めているところである。間違ってもメーカーや、販売する側の謳い文句を鵜呑みにしてはならないであろう。そのほとんどが当てにはできないであろう事は容易に想像がつく。ならばどのような情報がより強く妥当する情報たり得るであろうか。それはやはり実際に何某の製品を使ってみた上でのユーザーの意見である。勿論、その場合でも使用した製品の個体差、当たり外れ、また使用環境の差や使い方などの違いによって、その評価も正当性を欠く場合が多々有り得るのではあるが、しかし、メーカー等の売り込み文句に対すれば、よほど参考になるものである。

 その様な訳で私のPC騒音対策としては、いくつかの目ぼしいところを押さえてある。騒音の発生源とその改善すべき順位は心得ているつもりである。ハードディスク(波形データ用Eドライブ)に対しては”アレ”を使い事になるであろう。CPUクーラーには”アレ”もしくは”コレ”で手を打ちたいと思っている。その他の排気ファンには”アレ”が良いと思う。また更には本体の防音・吸音・振動対策についても”アレコレ”と検討しているところである。しかしながら、このような対策にはそれ相応の費用がかかるのもまた事実である。したがって、今すぐに対策を講じる訳にもいかない。PC騒音対策とは意外と高く付くものなのである。今はまだ冬場なので廃熱に関してはあまり気にしてはいないが、春を迎え、夏がやって来る頃にはこの廃熱と静音という相反する要素を前にして私は大いなるジレンマと付き合わねばならないであろう。

 PCの静音化とはある意味では他の性能を低下させる事である。難しい問題である。私としては現状の性能はいささか足りとも譲れないが、さて、どうなる事かは後のお楽しみとして、といったところか。具体的に何らかの対策を講じた場合は報告してみたいと思う。

2003,2,4



 現在、”音楽によせて”の項に記載すべく記事を推敲中である。私の場合、この推敲作業が手間取る事甚だしいのであるが(最初は紙のノートに殴り書きしてゆく)、その後ある程度内容的にまとまれば後は一気呵成にページ上に打ち込んでしまう。この際、推敲ノートの内容はそのまま書き込まれることはなく、文脈のガイドラインという程度の役割しか果たさないというのが常である。だから往々にして話の筋があらぬ方向へ進んでしまう事もしばしばであり、それを制御する事はそれなりに大変な事である。ともあれ早い時期に記載したいと思う。なにしろ次のテーマが控えている。私の記すべき事はまだまだ多いのである。

 さて話は変わって、前回記したところによると、”私の場合、音楽と関わる中において時間を計測する必要を迫られる事がある”また、”そこで登場となるのがストップウォッチの類なのであるが、最近ではほとんどがデジタル式のものであり(私はこの手のものは好まない)等云々・・・”という事であったのであるが、その後、ものは試しにWebを検索したところ、ドイツの機械時計メーカーであるHanhartのサイトで私の意に沿うようなものを見つけてしまった。これは手巻き・機械式によるストップウォッチであるのだが(まるで懐中時計のようだ)、現在の技術的主流からすれば全くの前時代的であるかも知れないが、何ともいえぬ味わいを醸し出しているではないか。このようなものを今でも作り続けているメーカーも有るという事である。あと、かなり前にスイスあたりのメーカーで、然るべき分野に特化した機械式ストップウォッチを作っているところがあったように記憶しているが、今は思い出せない。

2003,1,16



近頃残念に思う事・・・個人的願望の表層部における所感

 私の場合、音楽と関わる中において時間を計測する必要を迫られる事がある(ここではその詳細は割愛)。そこで登場となるのがストップウォッチの類なのであるが、最近ではほとんどがデジタル式のものであり(私はこの手のものは好まない)、アナログ式のもの(昔の陸上競技大界などでよく使われていたようなタイプ)は見かけなくなってしまった。そこで代用として使うのが、腕時計のクロノグラフ機能である(現在は手持ちのSector旧450)。

