音楽によせて (1)
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はじめに:今、気配を感じていたにもかかわらず、すでに消散している”何か” |
はじめに:今、気配を感じていたにもかかわらず、すでに消散している”何か”
およそ音楽とは、人類の歴史の上において国や民族、文化、人種等の違いを超えて、その都度人間のいる所には必ず自然発生的に在り続けながらも、しかし、ひとたび人間が、その本性の秘密に近づこうとする時、あたかも音楽はそれを拒むかのようにその身を翻してしまう。過去にどれほどの音楽家たちがこのような振る舞いに当惑した事だろう。音楽それ自体は、どこの誰が自ら発明したものでもない。誰も音楽それ自体の設計図や調合法を知る者はいないのだ。しかし、我々はただ音楽を、まさにそのようにして在る限りのものとしてのみ、受け取る事しか出来無いのであろうか。
音楽は、音楽それ自体をそのように在らしめる”何か”(今はこのようにしか言えないが)について、我々に語ろうとはしない(あるいは我々には聴き取れないか)。我々はただほとんどの場合、その”何か”によっているにもかかわらず、それを意識する事も無く、そのように在る音楽をひとつの作品として、あるいは又、言い換えればひとつのまとまった音響現象として、それを我々が知覚する事において、我々の内でそれがまさに音楽として、身近な存在として私やあなたのもとに現れ(創造され)、ようやくその時それについて何某かの語られる可能性が、条件的にも無条件的にも与えられる。
だが、この段階において我々が聴き、我々に語られうるものは、”何か”によりすでに根拠付けられつつ、そのようなものとして現われ来たった音響現象というひとつの契機であって、それがそのまま音楽そのものの全体像であるとは言えないように思う。それとも音楽とは、人間によって組み立てられ、そこで指示されたとおりに響くだけの、たんなる音響現象であるとの意義しか持ち得ないのであろうか(たしかにその音響現象としての音楽を介してしか”何か”の気配を感じる事は出来ないのであるが)。
しかしながら私は、音楽がどのように振る舞うかにかかわらず、その振る舞いを可能たらしめる”何か”について知りたいとの感情には抗する事が出来ない。はからずも音楽に直接関わっている者の一人である以上、それは必然的な要求であった。この要求は果たして意味の無い事柄に属しているのだろうか?私はそうは思わない。音楽に垣間見る”何か”とは我々が想像する以上に大きな意味や価値とを蔵しているに違いない。もし我々がその一分でも理解し得た時、我々はその視点に立ちつつ立ち返り、今までとはまた違った見通し、音楽の、いや、それさえも超え出た地平といったものを得る事が出来るのでは、と私は思う。
音楽の”何か”についての裾野は私の視界の及ぶ範囲の遥か向こうにまで広がっている。おそらくその限界の彼方において音楽における”何か”とは、音楽それ自体をそのように在らしめる事を担いつつ、すでに音楽を音楽として限定しているひとつの枠組を超えたものとして在るであろうと思われる。私が見やりたいと思うところの”何か”とは、むしろ個々の音楽作品において多様に語られ得るような”何か”ではなく、音楽それ自体をそのように可能たらしめる何か、音楽的価値を可能にするそれ、さらに音楽も含めた存在者一般、言い換えればこの世界そのものをさえ妥当をもって我々に与えるであろう根拠としての”何か”として在るように思われる。
音楽は単なる音響現象としての限りでは、音楽の音楽たるその本義に叶うものとしては存在し得ない。音楽もまたこの世界におけるひとつの現象であるには違いないが、しかしそれは、我々が音楽であると呼んできたものの客体としての表面的な現われ、そこに実現された運動についての事をあれこれ話題にしているに過ぎない。その限りでここに何らかの現象が在るのならば、一般的にいえば、その現象を現象として可能にすべき根拠は求められうるであろう。しかしながら、私は実在としての音楽の分析、結果としての現象と、その原因としての根拠、さらにはその法則性へ向けての探求などという、実証科学的な思考の上からその”何か”について思い巡らせようというのではない。そのような思考を進めたとて結局のところはそのような思考様式の限界内に留まらざるを得ないように思えるし、”何か”とはそのような思考様式である限りにおいては、とうていそれに至る事は叶わないであろうと思う。それはむしろ超越論的、哲学的な思考こそが求められるのではなかろうか。そしてそれは、私の内省による自己記述としての音楽という場面に定位しての思索でなくてはならないように思う。今まさに原的に与えられている現象としての音楽によりつつ、そこから音楽それ自体への視点を得る事。私と音楽と世界とを貫いているかの如く在るようなそれへ向けて・・・。私がこの”kompositionhütte”なるものの冒頭で”音楽の懐のなんと深き事か!”と記したのは、私なりにこのような事を想像し得たからである。だがそれは、私の視界の及ぶ範囲の寸前のところで遮られてしまっている。それはいつも自身を明かさず、身を翻し、しかしその気配の有る事をもって、それ自身の在るであろう事をほのめかす。
しかしながら誤解をしないで欲しいのは、私は音楽に(一部あるような)神秘主義的な幻想の類をそのまま持ち込もうとするのではないし、それが出発点でも目指すべき目標でもない。私はただ、音楽それ自体が全ての起点であって、音楽が音楽として、そのように在るための生命ともいえる”何か”_このうかがい知れぬもの_についての一分の思索を、その当の音楽自体に定位しつつ私なりに思い巡らせてみたいというだけであって、そのために何か余分なものを音楽に付け足そうとするような発想はもとより無いのである。それはかえって、我々から音楽を遠ざけてしまう事になるであろう。
そしてもう一点付け加えるならば、本サイトにおいて私は、その音楽を音楽たらしめているであろうと措定される”何か”を、ここで論証してみせようとか、解明してみせようとしている訳ではない。もとより私はそれを成すほどの洞察力は持ち合わせてはいないのであるが、しかし、その事以前にその問いかけとは、私が音楽に向かう中でのひとつの思考実験的な意味合い(それは多様な問いの形式や起点を取り得るであろう)を含んでいるのであって、今後その問いかけ自体が破綻してしまうであろう可能性すら含まれているのである。それは私が音楽の可能性へと耳を傾ける事においてのひとつの場としての問いかけであるといった方がいいかもしれない。問いの内容とは、問われるそれへの視点の移ろいによってもまた変化し得るものである。それは私が音楽へと向かう遠い道のりの途上に残した一続きの足跡である。
