音楽によせて (3)
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1.シェーンベルクの12の音と誤解
本サイトにおいて私はただ今、当項目”音楽によせて”の別項目である”音楽室”において、シェーンベルクの創案したいわゆる”12音技法”についての拙い紹介記事を追加・掲載しているところである。これは現代に至るまでの新しい音楽の流れを考えてみる場合においては極めて重要な事柄であろうし、またそれ相応の価値もあるであろうと思うからである。しかしながら、また同時にこの技法に対しては、そのシェーンベルクの思うところの思想や、この技法における課題等に関して一般を見渡すところ、かなり多くの誤解をもって、またそれを気付かず無自覚的にも再び紹介されている場面を多く目にする。これが一般聴衆や今だ学ぶ段階にある者の発言であるならいざしらず、そのような者たちに向かっての啓蒙的、教育的立場にある、より公共性の高い発言力をもつ部類の人たちの文章の内にも、このような誤解が多々見受けられるのである。
私はここで、私自身シェーンベルクの理念を絶対的なものとして信奉しているという訳ではないし、そのような立場で擁護しようとするのではない事はあらかじめ記しておきたいのであるが、しかしながら、この技法に付きまとうある種の誤解に対しての私なりの見解をここに記すという事は、これはひとえにこの技法の持っている重み故である。
シェーンベルクの音楽理念への度し難い誤解の代表例としては、例えば_”シェーンベルク、あるいはその弟子のベルク、ヴェーベルン等の新しい作曲技法は、平均率半音階における12の個々の半音に皆等しく”平等”に権威を与えている。そして12音技法において作曲する場合、作曲家はこの各々の12音のいずれにもに不平等な特権を与えてはならないし、どの音符も他の音符に対しては影響力をもってはならない”。_などといったものであろう。つまり、シェーンベルクが自らの12音技法において理想としていたのは伝統和声の調性的階級制度の呪縛から全ての音を開放し、そこから12の音が各々同じ重みを持った独立した素材として平等に扱われ、作品として実現されるべきものである、といったような意味である。すなわち、従来の調性音楽に対するものとしての”無調”あるいは”無調性”などといったような濡れ衣である。
シェーンベルクの12音技法を評して、音楽史上における”無調性”、”無調音楽”の革命的代表であるなどという認識が今も尚、標準的なものであるにしても、では当のシェーンベルク自身はこの技法においてどのように音楽を考えていたのであろうか?
まずシェーンベルクは自身の12音技法を”それら自身の中以外には相互関係を持たぬ半音階の12の音によって作曲する方法”であると定義している。そしてそれは”音程の継起や同時的な音の集合の結合を規制するものは、それら諸音間に働く相互関係である”とし、また”如何なる音形、あるいは如何なる音のつながりも、多様な場所や様々な瞬間に起こる振動現象としての諸音高間の相互関係として考えられなければならない”とも述べている。すなわちこの事は、この技法についてよく言われるような”各々の音を全く独立したものとして、全てを平等に組織化する事を目指す”などといった見解とは真っ向から対立するのである。
そして彼自身の音列技法に対して向けられた”無調”といった言葉への苛立ちは”調的という言葉を広義に用いないでその意味するものを限定しようとする事は、この言葉の受け取り方として間違っている。諸音を水平的および垂直的つながりにおいて論理的に組織するというように各音の間にある相互関係に基づいて作曲するかぎり、その作曲は調的でしかありえない”と表明している。
シェーンベルクが自らの12音技法によって、伝統的和声体系を乗り越えようとしたのは、”根音としての低音が和声の構成を支配し”、また同時に”その連続を規制し得るのだといった考え”である。所詮、シェーンベルクにとっての(伝統和声に対しての)”非調性”の意味とは、それまでの作曲の駆動力であった”根音の支配力を放棄する事”でしかなかったといえる。
12の音を音列として組織化した場合に必然的に現われる相互関係が、そこでの各音における相互依存性を規制・支配しているという事、および音列の12音間にそれ以外の如何なる関係要素をも排除して”相互関係のみを求める事”により、これら12音を倍音共鳴の課する機能和声的低音、根音の支配力から決定的に切り離す事がシェーンベルクにとってはまず何よりも大事な事であった。そして彼は次の言葉をもって自らの音楽的立場を示す。すなわち、”それは少なくとも主題の機能と同じ機能を持ち、同時に伝統的和声のもつ統一能力に取って代わる、独自の統一能力を備えた音列の使用によって、音の連結を保証する事にある。それは故意に不協和な音楽を書く事では全然なくて、検討に値しない伝統的方法に復帰する事なく、不協和音程を規制する事である”。_まさにこの事こそ、シェーンベルク自身が音列技法を用いる事の根本的な目的であったといえる。