 上記の理由を機縁として、私は時計の世界にも関心を向けているのであるが、しかしギリギリのところで歯止めをかけるべく意識付けは怠らないようにしている。何故かならばそれは、この分野においても多分にもれず、妖しくも魅惑的な引力を有しているからである。それは私の欲望中枢を侵食しようとする・・・。

 さて、斯くも危険を孕んだ世界であるが、その中において、まさにそのような世界に属するものとして、私に向かってただならぬ妖気を放っていたものが、知る人ぞ知るドイツ・Sinn(ジン、ドイツ語的にはズィンがむしろ適当だろう)社の”503.EZM1”である(準じて他にもあるが割愛)。この時計、いや”出撃用計測機器”に冠せられたEZMとはEinsatzzeitmesser:アインザッツツァイトメッサー、生命に及ぶ危険を伴う出撃に際して、その任務遂行時間を計測するための時計装置を意味するとの事で、それに見合ったかなり特殊なスペックを実装する。実際ドイツでは然るべき機関に配備されているらしい。特筆すべきはクロノグラフでありながら、各積算計文字盤は省略され、中央4針計による計測方式を採用している事であろう。徹底した不必要要素の排除、大ぶりな本体ではあるが、材質にチタンを採用する事によっての軽量化。そして出撃時刻を一点に見定めるためのカウントダウン式回転べゼル。内部的には特殊オイルとドライカプセルの採用等・・・。虚飾やファッション性などとはもとより無縁である。有るのは生きる事と死ぬ事とが不可分となった領域での冷厳なる時間の経過・・・。このような代物が果たして市場に出回っているというのも驚異的ではあるが、それにも増してその当体から発せられる極限性、特殊性、その出生の使命を遂行せんとするひたむきなる合目的性には強烈なものが感じられる。私にとってはまさに不世出の逸品である。

 しかしながら、ムーブメント(時計の中身。EZM1の場合はレマニア5100)の生産・供給の停止に伴い、廃版になってしまったとの事(同じく名器156等も)。事実であれば何とも惜しい事であり、残念な事である・・・。

2003,1,11



創作環境の再構築・・・・という程の事でもないのだが

 私の場合、例えば音楽作品ひとつに取り掛かろうとする時には、傍から見て如何にも慎重すぎると思われるほどの入念なる下準備を要する事はしばしばである。まず必要となるのは、その作品に必要な素材構成に基づく譜面用の紙である。これは作品ごとに、それにおいて如何なる音源を如何なる手法でもって、如何に組織立てていくのかの違いによって、当然そのフォーマットはその作品専用のものとなる。つまり、作曲の具体的作業に取り掛かるに先立って、これからまさに創り出されんとする音楽そのものを、ある程度は見通す事が出来る段階になければ用意出来ないという事である。この段階に至るのが最も大変な要件である。然るべきパラメーターは明確さのために書き出して整理しておくべきであろう。次いでMIDI音源等の取り回しや配分に心を砕き、用いられるべき音を必要な条件に沿ったかたちでエディットしてゆく。さらに物理的環境条件として、作曲小屋内部の温度や明るさ、何をどこに配置するか、視覚的に邪魔なものは無いであろうか?筆記具やパラメーター計算のための電卓の電源は大丈夫であろうか?最初のひと書きに適した時間帯は?天候は?もし人が尋ねてきた時はどのような対応で?・・・・挙げればきりのなさそうな話ではあるけれども、私にとってはやはり、ある一定以上の条件的水準を満たさなければなかなか取り掛かりにくいのである。勿論、状況によっては妥協しうる事もあり得るのだが、極力、万全の体制でもって作曲に臨みたいものである。見切り発車など私には出来ない。これはどうしようも無い私の個性である。