もしあなたが音楽について(あるいはそれを超えて)何か思うものを持たれていて、しかもそれを私にお聞かせ願えたとすれば、私はあなたに対して大いに感謝しなければならないであろう。ましてや、あなたの考えが私の蒙昧を開く程の、すぐれて明晰さをもった意見であったとすれば、私にとってはまた有益な事であり、それによって大いに価値ある知識を得る事が出来るであろうし、もしかすれば私の音楽に変化を与えるかもしれないのだから。
ともあれ、何事も一人で考えていたのでは偏ってしまいがちである。人との語らいの中で、私の目を開かせるだけの力を持つ言葉に出会う事が出来たならば幸いである。というのは、音楽について語り得たかつての仲間は、今や私の近くにいる事はほとんど無く、他の人より発せられる音楽的刺激というものには乏しいという状況があるとの意味も含まれている。
また、本サイトはその取り扱うところの内容と、それに基づく必然的な性格とによって、訪問される方々は自ずと限定されてしまうであろう可能性は高いものとならざるを得ないと思われる。しかしながら私が願って止まないのは、例えば私の記す音楽への見解など、まさに文字どおりの見解の域を出るものではなく、それをそのまま御理解願い、賛同され、受け入れられる事など夢うつつにも期待しているものではないのであって、そうではなく、たとえ見解の相違があったとしても、本サイトをひとつの機縁として、未だ敬遠される傾向にある現代の音楽というもの、あるいはまた直接的に音楽そのもの、さらには人間の所有する稀有の能力たる創造力、それを可能にする創造性に向けての眼差しや期待、関心等をたった一人でもいいから持たれる方が居られたならば、まさにそれこそ私の大きな喜びとなる事であろう。
Kompositionhütteにおける今後の予定
さて、上記の如く在るささやかなる期待を保持しつつ、その中にあって私の音楽的関心を甚だ刺激する内容を蔵した意見というものに出会えたならば、私はそれを本サイトのどこか、然るべき場所において紹介したいとの衝動を抑える事は困難であろう。したがって、そのような未知なる明晰さのためにも、それ相応の場を設ける事になるであろうと考えている。しかし、それは私自身の状況を鑑みた上で行うべき事柄である。私の本分からいって、第一に遂行すべき事は自ずと決している。それをさておく事は本末転倒である。だから今のところ予定は予定として、文字どおりの意味のまま、機会あるまで待機していてもらおう。
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1.私における音楽の始まり・・・自己紹介の一環として
私が今、このように音楽と関わっているという事は、その事実からいって、私自身の過去を遡っていけばある地点で、私が音楽に関わる事となった”音楽の原点”にたどり着くだろう・・・などとは言えない。私にとって、音楽に関わる事となったきっかけは、私自身の事であるにもかかわらず、それを明確に特定する事は難しい。しかしながら、そうとはいっても私の記憶の中にはいくつかの重要な出来事、あるいはひとつの経過点であったと思えるいくつかの経験が確かに刻まれている。多少強引に言い換えれば、それらが私の音楽の原点であると言えなくもないのだが、それでも尚、それらは個々の経験であり、それぞれがひとつの起点であるとは言えるにしても、決して私の音楽の全体、全ての根源的経験であるとは言いにくい。・・・私は一体、いつどこで音楽と出逢ったのだろうか。
私の音楽経歴の中において、印象としてひときわ強く思い出されるのは、10代中頃にしてギターという楽器を手にした事だろう(懐かしい!)。特別な理由はなかったように思う。最初のギターはどこにでもある普通のアコースティック・ギター(フォーク・ギター)であった(それ以前には自作したりもしたが)。そしてわき目もそらさず練習に励んだ。おかげで上達は早かったように思う。その後、ほどなくしてエレクトリック・ギターに持ち替えた。それは当時よく聴いていたラジオの深夜放送でのインパクトによる・・・E・ヴァン・ヘイレンのギターサウンドであった。あの、今にもスピーカーが破裂してしまいそうなディストーション・サウンド、かつて聴いた事もない奏法。その音楽自体は別にしても、私は若さに任せてそのようなギターを弾きたいと思わずにはいられなかった(当時、同じ思いに駆られた人がどれほどいた事か)。そして本格的なトレーニングと研究とが開始され、いつ終わるとも知れぬ道のりの第一歩を踏み出す事となった。今もその途上にある。
その頃音楽の方は、いわゆるハード・ロックに傾倒していた。とりわけレッド・ツェッペリンなどを好んで聴いていた(当時すでに解散していたが)。その後は次第に、好みの矛先がプログレッシブ・ロックに向きつつあった。EL&P、イエス、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン等々、複雑さや壮大さ、新奇なアイデア、その独自な響き。私はのめり込んでいった。そして同時にクラシック音楽にも。さらに加えて記せば、ギターへの情熱はますます加熱していった。
そして、それは何の前触れも無く唐突さを持って私を揺さぶった。忘れもしない1991年の秋口、ある人物との出会いを契機に、私の音楽観は一挙に変わってしまった。そのこと自体は何ら音楽と関わりのあることにはみえないのだが、しかし、私はそこに、私の音楽を変えてしまう程の何かが作用するのを感じずにはいられなかった。理由は知らない。私は無条件的に何かに己の全体をわしずかみにされた。真に感動するとはまさにそのような事なのだろう。それは一期一会の・・・。この事については如何に多くの言葉を費やそうとも表現出来るものではない。
その契機を堺に私は、己においての音楽の在り方について正面から向き合う事となった。そしてそれまでの音楽というものがひどく陳腐なものと思えてきた。この時期より私は、自分の音楽のかく在るべき姿を模索し始めた。それはまた音楽の創造という方向に目覚めたともいえる。以来私は独学でひとまずはクラシック音楽の理論を学ぶ事に熱中したのである。そしてギターもアコースティック・ギター(Ovation
1768)に持ち替えた。その事に理由を求めても答えは無い。私はとにかく何かに駆られていたのだ。
その後は楽典に始まり、和声学・対位法の基本、楽式論、編曲、果ては管弦楽法等を広く浅くではあるが吸収していった。と同時に編曲やオリジナルの作品を作るようになった。この時期、断片的なものを含めればかなりの数にのぼるであろう。ともあれ、学ぶ事や作曲・編曲の大変さよりも、そのような事に挑んでいる事自体の楽しさの方が勝っていたといえる。
