音楽によせて (2)
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1.私の方向性_開かれた音楽形式へ向けて
起承転結という言葉がある。これはあなたも御存知のとおり、或る何事かの出来事においてひとつの主題が提起され、それを取り巻く関係の上で様々に転回し、終にはその可能的な結末に至り、ある一連の出来事が完結する、といったような意味である。この事は他でもなく因果律(ここでは西洋的意味における客体化された学的な因果律である。東洋におけるそれは少々意味を異にするので)を基としている。その絶対的基盤は時間である。ここでいう時間とは、我々が通常実感している生活時間であり、それは過去・現在・未来という相をもち、ひとつの方向へと一様に進行していると感覚され、物理的に計量可能であり、しかも不可逆であると誰もがそう思っているような時間においてである。ある時点に生起した出来事が原因であり、それによってもたらされた結末が結果である。しかし、結果よりその結果自体を導き出した原因には戻る事は出来ない。せめて可能なのは、その結末よりそれをその様に在らしめた原因を想起し、その連関の意味を了解し、反省する事が出来るのみである。そしてその結果は、結果としてそこで完結する事もあれば、新たな原因として更なる結果を導き出すであろう。このような事態は我々の生活の上において、自覚的、無自覚的にもその因果律の多様な円環の内に現われてくるものである。
この起承転結という語が意味する事態は、音楽作品においても有用なものとして利用され、機能してきた事はすでに明白な事実であろう。例えばヨーロッパ古典音楽における諸形式のうちソナタ形式などは、この機能原理に基づくかたちでそれを最大限に推し進め、その持てる力をいかんなく発揮する事においては最も優れた形式であるといえよう。_序奏において場が与えられ、主題が提示され(通常は複数)、続いてその主題は対比、分解、変奏されるなどの手段を通じて多様な転回の牽引力として機能し、再び回帰し、そして全ての結末たるフィナーレへとなだれこみ、結尾句により閉じられる。_このような一連の流れは我々にとって、その感覚的、経験的実感と類比的な見通しにおいて非常に受け入れやすいものであった。だからこのような音楽作品の出来、不出来の判断基準としては、総じてまずはそのような形式に基づいて内部的流れがいかに機能的に処理されているか、その流動をいかに説得力あるものとして、表現に力を与えているか、という部分に力点が置かれてきたのであり、起承転結の流れや区分がはっきりとしない作品は、音楽的表現に乏しいものであり、聴衆に訴えかける力も弱いものであるとされてきたのである。
このような、いわばドラマ仕立ての運動性を可能ならしめている大きな駆動力は、他ならぬ調性的和声の卓越した力用であった。この体系における色彩的響きの対比、対立と和解、不安定と安定、転調による気分の転換、擬似的な自然の描写、拍節・速度・強弱の効果的な用法等、いわゆる音楽言語などと比喩されるところの意味的諸作用は、人間の情緒的感性や感情、経験的な認識などとの類似性においてよく合致するものであり、そのはっきりとした連関せる道筋を辿る事において、その作品への見通しを得る事が出来るのである。それはまた音楽の言語化である。そして大抵の作曲家はこのような機能、作用において、自らの胸中にあるものを音楽作品の上に如何に独自な形で表現し、よく聴衆に理解され、受け入れられるものとして、その調的和声の体系の持てる能力を存分に用いて作曲する事に心を砕いたのである。このような人間の心理によく訴えかける作用を手段として用いるという事は、極論してしまえば聴衆を心理的に操作するという事でもある。ましてやそこに明確な意味を持たせ得る言葉を歌詞として織り交ぜた場合、ここでいう働きはいかんなく強化されるであろう。このような調的和声体系に基づく可能性をいかように用いるかは、その作曲家の音楽における目的観や倫理観に関わってくるのであるが、近年における、例えばポピュラー系音楽産業の興隆の中においては、そのほとんど全てといっていい位の音楽製品が、この有用で強力な作用を利用して如何に多くの聴衆を魅了するかを競っているのである。それはこの業界を支える見えざる屋台骨であるといっていい。そしてそうであるからこそ、そのような音楽作用に魅了されてきた一般聴衆においては、音楽とはその様な作用に基づきつつ、我々はそこに表現された何事かに共感し、感動し得るのであって、まさにそこにこそ音楽の優劣を分け隔てる基準線があるのだと思われている。しかし、このような作用にあっての最悪の事態は、音楽とはまさにその様なものであって、またそう在らねばならないと断定されてしまう事である。