 さて、このような一連の要件に応ずるところの作業の一貫としてこの度、楽曲のデータ作成、及び再生機能を担うものとしてのコンピュータのチューンアップを試みた次第。いや、このような事は日常茶飯事であり、普段より、例えばレジストリ・ファイルや.iniファイルなどをいじくるような事はよくやっている(いわゆる裏技)。しかしながら、今やすでに現状でのチューンアップは頭打ちの状態である。ベンチマーク・ソフト(HDBench3.30)の測定誤差の範囲内をうろつくのみである。最早CPUやハードディスク等の換装しか手立ては無いようにも思えるのだが、そのような資金はもとより無い。

 このような事から、今回はハードウェアの処理速度に関係するであろう、ドライバー・ソフトを最新のものに更新してみることにした。まずはオーディオ・インターフェイス(M Audio/Delta44)から・・・。これは更新なしであった。次にMIDIインターフェイス(EMagic/mt4)。これも更新なし。次にディスプレイ・ドライバ(nVidia)はどうであろうか?これも更新なし。・・・・ということで結局のところ、私の音楽創作に関係しそうなハードウェアのドライバー・ソフトは、どれもこれも更新されてはいなかったという結末。しかしながら、この期に及んではおとなしく後に引くような事も出来ず、BIOS設定を見直してみたり、他に処理能力を高め得るものはないかとWeb上をあれこれと物色した次第。そして今回、行き当たったのがIntelのi850チップセットに対応したユーティリティ・ソフトとApplicationAcceleratorなるソフトである。何やらこれはデータのI/Oやアプリケーションのパフォーマンスを上げるとの事であるが、これの導入によって、その謳い文句のようになったかどうかは分からない・・・。また、SONARのCPUとディスク・アクセスのメーター(余談ながら、この二つのメーターをステータスバーではなく、ツールバーとしてもらえないものだろうか?ステータスバーは邪魔である)はどのような値を示すであろうかと思い、通常私がシステム負荷測定用に使っている作品(12のオーディオ・トラックを持つ)を用いて観察してみた。結果としてディスク・アクセスにはその効果はみられないようだが、CPU負荷に関してはおおむね2%程度改善(?)されているようではある(7〜10%の負荷)。しかしながら、これは他の要因によっている事も考えられるので何とも言えない(そういえば最近、DirectXを9.0にしたのだが、その効果については不明)。ともあれ、たとえ出所不明の2%増とはいえ、精神衛生的にマイナスとなる事もないので良しとしようではないか。




2003,1,4



ただ今製作中

 ということで、公開に向けて急ピッチの作業である。しかしながら急な作業は得てして失敗につながる。これは誰でも知っている教訓である。私もその恐れからもう一度、最初に手を付けた部分からチェックし直している次第。案の定、間違えが散見される・・・そして手直し。そしてあらためて思うのは自分の文章力の無さである・・・自分の思い描いている事を的確に書き記すのは思いのほか難しいものである。

 さて、このような作業をしていると、紆余曲折こそあれ、自分という者はずいぶんと長らくの間、音楽と付き合ってこれたものだと思えてくるものである。かつての自分では考えられないような自分が、考えられないような事を仕出かそうとしている・・・その昔、私は”音楽など目指していて、それで収入があるのか?食っていけるのか?”などといった質問をされたことがある。無論そのような事は私自身分からない事であるし、また誰にも分からない事であろう。だが、私がいつも思っていた事は、音楽や芸術を志す者たらんと欲すれば、その意志の上でそのような事を心配する心がいささかでも有るのならば、その時こそ潔くその道を退いた方が良いだろう、という事である。音楽を追求出来るのは、よほど強い意志を持ち合わせているか、よほどの馬鹿者かでなければ叶わぬものであろう。