しかしながら、その勢いも順調には持続しなかったと言わざるを得ない。1990年代の中盤にさしかかる頃、得体の知れぬ暗雲が晴々としていた天空を覆い始めたのである。私は順調にあった自らに課した課程をこなせばこなすほどに失速していかざるを得なくなった。次第に雲の影は太陽の光を飲み込んでいった。・・・それはいわゆるスランプなどではない。疑問?・・・私が今このようにして学び、また作り上げようとしている音楽への・・・私が創造すべき音楽とは果たしてこの延長線の向こうに有るのだろうか?・・・それは疑問や問題というよりは、私の新たな課題というべきものとなった。作曲するという己の行為の根本的な課題。そしてついに筆先は止まってしまう事になる。その後、私は実に大きな回り道を迂回する事となった。それを外面的に見れば、音楽への情熱が失せてしまったかのように写ったに違いない。しかし決してそうではなく、逆に情熱有ればこそ、そうせざるを得なかったのである。そして重苦しいまでの思索と沈黙の時期が到来したのである。
一見、音楽から離れてしまったかのように見える時期、私はあてどなくも読書の虫になった。何でも良い、私独自の音楽の何か足がかりになるようなものが欲しかったのである。それを種々雑多なる書物の中にそれを求めたのである。
やがて21世紀に入り、私を取り巻く環境がにわかに動き始めているのを感じていた。その動きはやがて或るひとつの方向に向かって流れ始め、私はその奔流に逆らう事は出来なくなっていった。そして私は今、どうしても仕上げておかなければならないものが有る事に気づいていた。私にはあの’91年の出来事に端を発するひとつの音楽的主題と楽想が、いまだ未解決のまま残っていたのだ。”ギターと管弦楽のための幻想曲”と名づけるところの作品。これはその時点で第3版目にあたるものであるが、私はそれを全面的に改訂する事にした。その作業は約半年間にも及んだ。そして、作業の終盤に近づくにつれ、ひとつの感慨と、それに呼び起こされるかのように妙な懐かしさが私の内に広がっていった。それはおそらく、いや確実にこの作品が、今と以前の私にとっての最後の作品になるであろう事の予見から生じたものであったのであろう。この時期私は意識的に、あるひとつの方角を向き始めていたのである。とにかくこの作品だけは仕上げなければならない。
この3つの主題を持つ極度に変形されたソナタ形式による作品に終止線を入れたのは2002年の春であった。その時点で私は、自分の向かうべき方向をほとんど明らかに見てとる事ができていた。しかし、それにもかかわらず未だ躊躇せざるをえず、しばらくはそこに踏み止まっていた。
私が思索と沈黙の中にあった時期、私はいくつかの事柄について関心を持つようになった。それはいわゆる現代音楽などと呼ばれる類の音楽につながっている事柄である。そうした関心の変化にあって、私は自分の今までの音楽というものがつまらないものに思えてきた。”今さら俺がこのような音楽を作る事に一体、何の価値があるのだろうか?”・・・私の中ではヨーロッパの伝統音楽が直面した、あの19世紀末期から20世紀にかけての軋轢と同じような事態が生じ始めたのである。
調性的和声を中心とした巨大な城郭、それを取り囲む堅牢なる城壁。その内側にいさえすれば、些細ないざこざはあるにせよ、和声学、対位法等の法の権威の下に、それに従っていれば我が身を安んじてはいられた。しかしながら過去にはそれを嫌い、ある者は城門を破り、ある者は自ら罪を犯し追放される事をもって、またある者は城内において革命を起さんとする事をもって、この硬直し、老朽化した土地から我が身を引き離し、新天地を求めてやまなかった人たちがいた。私の内心においてもそれは最早、自分自身の制御を許すものではなくなっていた。とにかく今までとは違った何かを見つけたいとの思いを静めることは出来なくなっていた。
_その時、私は第2次大戦後のヨーロッパの中にいた。そこで私はP.ブレ−ズやK.シュトックハウゼンなどの当時の前衛的音楽作品と出会うことになる。この一連の出来事は、私にとってすこぶる新鮮な刺激材料であった。それまではなかった音楽への取り組み、新しい技法、考え方。そうした中、私は最早以前の自分の音楽には戻れなくなっていた。私独自の音楽を結実させるには、今や以前の枠組みの中では不可能であることは明らかであった。_ちなみにA.シェーンベルクの12音技法やその周辺の技法に関しては、私が作曲を始めて2年ほど過ぎた頃から手を染めてはいたものの、それはひとつの試み以上のものではなかった。しかしながらそれは、私の今の在り方の遠因のひとつになっている事は間違いないであろう。_確かに私自身が長期にわたって、しかも独力で身に付けてきたものを今さらながら取り下げるという事は、実に勇気のいる事である。しかし、私自身において今や時は到来している。後は決断を下すのみである。_そして、かつてシェーンベルクは”我が意にしたがう事の出来る者が勇気のある者であり、勇気ある者こそ芸術家なのだ!”と喝破したのだ!。
私がかつて学んだ音楽の知識は、今やそのほとんどが必要なくなった。しばし一種の虚脱・・・。しかし、それが全くの無駄であり、かつての努力が徒労に終わったという訳ではない。それがなかったならば今の自分の音楽、これからの展望など思いもつかなかったであろう。それらは今後、手法として用いられる事は無いのかも知れないが、ひとつの足がかりとしての価値を与える事は出来るであろう。用いる事無くも知識としてある事、それはこれからの私の音楽を逆説的に基礎付ける。
とにかくも私は、広大無辺なる芸術の荒野を行かねばならなくなった。道標はない。道もない。いや、方角さえ感じ取れない。後は自らが切り開いて行くしかないのだ。そして少しづつ明らかになってきたのは、私はかなり以前から(いつからとは言えないが)、或る種の響きのようなものをいつも微かに聴いてきたという事だ。いや、私にまとわり付いて来たと言ったほうが近いだろうか。それは例えば深い山奥に住む美しい人の吹く笛の音のようでもあり、またそれは日本の古い太鼓の音のようでもあり、遠く幼い日の夏の青さでもあり、どこかへ連れ去られそうな夜の雪でもあり、不気味な青ざめた月の光、御伽噺の余韻のようでもある何か。・・・その響きは決して書き留める事は出来ない(かつて挑戦した事はあるが)。それは深い霞のはるかむこうに在る、幼い日の追想の不意に現われるにも似て・・・。さて、もしかすればその音楽体験こそが、私の音楽の原点と言えるのかもしれない。ならば私における音楽の始まりは、その響きがある限りにおいて、いつでも私とともに在るという事になる。ともあれ私は、新しい地平に迷い込んだ飢えた狼になった。はたして私は生き延びられるだろうか?