12音主義音楽においては、その音楽を成立させている全ての音を皆等しく、平等に構造化するのではなく、またそれを達成させつつ、均質的な内部構造を持つ平板な音楽を構成するのではない。確かに素材としての個々の音それ自体のかぎりでいえば、”平等”であり、また、統一的方法においては、かつてのような倍音共鳴現象に喚起された根音の支配力から開放されたという意味からすればそのように言うことも出来ようが、しかし、ひとたび作曲を開始するや否や、そこではもう全ての音を平等に在らしめる事など出来なくなってしまうのである。素材や組織化、扱い方という相での”平等”と作曲上の事実とは意味が全く違うのである。
シェーンベルクが排斥しようとした”調性”とはいくぶん曖昧な概念であり、それゆえに誤解も生じやすい。ここでいう”調性”とはあくまでも古典的、機能和声体系において体現されるそれ独自の特質であり、翻って言えばその当の和声体系の枠組みについての事であろう。しかしながら、彼はそれをひとつの機能的バリエーションとしてそのように在らしめ可能にする、より原的な音の本性、その働きにまで攻撃の矛先を向けた訳ではなかろう。むしろ倍音共鳴や根音の論理によらず、しかも音に本来的に備わるであろう働きを、恐らくは芸術家としての第一級の鋭い直感で感じ取っていたに違いない。この作用は音が個別であるかぎりにおいては現われては来ないが、ひとたび他の音との関係の内に放り込まれた時、そこに否応もなく何らかの不平等を招いてしまうのである。しかし、むしろこの働きの下に彼は独自に、かつての和声体系に取って代わる、新しく、より普遍性を持った和声法を見出そうとしたのではなかろうか。そのかぎりにおいて彼は調性や和声(すでに協和・不協和の区別のない)といったものには肯定的である。それは彼自身の作品の中に現われている。だからその事をもって、”シェーンベルクは無調を標榜してはいるが、結果として彼自身の作品においては調性的な性格が現われてしまっているではないか”などと非難するのは彼にとってみればおよそ的外れの言いがかりに過ぎないであろう。いや、逆説的にいえば、彼の意図するものを聴き取っているからこその非難であるともいえるのであるが・・・。
ともあれ、以上の事は私の単なる私見であり、それはいくつかの文献からの判断に基づくものであるのだが、しかしそれが的を得たものであるかどうかとの評価などは、結局のところあなたの判断に全くもって委ねられるものでしかないのであるけれども、私はここで記した事柄の内に、音楽の理論や形式などの異なりのそのさらに底にあるであろう、音楽一般に通底する課題のひとつが見え隠れしているように思えるのである。それは決して表面的なものではない。その表面的に現われてくるものからかえってそれが捉えられ得るようなかたちでしか把握出来ないもの・・・それは何もここでの話題の文脈にのみ関わる事柄ではない。それは音楽のそこかしこに垣間見られる、あるいはその気配を感じられるというような性格を持つ。だがそれは時として、ある音楽上のある事柄において色濃くにじみ出てくるものでもある。
2003,4,10
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2.基本線 - U 創造性
創造性。それは世界の深みにその身を横たえる。そして世界とはその事において創造する事を欲する。私にとって、この創造性という働きについての思い巡らせはひとつの大きな主題であった。そしてここで言う創造性とは、決して人間固有の能力としてではなく、その個別的能力の内に現われるべき普遍的作用、働きの事である。それを言わば世界本有の創造性と呼ぶならば、それがそうであるが故に、それ自身が発現されるべき何らかの条件、場を必要とする。創造性とはそれ自体において、単独では何ら作用する働きではないからだ。
そして大事な事は、創造性とその対極にあると思われている破壊性とは、実のところ等価であり、互いに同じ根を持つ両の面であるということである。その世界の最も深い部分に根ざす根幹は、やがて世界の内に発現されるであろう可能性として、ありとし在らゆる一切の存在者の内なる属性として偏満するであろう。この事において、人間を含む一切の存在者は創造性と破壊性との表出を可能たらしめる個別的場たりうる。