 音楽や芸術を志す者にとって、確かに現実というものは厳しい。その意志を貫きゆくにはそれ相応の才能や能力も必要であろうが、今日の資本主義社会にあって、その中に取り込まれてしまった音楽、つまり音楽産業というものが、幅をきかせている現状にあっては、真に芸術を創造しゆく才能を発揮するという事は極めて難しい事に属するであろう。その中にあって如何に多くの才能が、生活のために愚にもつかぬ作品を作り、また芽を摘み取られ、葬り去られている事だろう・・・私の近くに長年、音楽業界の中におられた方がいる。その方は引退間際に嘆いておられた。最早近年の音楽業界というものの中には芸術など無くなってしまった、と。しかしながら、悲観して終わるのは虚しい。音楽といえ、芸術といえ、それは所詮人間の営みである。人間によっていかようにもなり得る可能性がある。私が期待するのは、そのような事を理解しつつ、その意志において自身の価値というものを自ら信頼する事の出来るような若い音楽家、芸術家の陸続と現われる事である。

 つい加速してしまって何やら”音楽によせて”の項にでも記載した方が良かったような内容になってしまったが、ともあれ今夜はこの辺で。



作業風景 製作ソフトはIBMホームページ・ビルダーV6®

2002,12,25



 今夜も本サイトの全般的デザインと格闘した。バランス的に大分整ってきたと思う次第(自分的に)。

 時計に目を向ければすでに午前2時をまわっている・・・今夜はこの辺で・・・

2002,12,22



 このところ本サイトの作業が滞ってしまっていたのであるが、今夜は大幅に全体の統一的デザインの見直しをしてみた。まずは基本とすべき色調を徹底した。これは基本的に白・灰色・黒のモノトーンを主体として、これに青色系統の要素を加味するという方針である。勿論、全てをそれでという訳ではないけれども、必要ではない色の要素は極力排除するようにした。

 次に、各要素間(例えば文章や画像)の”間合い”である。これも重要である。この要素を見誤ると大変に窮屈な印象を受けてしまうだろう。この間合いをどのような割合で取るかによって、ずいぶんと印象が変わるものである。私は文字で埋め尽くされているようなページは御免蒙りたいと思っているのであるが、本サイトはどちらかといえば文章中心の性格を持つのであるから、この事は充分に留意しなければならないであろう。そのうえでもう一度、全体に通底するべく”間合い”を見直しつつ、修正を加えた次第。それがうまくいっているかは、自分ではどうにも判断しかねるが、しかしながらそれは、決して文字を減らすという事なのではなく、あくまでも要素間の”間合い”であり”空間”の配合によって現われてくる、言わばひとつの”奥行き”のようなものである。

 さて、このような修正を加えてくると、各要素そのものにも影響を与えずにはおかなくなる。特に画像の在り方が気にかかり始めたのだ。よって、新しく画像を差し替えてみたり、また色調を調整してみたりと様々な手を講じてみるのだが、これに取り付かれてしまうと、そのいつ果てるとも知れぬ実に微妙な作業に、私の忍耐力は終には敗退せざるを得なくなる・・・。各要素とその間にあるもの。そしてそこを往復させる相互間の影響。それに関わる私の感覚はいやでも疲労し、消沈するほかない。

 ちなみに今回、シュレディンガーの波動方程式を加工した画像を追加した。直線的な要素の只中にあって、うねうねとした何かの象形文字のようなたたずまいが面白い・・・と思った。

 ともあれ、今夜はこのあたりで撤退しておいた方が利口であろう。次回に勝つための戦略的撤退である。(?)