しかしながら現代、あるいは近現代における音楽芸術の潮流は、音楽とは必ずしもこのようなドラマティックな構造的区分け、内部的進行を必要としているものではないのである。むしろそれを離れたところに新たな音楽形式の可能性や価値を見出してきたといえるのである。ここに至り、ようやくかつての音楽論理の強力な重力圏を離脱する事が出来るようになったと言えるのではあるまいか?。私はかつて、未だ音楽の起承転結的、因果律的な構造形式の範囲内にいた頃より、この事に関しては少なからず関心を持っていた。だから当時の作品のいくつかはその関心のままに(根本的矛盾を孕みながら)、内部進行的にはかなり破壊的(破滅的?)であった。
或る音楽作品が何らかのストーリー性を持っている場合、それは必ず結末を必要とするのであり、その前提に基づきその作品は或る地点において終結を迎える。そしてその地点までの時間的長さがその作品の長さである。その意味は、このようなストーリー性に基づく音楽作品は必然的に閉じた形式(それが如何なる楽典的形式において成立していたとしても)となるという事である。(そのこと自体が悪いというのではない。善悪の判断ではなく形式の在り方である)
これに対してよく言われるが”開かれた形式”である。この形式概念が広く取り上げられるようになったのは、かつての調性音楽がその終結をみた中においてではなく、戦後の前衛音楽における全面的セリ−主義の硬直を踏み越える事の内からである。この開かれた形式とは包括的形式概念であって、それを可能にする具体的な形式的手法がいくつか考え出された。そしてそのような諸形式を開いた原理は多くの場合”不確定性”であった。それは当初、この不確定性と硬直したセリエリスムの確定性とを如何によく調停させ得るか、または管理し得るものとして扱えるかといった点に力点が置かれた。この流れよりいくつかの有用な手法が考え出されてきた。例えばそれは可変形式であり、多義的形式であり、群やモメントであり、確率、あるいは統計学的処理の導入、偶然性そのものへの志向であったりする。そこでの音楽は最早、時間的にも空間的にも閉じたものではなく、開かれ、一回性を持ち、全体における経過=潜在的可能性における顕在的プロセスとしての性質が表に現われてきたといえる。そしてそれは、音楽的時空間に向けて開かれているが故に本質的に永続性の内にある。音楽作品として在るならば、必ず開始と終了が必要とされるのであるが、このような形式において、例えばその終了される事の意味は、いつ終わるとも知れぬ音楽プロセスの流動を人為的に操作するといった程度の事である。その音楽は極論すればいつ如何なる時点に始まり、どこで終わろうが一向に構わないといえる。いや、そのように言えるのは音楽というものを、我々の感覚的時間、物理的時間の座標軸に沿ったかたちで捉える限りにおいてであろう。この地平においての私なりの見通しというものは、未だその途上に留まっている。したがって、今ここでまとまったかたちで詳細を述べる事は出来ないが、しかし、この事は音楽においても根の深い探求すべき課題として横たわっているように思える。ともあれ、私はこれらの事こそが音楽の本性であるなどと言うつもりは毛頭無いのであるが、しかし、少なくともこのような一つひとつの段階を経ていく中にあって、そこにかつて無い音楽の可能性の裾野が広がりゆくのは事実であろう。