2002、10、20
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2.基本線 -T
およそ作曲家、音楽家などというような、たいそうな称号を冠している者は、そのそれぞれの者が、どのような程度の者であれ、それなりの音楽へ向き合う態度というものを持っているはずである。私もそのような者の一人である以上、自分の音楽というものに対しての私なりの態度、視線を持っている。その最低限のレベルにあるのは第一に、私の音楽は私自身の目的以外のなにものでもないという事である。すなわち、栄誉栄達、名声などのための欲望的手段ではないし、また音楽家である以上、作品を作らねばならない、であるとか、注文をこなさなければならない等のような状況的打算などでもないという事である。考えてもみればこのような態度は音楽家として至って当たり前の事のように思われるかもしれないが、案外、それを本とする音楽家諸氏は意外と多いのではあるまいか?また、状況によりつつ、そう在らざるを得ない場合も意外と多いのではないだろうか?とかく音楽への純粋な態度というものを堅持する事は難しい事なのかもしれない。
さて、私にとっての音楽とは、他の芸術も含めて、人間のみが為し得る最も高度な営みであって、人間の持つ稀有な可能性であるところの創造性の顕在化として、我々の最上位にある精神、いや、生命それ自体の活動であるという事の、それ以外のなにものでもない。それは音楽家の、また人間の特権であるとさえ言える。生命とは創造する事を(逆に破壊する事も)欲する。
私が今持っている関心のひとつは、人間が本来だれひとりとしてもれることなく持っているはずの創造性と、その可能性にある。音楽を創造するとは何もそれを作品化する作曲家や、再現する演奏家のみが成すべき技ではない。聴衆の一人ひとりもまた、それぞれの内にあって、今まさに聴いているその音楽作品を自らの内に創造し、経験する。その意味からすれば音楽作品とは創る者、再現する者、そして聴く者の三者による共同によって満足されるものであるとも言える。
先に述べたように、音楽とは私においてはそれ自体が目的であって、何か別の目的があって、そのために用いられるべきものではない。すなわち、例えば私の内に何か思うものがあって、それをひとつのメッセージとして音楽作品化し、それをあなたに聴いてもらう事により、私の個人的、経験的な思いを伝え、それを共有し理解してもらいたいなどという事、私にとってこのような事は紛れもなく音楽の手段化である。つまり音楽を自己表現の手段として用いる事である。__もっとも、それをどのように扱おうが創る者の自由ではあるが__私は音楽をそのようには扱わない。そのような音楽は巷にあふれかえっている。私がそのような音楽を手がけるまでもないであろうし、最早関心もない。だから今ここで、アーティスト何某の、例えばよくある色恋沙汰などを聴かされても私は全く当惑してしまうであろう。しかし、この手段と目的の相は音楽だけの事ではない。例えば文学的な分野においてはさらに顕著であろう。すなわち、文字や文章においてのそれである。
文字や文章とは通常、ある何らかの事象を指し示す、意味を持つ記号としての役割を担ったものとして利用される。すなわち文字の散文的用法である。この場合文字はすこぶる有用な手段となる。というよりもこれこそが文字の通常の使命であろう。例えば、作家は自分の思いや何らかの描写を記号としての文字に託し、そこに表現されるものとして読者に伝えようとする。しかし、同じく文字を扱う部類の人、詩人たちはどうだろうか。詩人は文字や文章をそのようには扱わない。詩人にとって文字の記号性は邪魔になるだけであろう。詩人は文字の意味ではなくして、そのある文字が持っている固有の響きや感触などといった、およそ文字の意味するところの内容というよりは、むしろ文字そのものの持つ性格、属性などといった意義的な側面に目を向ける。そしてその文字の持つ属性の新しい配置のもとに新しい世界を開示しようとする。詩人の視線は目の前に広がる現実の意味としての文字ではなく、いつも文字そのものの世界に向けられている。また、このような事態は絵画の分野においてもいえるであろう。
要するに音や文字、あるいは色や線などは目的それ自体にもなるし、また何かの手段として用いる事も出来得るという事であるが、ここで私が自分の音楽とは、その音楽それ自体が私の目的であり、それを散文化、記号化し、何か別のものを表現するために用いるのではないとあえて表明するのは、私において、音楽というものに対して真正面から向かい合おうとする事からの必然的な帰結である。この事は私における基本線のひとつになっている。先の意味で言えば、私は詩人的な眼差しでもって音・音響・音楽に関わりたいのである。
私は音楽に、それ自体がありのままに、音響属性的な意義の重なり合い、あるいはそれらの出会いのうちに、その事象それ自体をひとつの場として”何か”が表出されるような可能性を求めてみたいのである。作者によってあらかじめ何かを吹き込まれたものとしての音楽ではなく、そこで初めて開かれる世界。いや、そこで開かれる何かをさえ基礎付けるであろう世界の深淵の気配をほのめかす事・・・。私はこのような可能性にこそ芸術の醍醐味を覚える。音響現象のそれ自体の創造的、自己開示的可能性。_しかし、それはまた私やあなたの内で開かれる。
2002,10,30
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3.ひとつの段階として − 有意味であるか、無意味であるか
さほど遠からざる頃より私は、つねづね思い巡らせてきた事がある。例えば私にとって、ひとつの習慣になっている就寝前の少々の読書の後、さて眠りに入ろうかと思いきや、眠気を催すどころか意識はますます冴えて、思索の運動が止まらなくなる事がある。次第に思索は思索を呼び、その呼びかけに私は自ら従い、明かりを落とした部屋に在るのにもかかわらず、今、ここからの私の意識、思考はその求むる所にしたがって、ゆるやかに、そしてめまぐるしく世界を縦断しようとする。およそこの世界の、一切のひとつひとつのもの、分割されたそのそれぞれが、その個々をそのように在る事を保証しているもの、_意味。その意味するという意味付けの働き、作用そのものが、一切の存在物において作用しなくなる地点。_それはまさに世界そのものが、それ自体分割不可能なひとつの個なる世界としての姿を現す・・・。