2002,12,19



 ぼんやりと物思いにふける時、ふと私はあらためて世界の存在に驚く。_”そもそも何故世界が存在して、むしろ無ではないのか”_このライプニッツの驚き・・・しかしそれと同時にまた、私の内に現われた世界がではなく、そのように認識し得る私自身が今このように、ここに存在している事に驚異するのである。

 ”私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する”・”まさに世界を超えること、つまり有意味な言語を超えること”(L.ヴィトゲンシュタイン)

2002,12,6





 先ほどまでかなりの雨模様で、おまけに雷まで鳴っていたのだが、今はもうおさまったようである。雲の切れ間には星が瞬いている。そして夜が更けてくるにしたがって気温がかなり冷え込んできた。もう冬も間近であることを感じざるを得ない。

 というわけでこの小屋にも電気ストーブという暖房機器がお目見えした次第。小屋自体が狭いのですぐに暖まる。そして熱い一杯のコーヒー、上着のポケットには何やら煎餅が入っている。これが今夜の私の音楽スタイルか。

2002,11,26



 約2週間ぶりに本サイトの更新作業を再開した。作業が滞っていた理由は特に大した事ではないのだが、私の日常においての些事によるものである。しかしその間、少しばかり音楽についての私の課題について思案したりもしていた。まだまだ思い巡らす事柄は多いのだ。

 ついでながら自作のギター用木製足台が壊れてしまった。脚部に柔らかい杉材を使ったためであろう、木ネジが抜けてしまったのだ。とりあえず補修する事にした。やはり市販のものを使った方がいいのだろうか?。

2002,11,22



 どうやら機を逸してしまったようだ。最近私は、夜明けの東天に昇る、細く欠けた月を写真に撮りたいと思っていたのだが、もうすでに月は新月となってしまったようだ。目的の達成をみるには約一ヶ月を待たねばならない。ついでにフィルムも無かったとはネ・・・。


 貧しい音楽家は節約第一である。・・・という訳で、このスローガンの下に何か実践してみる事にした。まずは身近な事として”節煙”してみる事にした。かれこれ3週間ほどであろうか、今もつつがなく継続中である。

 というのも、以前は1日1箱の煙草を消費していたのだが、一ヶ月あたりの費用も私にとっては決して安いものではないのであって、であるからして取りあえずは消費量を通常の半分に減らしてみたのである。つまり、1日10本、2日で1箱である。そして、それを実践してみれば以外にすんなりと出来てしまうものである。次の段階としては3日で1箱である。

 ちなみに私のお気に入りはMarlboroで、ライターは傷だらけのZippoがふたつ、である・・・。私は不良中年であろうか?

2002,11,7



 今夜は久しぶりに開発が滞っていた”Calmatrix”に新機能を加えてみた。今までは音高を入力するときには、ただ純粋に数値のみで入力してゆくという仕様であったが、今回はこれに加えてドイツ式音名にオクターブ番号を合わせたもの(例えばFis4とかes2など)を入力値として扱えるようにした。何故ならば、0〜127の数字がいずれの音に対応しているのかを憶えなければならない面倒さがあるからだ。もちろんテンキーのみで入力出来るのなら、それに越した事は無いのであろうが(これこそがもともとの発想)、私の場合はむしろ楽譜から直接、音名とオクターブを読み取っていくほうが、多少キーボードを移動するものの、扱いやすいように思われたのである。ともあれこれで音高に関しては二つの入力方法が選べる事になった。が、しかし、相変わらずSONARにおいては機能しないでいる・・・。SONAR2.0においては例のCALの問題点は解決されているのだろうか? ただ、今はそれを願うばかりだ。  (詳しくはこちらへ

2002,11,3



 自分の意に叶った形で何かをしようとする場合、意欲や気力の充実などといったものは大変に重要であるが、この数日というもの、私にはそれらにおいて、やや減退ぎみではある。別にやる気が無いわけではないのだ。むしろ考えるべき事、やるべき事が(特に細かい事が)多くあって、自分の意識がそのそれぞれに分散してしまい、結果として全体に注意が向かなくなりがちなのである。これに焦りなどが上乗せされたりするような事態にでもなれば、状況的には深刻である。早めに打開しなければなるまい。

 このような場合、私はひとつの打開策として読書をする事がよくある。ひとまずは山積する課題の全てを自分から切り離して忘れておいて、気分の転換をはかりつつ、自分に一番近いものを思い起こしながら順に手を付けてゆくようにしている。重症の場合はいっそのこと寝てしまうのもいい。やるべき事が多いわりには時間の無駄では?と思われるかもしれないけれども、しかしながら結果として良い場合が結構あるのである。

 さて、ならばこれから読書でも?それとも眠ってしまおうか?