上記のような事をつらつらと記してくると、如何にもかつての”クラシック音楽”やその影響下にある音楽全般について、それは今や全くの無用の長物であり、真の音楽的価値など無いに等しいなどと言わんばかりの印象を持たれてしまうかもしれないが、しかしそうではなく、何事も栄枯盛衰有るのは自然の理であろう。かつての強大な調性的和声の体系も、それを逃れるものではなかったという事なのであり、自身が乗り越えられ、その乗り越えられる事によって、新しい音楽の潮流が流れ始めたのであって、その事において自身の寿命を全うしたと言えるのであるし、また、新しい潮流を開く可能性さえ具えていたという事においては、それに合応しい歴史的価値が与えられ得るであろう(それは現代の音楽状況においても同様である)。しかし、すでに命運尽きたものにこだわっていたり、その延命を図ろうとしたり、さては単に懐かしきものの復興を目論んでみたりしたとて、それはかえってその歴史的、音楽的意義をないがしろにしてしまう事にはなるまいか?、確かにどのような音楽を聴こうが聴くまいが、それは聴衆個々人の自由である(作る側についても同様である)。斯く言う私もベートーヴェンやリスト、あるいはマーラーなどの音楽を自ら進んで聴く事もあるのであるし、仲間内ではブルースやジャズもどきのギター演奏をしたりする事もある。音楽史上の不滅の名作はその輝きを永らく放ち続けるに違いない。例えばミケランジェロの彫刻は歴史的に古いものなので現在においては鑑賞するべき価値が無い、などとは誰も言えないのと同様に、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどの作品は、現代において演奏されたり、聴かれたりする事に意味や価値を見出す事が出来ないなどという事は無いであろう。だが大事な事はそれと同時に、音楽は常に新しい流れを欲してきたし、事実その様にあるのだという事、そして音楽の歴史におけるその都度の刷新は、単純・素朴な進歩主義的な見地からではなく、人間自身をひとつの場としての創造性の表出という、止む事無き生命的衝動が駆動力となって来たのだという事は忘れてはならないであろう。また人間の偉大な創造力とは、いかなる抑圧にも決して屈する事は無いであろうし、いやむしろそのようにある時にこそ、それを打開する原動力として人間に力を与えるものであろう。そこにこそ創造力の凄味がある。
しかしながら、私なりに今を見やりながら思う事は、このような新しい音楽の段階にさしかかる事となった人類においては、ほんのわずかな期間での急速な進展(時代状況の他の要素とも無縁ではないであろうが)の中にあって、音楽への洞察についてもその音楽それ自体と同じく、閉じたものからより開かれたものへと変化しようとするその方向性ににおいて、ますます外へ広がって行く方向へと向かっている。これは例えば、現代における価値観の多様化などと言われるものと同類の事態なのであろうが、別の見方からすれば多様化、拡大、というよりは取り止めの無い拡散であり、むしろ人の手を離れ思うにならない混迷、あるいは混沌へとそのまま向かいつつ、または状況として行き詰まりつつある事の裏返しなのだと思えなくもない。今はもうすでに音楽の中心には、かつて程の強い求心的作用を及ぼす指導原理的なものは無いのだといって良い程だ。作曲について言えば、有るのはただ作曲家自身の解釈であり、音楽理念であり、見通しである(独自なもの、既存のもののいずれであろうとも)。作曲家の数だけ方法がある(もちろん、程度の差はある)。だが、たとえその様な状況にあっとしてさえも、音楽は音楽であり続けるであろうし、音楽それ自体には故無き事である。もし行き詰まるならばむしろそれは人間の側であろう。いや、それ自体もまた次なる段階を開きゆく条件とさえなり得るのだ。
ともあれ、音楽の進化、展開とはその途上での必定とした葛藤を乗り越える人間自身の成長における具体化である。総じて芸術家の使命とは、人間の持ち得た偉大な創造能力と、そこに現われるべく創造性とによって、自らを乗り越え、人間自身における何らかの、より善きものとしての価値を提示しゆく事であろう。また、まさにその事を成さんがために自身の持てる全体を(時には生命さえも)費やす事を厭わぬ者こそが真に芸術家と呼ぶに値する人間なのである。今、巷で”アーティスト”(すなわち芸術家と訳すならば)などと呼ばれ、紹介され、もてはやされている一連の人々は、果たしてその冠せられたる、文字通りの称号に値しているのであろうか?そしてその人における、人間として尊ぶべき、より善いものとしての価値とは?