我々が通常、世界の中から個別に切り出してくる、名付けられる何らかのもの、例えばギター、例えば鉛筆、そして夜、緑、ネコ、靴、みかん、アインシュタイン、埃だらけの本棚、風の音、時計の秒針・・・・等々。その時それらは、それら自体において個別に存在するのではなく、ただ世界の含みうる可能な姿、運動の表出にまで還元された。もはや世界というものは個別を含まぬ単一の存在者である。
世界がこのように現われてくる事が可能な地点。それは他ならぬ私という人間の意識においてである。我々は通常、単一の世界から、意味付け、名付けて何らかのものを分割し、切り分ける。そして意味付けられたものを、そうであるものとして認識している。だが、そのような意味の働きをひとまず拭い去った時、意味付けられる事によって切り出された個別は、再びそれらの全体の中に吸収される。その時、その全体は、全体としての全体そのものを露わにする。我々はそのようにある世界を目の当たりにする時、驚きを覚えるとともに、ある種の不安感のようなものを感じるのではあるまいか。そこにあるのは我々が経験的に意味付けて切り刻み、そのそれぞれを名付け、理解していたような、通常の親しみのある世界ではないのだ。そこにあるのは得体の知れない世界全体の運動の表出でしかない。
このような事態を音楽に定位してみた場合はどうであろうか?音楽もまた我々によって、世界より分割され、そのような音楽であるものとして意味付けられるものである以上、単一の世界から分節され、切り出されたものとして同様である。
私が思いをめぐらせてきた事の中でも、ことに大きな関心事のひとつは、まさにこのような場面を切り口としている。この場合は分割せざる単一の存在としての世界の現われを、ある音楽作品に定位してとらえてみるという事。つまりここでの私の音楽への関心は、ある音響現象としての音楽の全体、あるいはその部分というものが、いかに意味付けられたものとして我々に理解されうるか、または我々自身において如何に意味付けられるのか、などという事ではなくて、この場合、このような事(解釈)はむしろ邪魔なのであって、先に述べたように私は、ある音響のそれが、そのようにあるがままの固有の属性とその変化、運動を、その音響自体のそれ以外のなにものでもない事を保証すべき本性が露わにされる事、そのような構えでもって音楽と向き合い、音楽の響きそのものの現われを体験するという事、そしてそのような体験の流れに在って我々は、その体験それ自体を契機として、ひるがえって何事をか知覚し、認識し、理解し得るのかという事、である。しかしながら、このような事は一般的に言って、我々の通常の日常的感覚からすると、なかなか理解する事は難しいであろう。我々は通常、単一の世界を意味付けられるものとして、部分に切り出し、そのひとつひとつの意味するものと関わり合いつつ生活をしているのだから。
ここでひとつの音を取り出して考えてみる事にしたい。音は何でも良い。今はギターを使ってみよう。さて、一般的に言って、言葉や文字に比べて音というものは本来的に無意味である、などと言われることが多いが、よく考えてみるならばそうでもない事に気が付くだろう。それではここでギターを弾いてひとつの音を響かせてみる。さて、たった今聴こえているこの音は、何か意味を持っているだろうか、いないであろうか?特にこれだけを聴いても何かを意味として表現しているようにも思えないが、しかし、その固有の音響の内に”これはピアノではなく、紛れもなくギターの音である”とか”Gis音である”などという意味を含んでいるのである(存在者の存在様式でいえば”本質存在”。ちなみに現象としての音そのものは”事実存在”または”現実存在”)。それはこの音に固有な独自性に基づき、これはギターの音であると我々が経験的に意味付けたものであり、だからこそ、そうであるものとして直観し、その知識において妥当し、理解したのである。しかし私にとって、このような事は大した話題ではない。今一度ギターの音を持ち出してみよう。今度はこの音から意味するもの(言葉で”〜である”と語られるもの)を剥ぎ取り、今響いている音(あるいは音響)そのものを聴くとき、我々の内で一体、何が聴かれるだろうか。そこにあるのはただ、その音(音響)それ自体の独自の感触を純粋に、そのように経験しているという事実でしかない。私の関心はその音そのものの属性による多様な感触にある。すなわち、素材としてのそれぞれの音固有の性質にである。そしてその固有の性質、感触が合成されたところの音楽作品。そのような作品においては、これを構成しているそれぞれの音(素材)を、個別なるもの、如何なるものとして聴き分ける事は、もはや何ら価値のある事ではないだろう。そこで起こりうるそれぞれの音響現象は、その作品それ自体の、ひとつなるものの内部的な流動であり、起伏であり、可能的な顕在化である。継起しつつ、その都度の音楽作品のあるべく響きは、そのままでその音楽の全体それ自体である。
ところで、この段階にまで来ると、フッサールに端を発する現象学やハイデガーあたりの存在論哲学であるとか、はては東洋の仏教哲学などと関わってくる部分が少なからず出てくる。私はそれらの専門家ではないのでここで詳しく述べることは叶わないのだが、しかしながら実際、それらの知見は私にとって、音楽を探求していく上において、有用な思考材料となる事は事実である。私はこのような叡智をわずかながらでも学んでゆく中で、私なりの音楽への眼差しというもの、そしてその向けるべき角度や視点などを変化させてきたのである。
さて、このような純粋な音そのものを知覚するという事は、一般的に言えば我々の外部で実在するであろう音響現象としての音が、我々の意識の内に立ち現われるという事である。しかし、我々の意識は我々自身の外に出る事は出来ない。我々は、自身がそれを存在の意味から知覚し、意識に現われたそれを、そうであると確信する事によって、はじめて我々の外部にそれがそのように在る事を了解する。そしてそのように我々の内に現われた音響は、また我々の、いや我々はその現われたそれに応じての情動的な変化を引き出されるといえる。つまり、与えられた音の属性による感触に対して、いつも我々の内に可能性としてある情感的、あるいは情緒的感情とでもいえる情動が呼応し、顕現される。仏教哲学で言えば”境智冥合”するとでもいえようか(現われた音が”境”、それに対応する我々の潜在的可能性が”智”。その合一が”冥合”)。例えば、長三和音には長三和音、属七なら属七の、その固有の調的響き(属性)に応じて我々は、それらの響きに呼応するようなかたちで情感を意識野に顕現する。この事は他の属性要素、例えば強弱の起伏や音の持続曲線であるとか、音の高さなどの条件にも関わってくる。そしてこのような種々の属性要素を作者が意図的に、自らの呼応する情動を足がかりにしつつ、自身の持てる感情や思いに対応すべき音の属性要素を組織化し、他の聴取者においても同様の効果を発揮すべきことを確認しながら、作者自身の自己表現が他者においてもそのように実現すべき音楽作品として作り上げる事も可能になる。