2002,11,1



画像が足りない


 今、少々の記事を追加していたのだけれども、ここでいくつかの画像が必要になってきた事に気が付いた。私の場合、デジタルカメラの類は持っていないという事情があるので、必要な画像を用意するという事は、実は大変な労力を必要とするである。すなわち、まず銀塩フィルムを買ってきてカメラに装填し、被写体の構図を決め、撮影する。そして現像所に出して1〜2日待つ。現像所から仕上がってきた写真を取りに行き代金を払う。その後自宅にてプリントをスキャナー(大変に遅い!)で取り込みデジタル化する。それを保存して再び読み込み、縮小、減色、色調調整などの編集をする。ここでようやくページに張り付けてみながら調整する。たかだか数枚の画像を用意するだけでも通常これだけの工程を必要するのだ。もちろん、先を見越して必要となるであろう画像はあらかじめ撮影しておくのであるが、であるからこそ、その中に含まれていない事に気づいた時の落胆は大きい。

 最近のデジタルカメラであれば、少なくとも時間的労力くらいは軽減されるのであろうが、通常の銀塩写真でもそのかかる労力にさえ目をつぶれば結果として同等なものが得られるのであるから、とりあえずは現状維持という次第。しかしながら、かかる労力がもう少し上乗せされたならば、間違いなくデジタルカメラを導入するだろうに、かかる労力はいつもうまい具合に臨界点に留まっている。だからその均衡の上に、ある種の軋轢を感じながらもしかるべき作業をこなしている。なかなか良く出来たバランスである。

 もともと私は写真を撮るのは好きであった。かつては自分で現像したり、焼付けもしたりした。この場合もそれなりに手間はかかるのであるが、しかし、それは通常の鑑賞のための手作業による過程なのであり、その手間さえもひとつの楽しみなのであって、今の話題におけるそれとは問題の感触がまるで違うのである。

 ちなみに私が使うカメラは往年の名機Canon F1(後期型)である。もう20年程の付き合いであるが、いまだに故障した事はない。非常に堅牢で信頼のおけるカメラであり、本物を感じさせる何かがある。これを使い続けた手には、今時のプラスティックのおもちゃのようなカメラはなじまない。

2002,10,30



 このKompositionhutteに記すための文章を組み立てるということは、私にとって今や神経を使う部類の作業になってしまったようだ。なぜなら私の意図するところのものを、このような文章にするのだけれども、果たしてあなたがその意図するところのものを、そのまま理解してくれるかどうかは原理的に私には分からないという事情があるからだ。あなたは一人ではない。その複数の、一人ひとりのあなたが、それぞれにおいて(単純明白なことは別しても)同一の見解に達する事は望むべくも無い。

 私が常々思っている事は、恐るべきは憶見、憶測の類であるという事、である。それは通常、日常的に我々が、自分が認識しつつある、何らかのものについての理解には少なからず憶見や憶測などの推論が含まれているからだ(その態度が正当である場面もあるのだが)。それは時として大きな誤解や曲解、あるいはそこに感情的なものが入り込み、思い込み、偏見などの始末の悪い独断的見解に至るような事も多々在り得るだろう。しかしながら、いつも憶見や憶測無しに物事を認識しようなどという事は、普通の人間にはほとんど不可能であろう。そしてまた、意図的に言葉を発信する側にも、このような事態については多くの責任を担うと思われる。であるからこそ、私は少なからずとも文章には神経を使っているつもりなのである。しかしながら、もとより私は文才に乏しい部類の人間なのであって、最終的に決まった記述が適切なものであるかどうかの判断には迷うところである。しかし、それでも尚、私の知らないところでの良からぬ事態の在る事の可能性を、ほんの少しでも減らさんがための気配りはしなければならないであろう。軽はずみは厳禁である。__それぞれのあなたの、その人数分の、あなたなりの解釈がある。それともそれは考えすぎか?