私が思うのは、斯くも多様化した時代にあって、うわべだけの状況に巻き込まれてばかりはいられないのであって、大事な事はいつも音楽の中心にある課題に目配せをしていなければならないであろうという事である。”真に新しいものを作り出すのは、常に深く伝統に沈潜する者である”とは誰の言であったろうか?今は思い出せないが、しかしここで言う伝統とはかつてのヨーロッパ音楽のそれや、我が国のそれとは無縁である。その意味は、いつの時代においても真の音楽家の目を向かわしめた、音楽それ自体の底流に在り続けるものについてであり、その生命であり、課題であり、それへと向かうより深い洞察である。そしてそこに生まれる新しいものとは、より善きものとしての価値でなければならない(言うまでも無く、価値と値打ちとは別物である_念のため)。もとより私などは、それについて云々するべき器ではないが、しかしそれでも尚、その力及ばずとも、それへと向かう努力は為すべきであろう。如何なる者であれ、それ無くしては半歩たりとも前進も成長も無いのだから。
2002,12,7
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時間の深みへ・・・ひとつの課題としての壊れた断片
私のもとにすでにあったもの、私のもとにやがて来るもの。そしてまさに今ここにあるもの。
遠く耳にするざわめき、緑の空。私は蒼ざめた海へ。
時間とは流れゆくもの?この手にとって計測し得るものと思われているのだが・・・
わずかに震える指の間にこぼれ落ちてゆく海岸の砂粒。
しかしそれは、我々の日常的な経験と感覚において平板化された眼差しの見る蜃気楼にしか過ぎない。測られる時間?、そんなものは物理実験室の中にでも放り込んでおけばいい。だが、幻として映し出されたものが、それとして在るという事にはそれ相応の根拠があるであろう。それは時間の持つ時間作用というべきものだ。作用であるからにはそれをそれとして作用させる根拠が必要である。
時間はすで帰らざるものではない。時間は未だ来たらざるものではない。時間はただ、今にこそ在る。今とはこの一瞬である。
この瞬間である今が一体何秒であろうかなどと詮索するのは愚の骨頂、全く馬鹿げた話である。我々はただ、今、ありありとした時間を経験しているとしかいいようがない。
今ある時間は今という時間なのではない。
今ある時間は時間それ自体としての全体である。
時間は今にこそ在る。それはただ在るとしか言いようのないそれである。
学者曰く、一切の存在者とその存在といつも在る時間とは密接に分かち難く関係しあっているのだという。そして己自身を時間化するという事・・・。
何者かが今、そのように私のもとに立ち現れているという事。その事に一体、どれほどの人達が驚異の想いを為して思索を巡らせてきたものであろうか。はからずも私自身、その世界の現前、存在するという事に向けて、わずかばかりの想いを馳せてきた。
一瞬、まさにこの一瞬に今に世界がある。全てがある。
時間とは連続しつつ在る、うつろう今の運動なのではない。今とはもはや戻らぬ永遠の昔日なのではない。今とは到来の彼方の至りなのではない。一瞬の今の内にそれ自体が永久・永遠である。時間それ自体はいつも今、在ろうとする。それは何かによって、そのように働かされているのではない。見覚え無き者に造られたのでもない。それはもとよりそのようにあるがままである。
音、音響、音楽・・・それがそれとしてそのように成立しているのは何故?そしてあなたはそもそも流動する時間の経過無くしては、その音楽もひとつの存在するものとして在る事など出来ないではないかと非難するかも知れない。
無論、私とて人間が存在の開かれる場=現存在として己自身を時間化する事において、時間の差異化、その明るみの内に音楽等の存在者と出会う事、たとえその事の真偽がどうであろうとも、(もし、あなたがそう思うのなら)現に時間の経過と共に音楽が進行しているように感覚される事を、その事実の疑えなさにおいて何かの錯覚や幻想であるなどと言うつもりはない。しかし、私が改めて問いたいのは、今のように我々に語られる時間とは、語られうる事においてすでにひとつの存在者として語っているに過ぎない。その流動的、感覚的な時間とは最早存在者をその様に在らしめる視点としての根拠として在るという事は出来ないであろう。
音楽等の存在者が存在するための根拠として、他の見ず知らずの存在者を与える事は出来ないであろう。
時間において存在者の存在が開かれるのならば、その様に在ったにしても、それとてこの世界のひとつの相に過ぎないようにも思える。逆にいえば流動的な時間とはまた、音楽のその都度の内部的な移ろいの内に現われるともいえる。音楽の差異化。その事において時は過ぎ去ろうとする相を見せるか。
存在と存在者と時間とは、そのそれぞれを能く開くもの、しかもまた同時に開かれる所のものであるであろうか?そのそれぞれにいずれかを保証すべき根拠たる優位があるのであろうか?
