5.音楽の近況




 ただ今、水面下で進行中の作曲については、いろいろと試行錯誤してきた。その中でおおまかなスケッチをいくつか採ってみた。それは私自身の今までの作品とは全く違う音楽の局面での試みである。私としても初めて踏み込んだ領域であるがゆえに、かなり慎重に(慎重すぎ?)事を進めてきた。もう私がかつて作曲した古典的な作品は遠い過去に追いやられたかのようである。そして、それらかつてのものより決別してからどれほどの期間が過ぎた事であろうか。今までとは違う作曲の仕方を我がものにするための悪戦苦闘、思考実験、試行錯誤、行き詰まりと打開等々、さまざまな事があったけれども、いよいよここに来て、今、自分が取りかかっているものについての実像のようなものが明るみに現われてきた。この段階に至るまでにどれほどのスケッチを破棄したことだろう。しかしそれはすべてが無駄ではなく、多くは収穫と呼び得るものである。そして、ようやく(本当にようやくである)本格的に筆を進める事が出来る段階に来たように思う。

 私は自身の新出発との意味合いを含めて、改めてこれを”作品1”とすることはすでに述べたとおりである。これは多分に多義的な形式に準ずるものとなるであろう。そしてその形式の中でいかように素材要素を組織し、構造化し、私の見通しの下に統合するのか。すべての諸課題はその範囲内にあった。けれども、それらの課題は実際に作品をどのように書き進めるべきか、と問う時に候補に上がるいくつかの手法の違いに応じて、その意味合いが異なってくる。やっかいな事ではあるけれども、中心をしっかりと見据える事が出来さえすれば、そのようなものも自ずと収まるべきところに収まるものである。ただそれは、現時点でのやや楽観的な感触を超えるものではない。作業をひとたび進めたならば多くの場合、予期せぬ困難が現れるのはむしろ当然である。その予期せぬ困難とはかつて経験した作曲上の困難とはまったく性格の異なるものとして立ちはだかる事になるであろう。しかし、それをひとつひとつクリアしていく中にこそ、本当の意味で私にとって新たに経験する作曲を自身のものにしていく事になる。すでに今の段階においてすら、それなくしては一歩の前進もおぼつかなかったであろう。

 現在の私の音楽状況を的確に伝えるという事は思いのほか難しいものである。私自身このように記しながら痛感する次第である。一番いいのは実際に音を聴いていただくことなのであるが、これはもう少し後のこととならざるを得ない。当面は言葉によって作曲の進み具合をここに紹介することになるけれども、しかるべき段階には作品の断片でもサンプル化してみたいと考えている。

 2003.10.26



 昨夜は夜通しでこれから取りかかろうとしている音楽作品のラフ・スケッチを採ってみたが、実際の作曲作業に入るためにはまだいくつかの課題が残っている。この課題とは音楽要素の集合域やその配置、また各々の集合域での確定・不確定の度合いの制御の仕方などに関わるものであるが、まあ、クリアできないものでもないと思われる。

 私が作曲において難儀するのは実にMIDI入力という場面に際してである。現在はシーケンス・ソフトとして”SONAR”を愛用しているが、私はそれによって音楽を”創造する”のではない。それはすでに手書きの楽譜として在る、音無き音楽を”実現させる”ためのものである。それはMIDIによって機械のことばに翻訳される。しかし、SONARのMIDI入力はお世辞にもやり易いとはいえない。よって私は旧Cakewalkの時から自前のMIDIイベント(ノート・イベント)入力ソフトを開発し、個人利用のレベルでは実用の域には達していると思われたのであるが、しかしSONARに移行したとたんに正常に入力する事が出来なくなってしまった(SONARとは旧Cakewalkの進化形であり、私の入力ツールを可能にする”CAL”も継承されている)。この件に関しては本サイトの”作曲小屋/創作のための道具”でも記してあるのであるが、今もって解決の糸口を見出せないでいる。しかしながら作曲再開にあたって、出来る事ならこの入力ツールを使いたいという思いは捨てきれない(このソフトはVB6で開発したものであるが、私はこのソフトを実現したいがためにVB6を導入したのだし、せっかくここまで育ててきたのだからという思いがある)。だから今も様々な角度から動作実験や検証を継続的に行っている。その中では興味深い結果も得られたのであるが、この件に関しては検証報告として別のページにて報告したいと思う次第である。

 また、ついでながら本項目の題目を”近況・その他”から”音楽の近況”に改めた。(う〜ん、、、イマイチ!)