2002,10,30



くるみの木の話


 私の作曲小屋をトタンの塀を隔ててすぐ北側に、高さ4メートル程のくるみの木がある。このくるみの木はもともと高さ7〜8メートルはあったのであるが、昨年の秋、その威圧的なほど見事に延びた枝は切り落とされてしまった。今はほとんど幹だけになってしまい、往年のある種の威厳を放つような姿は無い。

 この小屋が出来た頃、天窓を開けたならば、そのくるみの木が伸ばした枝に繁る葉が空の一部を覆い、そして微かな風にそれが揺れ、春の日の木漏れ日の投射が美しくも揺れていた。私はそんな様をぼんやり眺めながら楽想を練った事もある。耳を澄ませば葉ずれの音が聞こえる。しかし夏に入るとしばらくは天窓を開けることは出来なかった。このくるみの木の葉に付いた毛虫の類が落ちてくるからだ。夜でさえ開けるのは危険だ。だから今まで夏の夜空はこの小屋から望む事は出来なかった。しかし秋も深まる頃に私は、いくらかの収穫物を授かる事が出来たのだ。それはこのくるみの木が、その枝先にたわわに実らせたくるみの実を落としてくれるのだ。冷えた風の吹く深夜、予告も無しに突然、屋根の上に落ちてきてはけたたましい音をたてて、私はそのたびに驚いてしまうのではあるが、これもひとつの収穫の合図だと許していた。手痛い合図ではあったが。そして冬になれば、全ての葉を落とした姿が冴えた空気の夜空に影を落とす。その様は一種不気味でもあったが、同時に厳しい尊厳さも無言のうちにたたえていた。やがて来る春を待つ間に。

 私は少年の日より、このくるみの木を幾度となく見上げてきた。私が生まれる前からそこにあり、一体幾多の出来事を見てきたのだろうか。しかしそれを問うてもただ私を見下げ、黙するのみであった。

 さて、今年の春にこの一本の幹だけになってしまったくるみの木が、果たしてどのように冬の眠りから醒めるのか興味を持って見ていたのであるが、幹の先端にほんのわずかに芽を出したくらいで、かつての勢いは見られなかった。そして秋に入った今も新しく伸びた枝は一本もみられない。このくるみの木は死んでしまったのであろうか。



2002,10,29



些細な気がかり − 1

 最近気にかかることが一つ出てきてしまったようだ。それはどういう事かというと、このホームページを作るという事に関してであるが、その一連の作業に費やす時間が多すぎるという事だ。今日もいくつかの記事の追加や、レイアウトの修正などの作業をしているわけであるのだが、その作業は量的に多いとは言えないにもかかわらず、すでに2時間もの時間が過ぎようとしているのだ。未だ公開以前の段階ではあるにしても、いざ公開した後の更新作業のことを考えるとき、少なからずともそのための時間を用意しなければならなくなるであろう事は想像に難くない。

 私は音楽家のはしくれである。私の有効な生活時間は音楽のために費やすべきであろう。出来ればそれを欠く事は避けたいところだが、しかしながらこの”konpositionhutte”は、私自身が望むところに従ったものである。であるが故に、今さら取り下げる気もない。当面はある程度の煩雑さを伴いつつ音楽と関わってゆく事になるかもしれないが、楽観的にみれば”慣れ”の問題かもしれない。ともあれ音楽こそが中心課題である。

 もし私が音楽に熱中するあまり、結果として本サイトの更新の進まぬ時は、あなたの人格においてご容赦を・・・


 2002,10,21




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