我々の生命に備わる情動的な働きとは、実に敏感な作用である(個人差はあるが)。種々多様に織り成す音の変化、その微妙さにも良く呼応する。特に作品の構成要素として歌詞=言葉を加えた場合、その効果は極めて強力である。言葉とは何かを指し示す、あるいは表現するという性格を持っているからである。言葉は音響よりもはるかに良く作者の表現的な意図を伝える道具になり得る。その機能をよく利用せんと欲するとき、音響はその言葉の機能を引き立てるべくして一歩退くのがおおかたの通則である。この段階においては、すでにその音楽作品は、”〜のための”道具であり、一枚も二枚も衣が着せられ、その音楽作品は音楽そのものの純粋な姿、存在の深淵にたたずむ微かなる明るみを、その着せられたる衣の内に覆い隠されてしまっている。なるほど音楽とは何かの目的のための仲立ちとして在る事もまた可能である。中にはさらに明示的に、あからさまに用具的に在る作品もある。例えば行進のための音楽、踊るための音楽、映像のための音楽、雰囲気作りのための音楽、娯楽のための音楽として作られた作品等々。音楽はまた人間にとっての日常の出来事に即してさえ、有用に利用されうる事も可能であるという事である。そのような音楽作品も音楽それ自体のかく現われ得る可能性の内のひとつではある。したがって、私はそのような音楽の用いられ方や、そのような作品というものを善からぬものとして否定するものではない。しかしながら、私自身がそのような姿勢で音楽に向かい合う事は無いであろう。
とはいえ私において、例えば自己表現ではなく、音楽という音響現象そのもの、それ自体を目的とし、成就せられ、その成就せられたるところの当の作品は、それ自体として、その作品は一体、”〜のための”作品であるのか?と問う事も出来るであろう。つまり私においてはその作品そのものが目指すべき到達点であったのだが、にもかかわらず、私という視点からではなく、他者(例えばあなた)の視点から見た場合、その作品は何ら用途(目的)の無い、ただそれだけのものでしかないように思えるのである。このような事態を私の発想からいうならば、まさに音楽に捧げるためだけの、閉じた音楽作品であろうか?そうではない。音楽作品とは私ならざる他者に聴かれ得るという意味で、如何なる作品であっても開かれている。ましてや私自身がその目的を成就する事をもって満足とするためにのみ在るのでもない。そのようにいえるのは私がこの作品を作る事においてのかぎりであり、私が手がける個々の作品それぞれに向かっての意志においてである。しかし個別の作品を作る事から一歩我が身を退けてみたとき、私が個々の音楽作品を手がけるという事の内容が見えてくる。すなわち、”私は一体「何のために」斯くある音楽をこのように作るのか”といったふうにである。この場面での回答は、自己満足や娯楽のためではなく、金儲けのためでもない。多少大げさに言えば、あなたを含む人間一般のために、という事になる。私が個々の作品を手がけるのは、その作品自体を目指す事においてである、という事がこの場面においては、私が作品それ自体を目的とするのは、”広く人間一般のために”である、という事になる。場面の層が違うので同列に扱う事は出来ないが、それは私が音楽作品を手がける事のひとつの前提であって、その上でひとたび私のもとを離れた個々の作品が、その形式的完成をみた時点において、その目的自体が完結してしまうという事ではないのである。この時点で私が前提とする視座において、作品は開かれつつ、例えばあなたに聴かれる事(すなわち、あなたにおいて再創造される事)をもってようやくひとつの完結をみる事が出来る。またはそう願うしかないのだ。ただし、それは私がその作品に意図した事をもって、そのような態度、そのような聴き方で、聴取者において、その私が意図する事が経験される場合においての限りでしかない。しかし、私はそこまで立ち入る事は出来ない。
ともあれ現時点において、私が自分の音楽に向ける眼差しとは、上にまわりくどくも記した事柄がその中心にある。そこに現われるのは生身の音響であり、ひとつの作品の全体であり、そのありありとした運動と変化である。いや、そう在るべく手がけんがための努力であるともいえる。しかしながらその事が、私における音楽の究極なのではない。むしろここに至って初めて私独自の展開の可能性が開けてくるのだといえよう。その意味からいえば、ようやく私は自分の音楽へ向かう道をみつけたといえる。私の本当の思索と探求はこれから始まるのである。それはまた、私の生涯のまさに終わろうとする時まで。
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4.現時点での手続き・・・手法的手段
目的を満足させるためには何らかの手段が必要である。それは現在においていえば種々いくらでもあるのだろうが、私の場合はまず、自分に必要でないものを切り捨てていく事にしよう。・・・音楽に表面的な主張や、厚ぼったい感情的な連想を促してしまうような要素、これはほとんど私がかつて用いた西洋の伝統的な手法についてあてはまる。例えば調性的機能和声の響きの衣は、それを包む本体ではなく、その着せられたる衣自体の華やかさを主張したがる。そしてその調的和声を基として導き出された旋律や和声の進行、拍節、強弱、速度等。さらには具体的構造として、楽曲の骨格を成す主題、及びその主題の動力源である動機(かつて私はこれこそが出発点であった)。これらの要素は一般的に言って、音楽を音楽たらしめている、まさに音楽の生命線であると認められているところの要素のほとんど全てであろうが、今やこれらのものは私には大して必要ではなくなった。ただし、私におけるここでいう主題とは、通常考えられているそれの在り方とはまた違ったかたちで尚も存在するであろう。すなわち、ある楽曲をそのように在らしめんとする発想それ自体としてである。