この三者三様の本来的な性質の内に在りながらも、しかもその三者は分かち難く結びついている。それぞれが個別として語られながらも、しかもそれぞれは一体であるという事。それらはすでに世界を構成するべき要素ではない。むしろそれは世界の蔵する本有の所作、振る舞い、その現実態としてのかぎりで我々において語られうる。
世界、そして森羅万象が黙するところの秘密。言語の限界たる世界所有の法か。
実は我々とてその事においては無関係ではいられない。我々は世界の傍観者ではないのである。むしろ我々においてこそ、しかも我々の意志を超えた出来事として開示される。
時間の当体としての何か。それはただ、いつも今在るのみ。そしてその開かれたる振る舞いとしての時間。
今や私は立ち尽くすのみ・・・。音無き深夜半の荒れ狂う海。闇にある私の足元にのみ浮かび上がる白い波頭。私はただその波打ち際を辿り歩くのみか。
2003,1,30
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進展するものといつも変わらぬそれ
人間が音楽、あるいは芸術と出会ってよりどれほどの期間があり、またその中でいかほどの進化・発展を経験してきた事であろうか。人間と音楽との出会い。それは音というものを単なる生活上の実用的用法としてではなく、自らのひとつの楽しみとして自身の意志と感覚とによって自由に用いる事を発見した時より・・・。
その人間と音楽との出会いより以後、今日に至るまでの間にそれぞれの異なる地域や人種、文明や文化の中にあって人間と共に、その都度新しい発見や工夫を凝らしながら、より高度なものとしての音楽を実現すべく方法としての理論と技術とが成立・発展しつつ、そこに見られる進展具合たるや実に目覚しいものがあり、特に近現代にあっては学的理論と技術的知見とに裏打ちされたその長足の進展は今日においても留まる事を知らず、むしろ進化の度を早めた観すら覚えるものである。近年における電子技術の発展に伴い、またそれと相まって、まさに劇的ともいえる程に音楽の、その実現されるべく形態の可能性は実に多様を極めるものであって、最早音楽が音楽として在る事の条件を超え出てしまうのではないかと人々の間で懸念され、怪しまれ、時に退けられたりもする。また一方ではその危うい条件を、音楽を保持せんがために拡張するという操作が講じられたりもする。
音楽理論、創作技法の新しい展開。たとえその展開されたる多様性の優れたるとしても、その事によって”音楽そのもの”がそれと同様に進化、発展を遂げたかという事とは話は待ったく別である。如何に新しい、それまでになかった理論や方法でもって実現された音楽があったにしても、それにおいて取り沙汰されるのは専らその新しい理論や方法であって、音楽そのものについてではない。
ところで、私はここで音楽の理論や技法などという方途を軽んじているのでは決して無い。むしろそれは人間が音楽と関わる上においては重要な要件であると思っている。音楽とはある理論や方法とによって、その都度それによって志向されたところの形式にのっとり具体化される。その意味からすれば音楽はいつもそれを必要としてきたといえる。たとえ今ここに無理論・無方法としての音楽作品があったにしても、それは無理論・無方法というひとつの方法に基づく作品であるといえるし、突発的、規定なしの思いつくままの即興演奏にしても、そのような即興という志向的方法に従ってのものでしかない。厳密にいえば人間が音を音楽化するという目的を満足させるためには必ず何某かの方法が必要である。
けれども私は音楽を具体化する方法と、音楽そのものとを注意深く立て分け、今しばらくそれぞれについて考えてみたくなった。しかしながら、ここで立て分けて考えてみたいといっても、その両の面をま二つに分断するということではなく、本来それぞれが全く別々に存在するものとして在るとの見解を示すものではない。理論とは未だ知られざる可能性の内より発見、構築されるべきものであり、それを行使する事において用いられる技法、そしてその要件において具体化されるところの音響。これらはそれぞれについて個別に語られるものであるけれども、それと同時に、私が音楽そのものに視線を定位するとき、それぞれを切り離して考える事は出来ない。具体的理念であるところの音楽理論、その所作、振る舞いであるところの技法。技法の根拠は理論(あるいは理念)である。理論はそれ自身を自らが基礎付けるところの技法の内に宿る。そしてその振る舞いとして技法の上に立ち現われるのが具体的音響、音楽作品である。これらは密接に関係している、というよりは一体不二として在る。またそれと同時にそれぞれに個別化され得る側面でもある。