 2003.9.30



 このところ2,3ヶ月の長きにわたり、ずぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと(・・・長さの表現である)私自身の作曲に関して想いを巡らせていた。すでに大方の見通しは立ってはいるのであるが、さて、それを如何にして実現させようか?いや、その見通しにしたがった場合、私の目論むところの音、音響の振る舞いは、思い描くようなものとして実現されるのであろうか?何しろその作曲の過程を考えただけでも、ものすごく錯綜したものとなるであろう事は充分に理解できる。だから入念な下準備は必要である。その下準備という段階であれやこれやと試行錯誤しているという訳なのである。それは内的な思考実験として、また具体的にはプロトタイプ、あるいは小さな断片として(それは書いて、ちぎって、捨てられる・・・)試作してみる事として行われるのである。それはまた興味深いものである。

 さて、私がどのような作曲をしようとしているのかを公表するのは非常にためらいを感じるのであるが、その内訳の一端だけでも示してみると・・・・・・それは恐らく”群”という概念による作曲の一種であるとも考えられる。まあ、そのように言ってしまうとすでに在ったものの蒸し返し、焼き直し・・・・つまりそれは陳腐以外の何ものでもない・・・と、思われてしまう危険がはなはだ大きい。しかしながら、私とてそのような事をするために群作法的な仕方で作曲を進めようとしているのではない。それは私の見通しにおいての手段のほんの一部分でしかないのである。全体の形式からすれば、それは多分に”多義的”な様相を呈するであろう。ならばそれはどのように多義的なのか?それはその楽曲が演奏、あるいは再生されるたびに、ある指定された量にしたがっていくつかの部分、すなわち要素の集合領域ともいうべきものが、時間軸において不確定に合成されることにより、そのような形式形態を表すのである。

 私はさらに合成されるべき要素の集合域のために、いくつかの層を用意するであろう。それは再生されるべき領域を複数まとめておくための”帯域”として扱いたいが、しかし、そのいくつかの帯域はスコアでいうところの固定的な”パート”などとは全く無縁のものである。なぜなら、例えば”帯域T”の5分28秒(+−16秒)に再生される群にあった要素(例えば音色など)は、”帯域W”の異なる場所に現われる事も必然的だからである。これは全てのパラメーターについても全く同様である。しかしながら、それをコントロールする事もまた可能である。そして私が今、想い馳せているのは”ギター”という自分にとっての特別な存在である。私はギターのために専用の帯域を用意するかもしれない。この場合は”パート”というものに準ずる意味合いを持つようになるかもしれない。いずれにせよ、このような構造を統御するためには”セリエル”な処理の経験はまことに有用である。私はこれを多層的に用いる事を考えている。それはもちろん、音楽を氷点下の世界に放り込むことには直結しない。私は”不確定さ”の度合いをひとつのパラメーターとして、セリエルな思考の内に織り込みたいと思っている。もちろん、このようなことは”管理された不確定”として、すでに用いられたものではあるが、しかし大事な事は、今の私にとって実現したいと欲しているものは、まさにそれを手段として要求しているということである。それは”そのような思想による音楽”を実現してみせることを目的とするためではない。

 ともあれこのような事をいくら書き並べても、私の想いにある実像は伝えきれるものではない。いずれまた報告させていただく機会もあろうが、しかし、私のちっぽけな思考を表現するにおいてさえ、何と多くの言葉が必要なことか!。

 2003.9.19



 ・・・という事で、先日この項目で”ギターサンプルをMP3で紹介したいがHPスペースの都合上、無理があることが判明した”事を記したのであるが、無理を押してやってしまった(やや笑)。無論、その事を念頭におきつつMP3ファイルのスペックと録音時間を切り詰め、8つばかりのファイルをこしらえてみた次第である。

 今回、久しぶりにディストーションサウンドを録音してみたのであるが(この内2つを掲載)、これがまた年甲斐もなくやりすぎてしまったようだ(苦笑)。残りのファイルをどうするかはまだ不明である。まあ、あまり調子の乗ってやりすぎると、”このページの作者は現代音楽だの12音技法がどうしたのと言いながら、へヴィーなギターもやっている・・・訳の分からん奴だ・・・”などと思われる事は必定である。サジ加減は程々に、といったところか。しかし何とも出来上がったファイルの音が悪い!やはりCDレベルのサンプリング周波数は欲しいところである(今回は24kHz)。不満が残る。

 かなりいい加減な即興ではあるがこちらのページにて掲載してある。

 2003.7.30



 前回、ギターについての話題を取り上げたのであるが、今回の話題もそれである・・・。

 このところ、あいも変わらずギターの練習にいそしんでいるのであるが、私はかねがねギターの音のサンプルなどをこの”作曲小屋”のどこかで紹介したいと思っていた。折も折なのでこの辺でサンプルでも録音してみようと思い立ち、いくつかのファイル(MP3)を作ってみた。まあ、全くの即興で、かなりいい加減(そして好き勝手、やりたい放題!)な演奏によるものではあるが、私のメイン・ギターである10弦Bichのサウンドを、おおむね理解していただけるであろうと思われるものがいくつか仕上がった(6つほど)・・・。さて公開!と思いきやファイルの容量を調べてみたら、これがかなりの大きさになってしまっていて、本サイトのHPスペースではいささか無理があることが判明してしまった・・・。