次の段階においては、用いるべき手法を考えてみる。和声的な機能と響き、またそれに従属する諸要素を排除したのであるから、必然的に非和声的な技法をとる事になる。ならば用いるべきはシェーンベルク流の12音技法であろうか?しかしこれは現時点において用いるのは、伝統的和声をひきずるに同じく中途半端であろう(決して12音技法を非難しているのではない。あくまでも私の”今”においてである)。であるならば次の世代のヴェーベルンに端を発する点描的音楽であろうか?これはすでに方法的にその限界が露顕し、固着してしまっている。しかし、それらの技法たる英知が開示した恵みは大きかったはずである。その内より音程だけではなく、音に関するあらゆる要素を素材として扱いうる数列、要素間の比率による配列に関する技法を抽出し、用いる事が出来よう。しかし、それは決して全面的セリ−主義的に用いるためではない。厳密なセリエルな技法とはすでに過去のものとなってより久しい。しかし、そこからそれを乗り越える事によって開かれた重要な概念、”不確定性”。その確定と不確定の両の極の間に広がる広大なる領域、形式の可能性。そしてそれは、音楽とは閉じた音の構造としてではなく、その構造とはその都度においての音楽の内部的経過_プロセス_として、つまりあらゆる方向に向けて開かれている事の可能性を開く。私はそこにいくつかの関心を持っている。そして私はそれらを足がかりにする事が出来るであろう。例えばそれは”群”による構造化への指向性であったり、”可変的”、”多義的”、”領域的”な形式概念であったりするだろうし、また偶然的、統計的処理の導入の仕方等であったりするであろうが、しかし技法、手法といってもそれは文字どおり用いられるものでしかない。いかように用いるかはその用いる者の理念に関わってくる問題だ。そしてその理念とは音楽への具体的な見通しとして現われてくるであろう。その音楽への見通しにおいてはその求めに呼応して、その都度様々な新しい発想が誘発される。
さて、音の要素をどうこうする以前に、それがいかなる音におけるどのような要素なのかという実際的な興味がある。楽曲に用いられうる素材としての音は、現在においては制限が無くなった。通常の器楽音であろうが、また自然音であろうが雑音の類、電子音やその合成音であろうが、およそ空気中を音波として伝わる現象は全て素材たりえるのだ。私は当面のところ、通常の器楽音に加え、純粋な正弦波音、或いはそれを合成したものや、ノイズ、それらを変調したもの、またフィルター等の電子的プロセスを用いた処理によって、その各々のパラメーターを配列的手法によって構造化し、ひとつの作品にまとめ上げようと目論んでいる。しかしながら、多様な要素を配列的に構成するとはいっても、それは全てにおいて合理化する事、斯く在るべきものとして全ての要素を支配する事を目指すものではない。先にふれたように、私はむしろ不確定的要素の混入を、またそれによる結果として、作品そのものがどのように聴く者の内において経験されるかという事に関してこそ、今大きな関心を持っているのだ。この不確定的要素、統計的要素あるいは任意性といった予測出来ない要素も、楽曲におけるひとつのパラメーターとして操作できるであろう。例えばそれは確定済みのある音群と、別のある音群とのその都度の出会う場面、音群同士の合成の仕方などの相に現われるであろう。すなわち、ひとつの楽曲は演奏されるごとに前回と同じ音の集合であるにもかかわらず、しかもそれとは違った音響の集合体として聴かれるような手法である。もちろん、ここに挙げた事はすでに行われているものばかりであるが、私にとっては、手垢のついた手法であろうがなかろうがどうでもいい事であって、私の音楽に向けての見通しに応じて、それを実現すべく用いられるこのような手法は、その見通しや発想それ自体にしたがう。
新しい作曲技術の開発。それは音楽家の領分である。しかしそれは決して音楽そのものとは別にある事柄ではないであろう。私においてはまず、音楽そのものへの眼差しに呼応して、それへと向かう途上として試行錯誤されるべきであろうと思う。ある技法によって、それに基づいたかたちでいかような作品が創造され得るかとの可能性は、その根拠たるその或る技法が有効に機能し得る範囲においてである。音楽に、より包括的な可能性を見出し得る技法もあればまた、より限定的な可能性しか見出せないものもあるであろう。例えば調性的機能和声を指導原理としたヨーロッパの伝統音楽(さすがに現代の”クラシック音楽”の分野においては、ここでいう伝統的手法による新作はほとんど作られてはいないであろうが)や、そこから”美味しい”ところを拝借し、それに基づき我が体を成すかの如きポピュラー音楽の類を聴いてみれば良く分かる。そこでの音楽は、最早その使命を全うしたにもかかわらず、長らく使いまわされたその原理的影響力(和声理論やカデンツなどの運動性)に再び拘束され、その強力な枠組みから逃れる術を知らない。そこでの音楽は些細な抵抗こそはし得ても、根本的にはそこに働く重力からは逃れられない。この事はすなわち、音楽の表出し得る可能性をそのようなものとして限定してしまう事に他ならないであろう。しかしながら、およそ人間が音を選び、使用し、ひとつの楽曲として構成するという事は、音楽の可能性を多かれ少なかれ限定するという事ではある。これは原理的な事柄であって、如何なる作曲家も程度の差こそあれ、逃れられない事なのだ。如何なる音楽作品であってもそれは、或る理念と手法でもって、そのように顕在化された音楽の可能性である。作曲技法はおのずと可能性と限界とを蔵するものである。であるからこそ、かつてより多くの音楽家たちがその時点でその都度、使い古され膠着した可能性_いつも同じようなものしか生み出せなくなった技法的可能性の限界_から身を引き離し、打開し、そう在らざる新しい可能性を作曲技法の試行錯誤と刷新に求めたのではなかろうか。それは人間の絶え間なき創造性の欲するところのものであろう。そして今や、かつての伝統的な手法による重力源から逃れ出た音楽家たちは、その無重力の只中にあって、逆に自らが新しい重力源を与える事を求めているのだ。
器楽音か?電子音か?
