終章 祝福のために鐘は鳴る

 ――違うと思った。
 優しい笑顔、穏やかな性質、公平な態度。
 ――うれしいと笑った。
 破られた偽りの笑みと、素直な感情の発露に。
 ――忘れないと決めた。
 長くはない人生の中で、自分があがなうべき大切な人の不在。

 ――見つけたと思った。
 なくしていた半身、パズルの最後の一ピース、たった一つのしがらみ。
 ――とらわれたと笑った。
 その素直さと、こちらを見透かす瞳に。
 ――渡さないと決めた。
 短くはない人生の中で、焦がれて渇望し続けていたモノ。

 異端たる色なき色と、黒より深い混沌。なにものにも染まれぬ者と、染まらぬ者。
 似て非なる二人。誰より理解できて、けれどわかりあえない相手。
 だからこそ出逢った。
 万華鏡と詐欺師は、だからこそお互いを見つけた。


 透き通るような鐘の音がきこえる。
 それは喜びの音、今日という日を彩る祝福の音だ。
 真っ白なドレスに身を包み、今日の主役である樹は窓を開け放つ。鐘の音が、いっそうききとりやすくなった。と、鐘の音の中に草を踏みしめる音がまざる。
 もしや『彼』だろうか。いや、もしも本当に彼ならば、こんな草むらを通ってくるはずがない。彼もまた本日の主役なのだから。それにどうやら、足音は一つではなく複数のようだ。
 誰だろうと首をかしげている間に、足音はどんどん近づいてきた。やがて現れたその姿に、樹は目を丸くした。
「――伸一(しんいち)。それに……綾(あや)!」
「よ、樹(いつき)。久しぶりだな」
「樹、会いたかったわ!」
 急の訪問に驚きつつ窓から顔をだせば、建物の構造上少し下にある伸一の表情が和らいだ。それにつられて樹の口元にも笑みが浮かぶ。
「うん、私も会いたかった。……まさかこんなとこから顔を出すとは思わなかったけど」
「ふふっ、驚いたでしょう?」
「すごくね」
 満足げに笑う綾子(あやこ)の横、伸一はヒュウと口笛を吹いた。
「いやあそれにしてもまあ、ずいぶんめかしこんじゃって!」
 どこかからかうような、茶化した伸一の声音に変わってないなと思う。
「似合わないか?」
「まさか! お前によく似合ってるさ」
 どうせあいつが選んだんだろう? という問いにそうだとうなずけば、綾子が憤慨したような声をあげる。
「まったく、花嫁に衣装を選ばせないなんて、とんだ花婿もいたものだわ。出来るなら私だって選びたかったのに」
 本気とも取れる口調で、綾子がそっとこちらに手を伸ばす。ほおにふれた手に導かれるまま、樹の頭は親友の胸元に抱き寄せられた。
「……おめでとう、樹。とっても綺麗よ。あの男に嫁がせるのがもったいないくらい!」
 彼女らしい最高級の賛辞に、樹は温もりを感じながら目を閉じた。
「うん、ありがとう」
 頭を抱えていた手が名残惜しげに離れる。再び目を開ければ、二人の友人が優しく自分を見つめていた。
「来てくれて、本当に嬉しい。でも二人とも、なんでこっちから……?」
 もう少しすれば式の時間だし、友人である二人を誰がとめるはずもない、普通にドアから入ってくれば良かったのだ。なのに、二人はわざわざ外をぐるりと回って窓の外から声をかけた。
 当然の疑問に、綾子がふふっといたずらめいた笑顔を見せた。
「もしも、もしもね……樹が少しでも辛そうな顔をしていたら、私がここからさらってしまおうと考えてたのよ」
「綾……それ冗談にきこえないから」
「あら。だって本気だったもの」
「そうだぞー。この人真顔で俺に提案したんだからな」
 どことなく疲れた表情でため息をつく伸一の姿に、それがおおよそすべて真実であることを悟る。
 親友の多少強引なところや、自分に対する過保護ぶりをわかっていたから、樹も伸一に対してお疲れ様としか言えない。
「まあでも、それだけ幸せそうな顔してるんだもの。連れていけないわね」
 心底残念そうな親友は、寂しそうに微笑んでもう一度樹にふれた。
「今回は私の負け。でも、私はいつだってあなたの味方よ。あの男に泣かされたなら、すぐに言いなさい」
 はかなげな笑みを一転、不敵なそれに変えて綾子は言った。
「今度は容赦しないわ。私があなたをさらってあげる」
「あはは、頼りにしてる」
 二人で目線を交わしあって、指切りをする。
「……ラブラブのとこ申し訳ないんだけどねえ」
 コホン、とわざとらしい咳をして、伸一は腕時計をかざして見せた。
「そろそろ式の時間が近づいてきた。あいつも来るだろ。俺たちが自分より先に樹のドレス姿見たなんて知ったら、まーたへそまげちまう。ずらかろうぜ」
「えー、みせつけたいのに」
「勘弁してくれ、宮小路。俺が殺される」
 伸一の切実な願いに、しぶしぶ綾子が窓から一歩下がる。
「後でね、樹。お式楽しみにしてるわ」
「うん」
 まだその場を動かない綾子に、先を行く伸一から催促が飛ぶ。
「ほーらー。行くぞ、宮小路(みやこうじ)」
「東城(とうじょう)、私に命令しないでくれない?」
「はーい、はいはい」