例えば人間という場において創造性が表出される場合、必ずしも平等に同じように現れてくるというものではない。いや、必ず何らかの差別をもって現われるであろう。それは場としての人間の個別的な異なりによる。その人間において創造性が、どのように、またどの程度発現されるのかは当の人間自身のそれぞれの固有の性質、能力の在り方に呼応する。この個別的な、程度の異なる能力の事を人間の創造(能)力という。世界に本有としてある創造性とは、場としての存在者の創造能力において現われ、作用し、その能力を能力たるものとして基礎付け、機能させる。
よく巷で創造性と人間の創造力とを混同しての記述を見かけるが、私は上記のように、その双方を全く違った事柄としてみている(実は相互に依存するのだが)。先に記したように創造力とは創造性が表出されるべき場としての人間独自の個別的な能力の事である(それはまた欲求であり、意志でもある)。しかし、創造性とは人間固有の独自な能力の事ではなく、その個別的、能力的条件において現われるべき、世界それ自体に根ざす可能性としての働きであり、それは何らかの場において作用しつつ、その場の条件に呼応するかのように表出する具体的所作として振舞うであろう。創造性とは創造能力、及びその行使においてこそ、その働きを働きとして顕現する。しかしながら、それでも創造性そのものは、それがそのように振舞うにもかかわらず、しかもその発現されるべき場の異なりに関わらず、本質的に常に不動の力である。創造されるものとは創造性によって、しかし無数にある異なる場の異なる条件の程度によって、様々に異なるものとして創造される。
世界に存在する一切の存在者はそのまま創造性開現の場たりうる。それはまた同時に、創造性と等価である破壊性についても同様であり、多様な場の異なりを機縁として、その双方は見え隠れする。我々の知る世界とは創造と破壊との絶え間ない運動の現われである。それを端的に身近に引き寄せた言い方をすれば生と死とも表現できる。それは世界の本質である。例えば四劫・・・すなわち、成住壊空の変転するサイクル_この仏教思想からの引用の意味は、世界の止まる事のない運動性であり、無常性である。しかし同時に、世界とはそのように無常でありながらもそれ自身が他の何物に変わるのではない常住性、単一性の事である。創造と破壊。それは生と死においても(より倫理的厳粛さをもって)経験される。その双方は二つの両極でありながら、しかも同時に分かち難く結ばれている。互いが互いを基礎付ける。それを突き詰めて行けば深遠なる生命現象にまで地平は開け行く。
創造性(もしくは破壊性)とは単独では作用する事は出来ず、必ず何らかの場を必要とし、そこにおいて表出し、作用する働きである。そしてその場とは、何も人間存在に限定されるものではない。先述のようにそれは、一切の存在するものにおいて発現されうるであろう。場とはそのままでひとつの機能である。創造性と破壊性が在るからこそ世界が流動するのではなく、場としての世界がある以上、それは必然的なことなのである。そして、その意味から言えば音楽作品についても同様のことが言える。いや、音楽に関わろうと志向する私にとっては音楽作品においてこそ、世界本有の創造と破壊とが渦巻くひとつの場なのである。しかもその働きを意図的に、明示的に示す事さえ可能なのである!。私はそこに世界そのものの営みの歌を聴こうと耳を傾け、うかがい知れぬ深淵に思いを馳せるのである。
付記
しかしながら音楽作品において、そのような本来的な働きを聴き取りうる事を実現したとて、そこにその事に拠る、善きものとしての価値を与えられないのであるのならば、その作品は音楽として未だ芸術の領域に踏み込んだものとして評価する事は出来ないであろう。まさにこの部分こそが芸術家足らんとする音楽家にとっての最大の課題となる事柄である。
世界に本有としてある創造性において、そこから如何に価値を引き出すのか。それは難しい問題である。それはすでに技法や様式、時代的意義などの評価基準を遠く引き離す。今や価値判断の基準とは極めて個別化し、その多様な判断をひとくくりにする事は出来ない。出来るとすればより普遍的な方向への価値基準の模索である。
今、この事に関して私に言えるのは、音楽が人間において創造されるもの、そこに与えられるべき善きものが、あくまでも人間にとって価値あるものとしての意味を持つのであるとするならば、おおまかに言えばそれはやはり、世界と人間の存在に深く根ざした普遍的な要件に向かいつつ、しかも同時に、そこから私たちひとり一人に帰還する思考でなければならないであろう、という事か。
2003,5,26
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