今実際に響き、聴かれている音楽。それはその音楽をそのように響かせるべくして先んじてある理念と、その具体化としての技法によってまさに斯く在るべく聴かれている。それはそれぞれが拠って立つ可能性の収束した姿ともいえる。しかし、今実際に響いている音楽、私はその具体的な響きの内に、その響きの背景に、その都度の音響の移ろいに、その音楽をそのように在らしめているところの理念や技法があるにもかかわらず、それさえも超え出て、しかも不可分の音楽の構造をまさにその様に在る事を可能にしている何らかのものの気配に気付く事がある。しかしそれは決してそれが何であるかを捉える事が出来ない。今ここでそれについて何か表現したくても私は困惑せざるを得ないのだ。何も無いようでありながら、その気配を感じられる事においてそれは与えられている。今聴くところの音楽をその様に在らしめる根拠としての理念や技法さえも一体のものとして、そしてその事をすら保証することを可能たらしめるそれ・・・。この様にしか言えないのがなんとももどかしいのであるけれども、これ以上の詮索は私自身、かえって混乱してしまう(すでに?)。
音楽において語られる理論や技法、それらは歴史の上でいつも変化しつつ新しいものへと刷新されてきた。知識と方法は既存のそれを乗り越え、より高度なものとして登場し、またそれはそれ自身の内より更なる新しいものを生み出す源泉となる。この場面においては通常、実証科学的、また経験的技術における価値評価、すなわち科学技術の範囲内においては古いものよりも新しい発見、あるいはより進んだ高機能、高効率化された要素というものが積極的に評価されるという事態(例えば10年前のテレビよりも最新型のテレビの方が優れているなどといったふうに)とほぼ同様な視点で語られる。しかし、音楽の場合は科学技術などにおけるそれとは違って、”新しいものこそ良かれ”と賛同する者がいると同時に”古きものこそ良かれ”とする者とが混在する場合が普通であろう。しかしながら、進化・発展するものとしての理論的、技法的な音楽の要素の是非を巡っての意見の違いもあるにせよ、それは結局のところ、音楽とは必然的に進化・発展するものとしての暗黙の立場からの見解である。無論私とて音楽に関わる以上、このような視点に立って音楽について思いを巡らせる事は日常的に行っている。それは私の独自性というものを如何に打ち出そうかとの努力と連動している。しかし私にとって、それにも増して大事な事は、音楽の底辺にいつの時代にあっても、また如何なるその都度の様式の移ろいにあっても何ら変わる事無く、確かに在り続けたであろうものについての考察である。
いつの時代にあっても、如何なる理論や技法によっても、そこに具体化されたる音楽とは音楽以外のなにものでもない。たとえどのような形式や様式上の異なりが認められようともである。これは一般的な”音楽とは何か”と問う事ではない。むしろ”音楽であるとはどういう事か”と問う方が適当であろう。しかし、それとてある課題への入り口、初門にすぎない。音楽が音楽として在るという事、それは音楽の専門用語のみでは語る事は出来そうもない。それは音楽一般をひとつの場として定位しつつ、しかもそれを超え出るかのような仕方で問う事である。そしてその場とはまた、他ならぬ私自身において与えられる存在作用としての”それに向けてのそれ”に深い関わりをもつような”場”としてである。
このように話を進めてくると、なんとももったいぶった言い方になってしまうのであるけれども、今の段階ではここから先の事について適切に表現する事は私自身、差し控えなければならないであろう。今はまだそれを語る事が出来る程までには考えがまとまっていないし、もとよりそれを適切さをもって語るという事は極めて困難な事であろう。だから今の段階では、私が音楽について思い巡らせる場合、どのような視点で、どのような視線を向けようとしているのか、またあるいは音楽に耳を傾ける時、その場合一体どのような聴き方で音楽を聴き取ろうとしているのか、という部分をご理解願えれば当面のところは充分である。