さて、話は素材としての音に関する話題に戻るけれども、半世紀前の音楽の潮流の中で、アイマートやシュトックハウゼンらによって前代未聞の”電子音楽”(ここではミユージック・コンクレートを除く)がひとつの分野として開始され、確立されたのであるが、その(当初においては)楽器や演奏者を必要としない新しい音楽は、決してその時代の電子技術の進化の程度にのみうながされて現われたのではなく(つまり可能な電子音を、単に既存の楽器と置き換えるのではなく)、同じくシュトックハウゼンやブレ−ズ等が推し進めていた全面的セリ−主義_トータル・セリエリスム_が、よりその先鋭度を増し、厳格さを強めて行くにつれての、必然としての手法的帰着であったという事を理解しておく事は重要であろう。
この時期、セリエルな音楽はその途上にあって、すでに人間の手元に置いておく事の限界点にあった。すなわち、厳格にセリエルに作曲しようとする作曲家にとって、如何に全ての音の要素を統一的に組織化し、それによって楽曲に与える最小単位から最大単位・楽曲そのもの、全てにおいて無矛盾に作曲し得るか、という事が関心の中心にあった。しかし、与えられた通常の音楽的条件にあっては、セリエルに扱い得るのは音高、音長、強度、或いはアタック、エンベロープなどであったが、しかし、音色というパラメーターに関しては、通常の楽器を用いる限りでは全く思うようにはならなかったのである(つまり、或る楽器はその固有の音色でしか発音できない)。したがって、その条件にある限りにおいては、いかに厳格にセリエルな作曲を成そうとも、音色に関しては未だ矛盾を孕んだままなのであり、ヴェーベルンを淵源とみなす一派においては、音楽は未だ完成してはいないのである。
そのような中にあって、例えばシュトックハウゼンは当時の音響物理学の知見(例えば、フーリエ解析によれば、あらゆる音は正弦波音の混合に還元される等)から、音の最小構成要素としての正弦波を音楽の中に持ち込んできたのである。また当時の電子技術はそれを可能とすべく水準に達していたのだ。
”作曲という行為はいままでよりも一歩踏み出して、作品構造と、その作品の中で用いられている素材の構造が唯一の音楽的理念から導出されるのである。素材構造と作品構造とはひとつでなければならない。”(シュトックハウゼン〜音楽論集)
かくしてシュトックハウゼンにおいては”習作T、U”(1953)によって、電子音楽の初期的な成果を世に示す事となったのである。それらにおいては原初的でこそあるけれども、純粋な正弦波や狭帯域フィルターを通したノイズをセリエルな手法でもって統一的に組織化し、音色さえも”作曲”する事の可能性を開示しているのである。_しかし、電子音楽はセリエルな厳密性が求めるものに留まらず、後にそれさえも踏み越えるべく可能性を秘めていたのであるが_ともあれこの荒業的な新しい技法によって、単なる音のみならず、音楽そのものにおけるあらゆるパラメーターを制御し、関係付け、組織化する事が可能となったのである。この段階においては最早、既存の楽器は必要ではなくなり、さらには再現する事においては人間による事さえも必要ではなくなった。電子音楽は(当時は)磁気テープの中で固定化され、それは演奏される音楽ではなく、ただ機械により再生されるだけの、全面的にセリエルな音楽としての、言わばひとつの標本のような音楽作品であった。まさに急進的セリ−主義者の理想の下に音楽が結晶化し、その厳格さのうちに備えていた結末に終に行き着いた、という所であろうか。そしてさらにはっきりとしてきた事は(電子音楽に限っての事ではないが)、このような手法でもって全てのパラメーターを統一的に等しく扱い、それに従って厳格に作曲こそし得ても、結果として全ての要素は不平等を免れないという事である。例えば音価の大きい音は小さな音に勝り、音量の大きい音は他を圧し、強いアタックはそれだけでも優位である等、である。
もともと12音技法に端を発するセリエルな技法は、かつての調性的和声体系における音の階級的不平等を破壊し(もっとも、12音技法の創始者たるシェーンベルク自身は、かつての調性的和声に取って代わる新しい和声の枠組みとしての期待を12音技法に持っていたようだが)、ヴェーベルンからメシアンへ、そしてその門下生であったブレ−ズやシュトックハウゼンを中心とした戦後のヨーロッパ前衛(ドイツ・ダルムシュタットやフランスを中心に)へと継承されてゆくにつれ、およそ音楽における全ての要素を底辺に流れる根本的理念に基づいて、如何に統一的に矛盾なく組織化する事が出来るかという事が中心課題として急速に先鋭化してきた。しかしながら、当の音楽自体がそのように作曲されたにもかかわらず、結果としてその様にあらぬという事が表面化してきたのである。そして斯く在る必然と偶然とを分け隔てる境界についても。
ともあれ、このような電子音楽という新しい技術を手中に収めた段階で、過去の音楽に深く根ざしていた既存の伝統的楽器というものは必要の無いものとなったのであろうか?それともまだ新しい音楽における可能性の余地を残しているのであろうか?そして演奏家は?後にシュトックハウゼンはそのひとつの回答として、1956年に”少年の歌”、1960年には”コンタクテ”を発表している。前者においては(テープ作品ではあるものの)人間(少年)の声と電子音の空間的融合が、後者においては実演可能な作品として、従来の楽器と電子音とが極めて密接なものとしてひとつの作曲法のもとに合成され、未だ器楽音と電子音とは相容れないものではあるものの、その組織化は拡張された技法によれば可能である事を示している。この時期シュトックハウゼンは、すでにトータル・セリエリスムの膠着を乗り越えていたのだ。そして、そこでの成果は実に大きな可能性を担っていた。彼は以前よりトータル・セリエリスムを厳格に推し進める事による当然の結末、そのなれの果てを予見し得たはずである。最早彼には厳格な技法としてのセリエリスムの追求は必要ではなくなった。しかしその原理的な部分は継承するけれども大事な事は、何か新しい地平の下にそれの可能性を切り開いていく事だったに違いない。その新しい地平とは、セリエリスムの厳密な確定性に対する不確定性を導入する事においてである。
上記のくだりはすでに40年程前のヨーロッパ前衛音楽の流れにおいてである。それはまた私が関心を持つ事柄のひとつとして取り上げてみたに過ぎないが、もちろんこの同時期においても別の音楽の潮流があった事は言うまでもない。しかもここでの話は当時の音楽の中での前衛という限定的な領域での出来事であり、同じく前衛にあってもまた別の流れも在ったのである。しかし、私においてはこのような変遷と、その後ここから現代に至るまで何らかの形でもって続いて行くであろう発見や創意工夫、探求と努力は刺激的であり、示唆的でさえもある。しかし私は、この時代の技法をそのままの形で援用する事は無いであろう。今や作曲する者自身の独自な音楽論理というものが、以前にも増してより大きく求められているのであろうと思う。音楽の歴史が現代に近づくにつれて私の関心は、素材から構造へ、そして音楽自体の形式へと向かい、終には音楽それ自体に向かっているように思える。私が音楽作品を手がけようとする時、まずは音楽それ自体への見通しから立ち返りつつ、それを実現すべく欲するところの条件に従う形で、或る手法は用いられるであろう。その足がかりとなるものは思いのほか多くあるように思う。手法、創意と工夫、その途上での闘争、失敗、挑戦、音楽への探求・・・いずれにしても私の内に起こるそれぞれの出来事はずいぶんと近い所にあるものである。
シェーンベルク以降、音楽の潮流はいくつかの分岐点を経つつ、様々な試行錯誤や発見が為され、その流れは急速に拡散しつつ現在に至る。しかしながら、そこに興った新しい音楽の流れにあるもの(いわゆる現代音楽)については、未だにより広く聴衆の間に受け入れられ、正当に理解されているとは言いがたい。それは何故だろうか?このような音楽はもとより人間の感性には受け入れ難いものなのであろうか?それとも聴衆の多くがそれを聴き入れることが出来る程までには達していないのであろうか?それともなければそのような音楽を広く紹介し、啓蒙あるいは教育する立場の者の不備によるのであろうか?
2002,12,6
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