 ・・・という事情から、今回はとりあえずアップロードするのを保留する事にした。他の容量に余裕があるHPスペースを借りる事も検討しているのであるが・・・。この事はゆくゆく私の自作曲をどのように公開してゆくのかということにも繋がってくる問題である。

 ちなみに今回どのようなものを録音したかというと、フロントPU、リアPUを単独で、そしてフロント+リア、フロントPU+バリトーン=1、及びリアPU(パラレル)+バリトーン=1、といったところであるが、さらにはリアPUのディストーションサウンド(これはかなり強烈であり、弾きたい放題弾きまくっている)をおまけにつけてみた。

 まあ、なるべく早い時期に”作曲小屋”のコンテンツアップの一環と、私自身の楽しみのひとつとして実現したいものである。

 2003,7,26



 近頃は努めてギター(エレクトリック・ギター)の練習をするための時間を確保するようにしている。出来れば最低でも1時間くらいは欲しいものであるが、時間さえ許すのなら一晩中でも・・・と、いいたいところである。なぜなら、ただ今取り組みつつある、ギタリストとしての自分のための音楽作品に対応したいと思うからである。もう、今や指ぐせのようになってしまっていたスケールの類はほとんど必要ないと言えるし、むしろ自分に求められるのは、そのような音のパターンからの脱却であり、如何に音楽の求めるものに対応し得るかである。その音楽が私に何を求めようとするのかはまだ見当もつかないが、恐らく突拍子もない無理難題を突きつけてくるであろう事は想像に難くないのだ。だから出来るだけ指ぐせを排し、可能な限り幅広いポジションを弾きこなせるように指を慣らしておかなければならない。

 ピッキングに関しても同様である。私は以前よりピッキングに関しては注意深い方ではあったが、こちらに関してもやっかいな問題が多い。ピッキングのスピードについては今でもそれなりの自信はあるが、かつての運指とはまるで違う勝手に、如何にシンクロしゆくかが課題である。

 さて、現在のメイン・ギターは相変わらずB.C.Richの10弦Bichである。このギターも入手してから早、1年少々が過ぎた。今やすっかり手になじんでしまった。特にネックの演奏性は抜群である。これに対して第2のギターである改造ストラトキャスターはこの点に関して不満が残る。私にはどうしても(昔からであるが)あの丸みの強い指板には違和感がある。私は以前よりクラシックギターのような平坦、もしくはそれに近い感じの指板が好みであった。指板の材質に関してはあまり選り好みはない。

 ともあれ、愛すべき楽器であるギターを手にしつつ、時を忘れて境に入るという事。・・・それはまた楽しみのひとつである。何とも素晴らしい楽器と出逢った事か。

 2003,7,21



 作曲に取りかかる場合どうしても必要となるのが集中力であり、そしてそれを維持しつつ作曲に専念するための、ある一定の幅を持った時間である。私の場合、ある程度の時間を確保出来さえすればその中で集中力を注ぎ込み、没頭する事が出来るのであるが(つまり、入れ込み方が激しいという事)、しかし、このところそのような事を許す時間がひどく少ない状況が続いてしまった。いや、有ったとしても切れ切れにであり、およそ集中力を維持するには不満足である。私における作曲とは非常に錯綜したものなのであり、極度の集中力が求められるが、今はそれが出来ない状況にある。よって、ただ今、小休止といったところか。しかしながら、遠からずの内に作曲を再開する事は出来るであろう。作曲に集中するとその内容に見合った程度の疲労が残る。しかし、その疲労とはある意味では心地よいものである。

2003,4,28



 ただ今、取りかかるところの作品1も、思考実験的思索の段階を越えつつあり、何をどのように用い、それを如何に組織立てて楽曲を、その志向的主題に沿うようなかたちでまさに私が思い描くところの終局的効果、ないし音響的所作を実現すべくための要素、及び条件を作曲法として扱う事が妥当性をもって規定されるのか、という段階にさしかかりつつある。組織だった理屈と私の中の幻想とが流動的に混ざり合い、ふいに面白い着想を垣間見る事もあるが、しかしその全てを用いる事は出来ない。今回の取り組みにふさわしいものこそ見極めなければならない。何をもって目的とするか、その見通しの上に立って考えなければならない。段階は今、具体的な構造化へ向けての統一的な方途に関わっている。それには確定すべきものと同時に不確定なる要素の双方を多層的に含んだ集合体としての構造化に向けられている。恐らくこの段階が最も錯綜・混乱しつつ、しかも最も面白い段階なのではないかと思える。