2003,2,8
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実のところ、私がひそかに期待している事
このところ私はよく、Web探索にいそしむ事が多いのであるが、その理由の中でもとりわけ大きな部分をしめるのは、やはり音楽系の何か有益な情報に出会う事を期待しての事である。実際、音楽系のサイトそのものは実に数多く存在しているものである。しかも取り扱うべき話題の分野においては音楽理論や作曲、楽器や演奏に関しての話題。音楽作品や作曲家・演奏家、またはCDレヴュー、論評。個人の音楽活動、作品の発表や提供、プログラム、音響物理、録音技術・・・等々・・・呆れるほど多くの情報が行き交っている。しかしそのように溢れかえる情報の中にあって、私にとって真に有益なサイトに行き当たる事は極めて稀であるのはどういうことであろうか?。それはつまり一般的な関心からは少しばかり隔たったところにあるであろう音楽的関心というものに定位しつつ、まさにそれに合致し、私の至らぬ音楽への見識を深めてくれるような情報を中心にWeb上をうろうろしているという理由によるのであろう。その事からいえば私の持つ音楽的関心とはつとめて一般的に非ず、という事なのであろうか。
しかしWebが全てではない。音楽に関わる者の全てが自らのサイトを持っているという訳ではない。私が求めるものはWeb外にこそ在るのであろうか?私が出会うことを期待しているのは、音楽の表面的な話題や自己宣伝などを離れ、音楽そのものについて自らの言葉でもって語る事、その事に自身を定位しつつ、その視点でもって音楽に関わるという本質をもった音楽系サイト。・・・しかし、それは私の持つ同様な視点の一致をそこに求める事においてなのではない。視点や見解の相違はそれぞれにあってしかるべきであろう。ましてや音楽という地平においてはそれを求める事自体、無理があろうというものである。私が思う事は見解の一致・不一致に関わらず、その様なサイトが存在する事自体に価値があるのである。しかし、当今のWebにおける状況を概観しても、そのほとんどはあらかじめすでにあるもの、それは先述の例などのように自分とは別のところにあるものについての解説、説明を主とするものばかりである。・・・などというのは言い過ぎであろうか?
私が期待しているのは、音楽関連の説明や一般的情報などではない。そのようなものは必要な時にだけ目を向ければいいだけの事である。そうではなく、音楽そのものに執拗に視線を向け続ける(少なくとも、その姿勢を堅持する事においての)者の、自身の内容の表現としてのサイトである。もし我こそはと思う人あらば、Webにおいて自らの音楽への想いというものを発信する事を、という事である。Webとは音楽の専門家や知識者・解説者のためにあるのではない。自身の言葉による可能性はそこにおいても開かれるべきである。
もとより、すでにあるものを説明する事など易しい事である。例えば作曲、理論、歴史、音楽作品等々、〜は〜である、などというように。しかし、音楽それ自体を自ら探求し、そこで拾い上げたものを語るという事、またその体現としての作品化は思いのほか大変な事である。なぜなら自身のほかにそれを保証するものはなく、あったとしてもそれは単にひとつの足がかりとしての補助的なものでしかないからだ。しかもそのように思索を進める事自体、相当の努力なくしてはまとめあげる事すらおぼつかないのだ。そして、そのようなものを語るという事は、ある種の勇気も必要であろう。そして自分が語りかけるべき相手とは、全くもってインターネットの見えざる彼岸に在る。
ともあれ、誰彼の分け隔ての無い、Web上での活発なる音楽的発言(それは掲示板などではなく、個人のサイトからの発言として)・・・。ささやかながらも私は、そのようなひとつの潮流が今後さらに活発に在らん事に期待を寄せている。
2003,3,3
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