2003,2,11



 私は長らくの間、ギターという楽器と付き合ってきたのであるが、この度の作品1を手がけるにあたっては、この旧友たる楽器をその全体を成すべき重要な音響要素として組み入れたいと思っている。

 現在愛用しているギター(エレクトリック・ギター:以下、E・ギター)は米国B.C.Rich製のBich Supreme 10弦仕様である(詳細はこちら)。今まではこれを通常の6弦ギターとして用いていたのであるが、今回よりは本来の仕様である10弦ギターとして用いる事になるであろう。しかしながら、10弦ギターとはいっても標準的な調弦によらず、1〜4弦の全ての復弦をユニゾンとして用いたいと思う(通常、3,4弦の復弦は1オクターブ高く調律される)。さらには5,6弦はそのまま単弦ではあるのだが、それを含んだ全ての弦は通常よりも細いものを使う事になるであろう。これはいつも”聴きなれた”この楽器特有の音色から、それを僅かばかりでも逸脱させたいとの意図が含まれている。そして、その発想の延長からこの楽器の、というより作品そのものの要素として、各種エフェクターの使用による音色の変化を加える事も出来るであろう。それを実現するための効果としては、ディストーション、フェイザー、トレモロ系のものを考えている。

2003,1,25



・作品1

 さて、遅ればせながらもようやく私における音楽上の近況というものを、あなたに報告する事が出来る段階に来たようである。すなわち作品1である。そう、かつて私が手掛けたところの作品の一切は、他ならぬ私自身によって破棄されたのである。だから作品1なのである。(以下、私個人に限っての仕方である)

 実のところこの作品を文字どおり作品として成立させるべく作業の最も初期の段階、まさにこの段階こそが重要なのである。かつての仕方であるならば、あらかじめ用意された古典的楽理に沿ったかたちで、それを自分なりの書法でもって筆を進めていけばそれなりに音楽作品としての体裁をもたせる事は出来たのであるが、しかし今や状況は全くといっていいほど異なっているのである。先ずは作曲作業に先立って、作品そのものへのしっかりとした見通しを持つ事が必要である。それには先ず、然るべき作品を作曲するにあたって、始めに如何なる思索においてその作品が求められ、またその思索されたところの何事かを満足させ得るか、そして、そうであるならばその作品は如何なる内部構造、またそれを可能にする全体的形式を必要とするであろうか、というところから切り込んでいかねばならない。

 続いて思い巡らすのは如何なる音響素材(楽器=発音体、あるいは音響そのものの諸要素)を如何にして組織化、構造化、全体化する事が可能であるか、つまり、最初の切り口とは逆の方向、素材という局面から具体的な形で遡って考えてみなければならないであろう。その上でこの作品に用いられるべき素材の最小単位、音の諸要素を如何に扱うかといった事が見えてくる。ここまでの思考は今回の作曲にあたり、その見通し、プランを立てる事において外す事の出来ない作業である。これを怠ると結果として作品自体が破綻してしまう事は充分に予想できるものである。いや、そうなる以前に私自身、満足し得ないであろう。

 ともあれ現在は最初の段階をまとめている最中である。私の”音楽ノート”には上記の具体的内容が断片的に、また組織的にも書き込まれている。そして作品1に関するであろう要件はほぼ出揃い、どのように構造化されるべきかもはっきりとしてきている。

 恐らくあなたが作曲という言葉を聞いて思い浮かべるのは、何か楽器を頼りに音符を書き連ねていくような場面、或いは音そのものを何らかの形で取り扱うような場面ではないだろうか?しかし、今私は具体的に音符を書いたり、音を取り扱っているという訳ではないのであるが、けれども私の作曲作業はすでに開始されているのである。決して作曲のための準備などではない。

 通常、音楽作品においてその最も基本的要素、また原点足り得たのは主題、或いは動機であると言われてきた。この具体的な音形による作品細胞、少なくともそのような機能を持つであろう構造的要素は私には二の次であり、必要ないものであるとさえ言えてしまうものである。私にとって重要な事は別の場面にある。

 しかしながら、決して主題というものを拒絶しているのではない。その場合、私においての主題とは先のような具体的な音構造などとして在るべきものではなく、主題というものが或る作品の出発点としてあるとされるならば、その意味からいって私の場合、まさに具体的作業としての作曲に先立って為されるべき、その作品そのものに向けての”見通し”それ自体の内に、言わばひとつの志向的理念として在るといえるのである。したがって、今私は作品1の指導原理として、それへと向かわしめるものとしての主題に沿う形で、直接的に音を扱う事なしにすでに作曲しているのである、といえる。

2003,1,24




[作曲小屋・表題へ戻る]