 鐘の音が聞こえる。幸せの到来を告げる鐘の音は、始まりの合図でもある。
 もう少しだ。もう少しで式が始まる。
 緊張とも違う、どこかくすぐったいような気持ち。自分がこんな感情を抱くようになるなんて、昔は思いもしなかった。
 椅子に座ったまま外を見れば、本日は快晴。どこまでも突き抜けるような青空は、柄にもなく『希望』という言葉を思い出させた。
 そろそろ、花嫁の支度も終わっただろうか。自分はとうに準備など終わっていて、いつ彼女の元に行こうか悩んでいた。
「そろそろいいか」
 式の前に一目会いたくて、椅子から立ち上がる。扉が叩かれたのはその時だった。
「……どうぞ」
 出鼻をくじかれたことに不快感を覚えながらも、仕方なく入室の許可を出した。扉がゆっくりと開かれ、音も立てずに入ってきたのは自分のよく知る二人だった。
「こんにちは、真澄(ますみ)さん。いえ、今は静匡(しずまさ)さんとお呼びした方がよろしいのかしら?」
「……長(おさ)か。別にどちらでもけっこうだ」
 いつもと同じくおっとりと微笑む老婆に、静匡はどこか投げやりに答えた。出鼻をくじかれたどころか、さい先の悪いことこの上ない客であるのは間違いない。
「申し訳ありません、静匡様。どうしても、とおっしゃられるもので」
 老婆の横ですまなそうにする側近に、気にするなと手を振ってこたえる。この老婆に一介の側近が勝てるはずもない。
「で、なんの用だ」
 こっちには用などないと無言で威圧する静匡に、長はころころと笑う。
「そう警戒しないで。『取引』は無事履行されるわ」
 ただ……と長は続けた。
「一つだけ、聞き忘れていたものだから」
「……聞き忘れていたこと?」
「ええ。まあ、わたくし個人の疑問ですけどね」
 そう言ってこちらを見つめる老婆にため息を一つ。
「はやく、言ってもらおうか」
「あら、教えて下さるの?」
「俺に教えられることなら」
 教えないとてこでも動かないような気配を体全体から発してるくせに、いまさらよく言うものだ。さすがは狸どもの元締めか。
「聞きたいのはこれだけ」
 一息をおいて、長は静かにこちらを見つめる。嘘を許さない、何もかも見通すような眼差しだった。
「……なぜ、あのような回りくどいことをしたのかしら」
 あそこまで用意していたのなら簡単に東城を潰せたはずだし、本気で東城から離れようと思ったならあんな条件を出すこともなかったろう。そして、それが『真澄』には簡単に出来ただろうにと長は冷静につぶやいた。
 そんなのは簡単だった。
 考えるまでもない。一つの答えしかない。
「安心して、穏やかに暮らしたかったからだ」
 正確には『暮らさせたかった』であるが、たいした違いではあるまい。
 東城に敵を作るのは得策ではないし、もしも『全てをマスコミに流す』という切り札を使っていたなら、今度はマスコミがうるさくなっただろう。
 最低限の騒ぎですませるには、東城に『真澄』という餌をちらつかせて黙らせるのが一番の上策だった。だからこそ自分は三年もかけた。
「……身体の安全だけでなく、全てから守りたかった。それで、いいのかしら?」
 長は、返る答えをあらかじめ知っていたかのようだった。いや、実際予想していたのかもしれない。
 うなずいた静匡に、長はあの日と同じ出来の悪い孫を見るような眼差しを向けた。
「そう……そうだったのね。そこまで、とらわれていたのね」
 そっときびすを返し、老婆は部屋を出て行った。「幸せにね」という言葉を残して。
 長を見送り帰ってきた側近に、静匡は小さな笑みを見せた。
「……本当にあの人だけは得体が知れないな」
「ええ、確かに……静匡様、どこに?」
 老婆を見送った扉から出ていこうとすると、側近が慌てたように声をかけてくる。
「あいつのところに行ってくる。黒田(くろだ)、なにかあったら頼むぞ」
「――了解しました」
 全てを悟った優秀な側近の一礼を確認し、扉を開ける。
 ――さあ、迎えに行こう。


 友人たちが去り、式の時間をじっと待つ樹の耳に届いたのは、こんこんというどこか控えめな二回のノック。
 ――ああ、きっと彼だ。
 期待と緊張でかれてしまいそうな喉から、一生懸命声を出した。
「……どうぞ」
 ちゃんと聞こえただろうか? そう心配する間もほとんどなく、樹の目の前に純白の衣装をまとった待ち人が現れた。音も立てずに入ってくる彼には、さすがとしか言いようがない。
 三年前よりもまた少し不敵な表情の多くなった彼は、今まで見たどれよりも極上の笑みで彼女に告げた。
「樹、迎えにきたよ」
 あの日――再び自分の前に姿を現した時と同じセリフ。きっと彼のことだ、わざとなのだろう。
 あの日のことを思い出し、少しだけ泣きそうになる自分を誤魔化して、樹はその場に立ち上がる。着慣れない、しかもかなり丈の長いドレスの裾をさばくのはなかなかに難儀だったが、なんとか転ばずにすんだ。
「静匡、もう式の時間か?」
 樹の言葉に、いつの間にかすぐ側まで来ていた静匡は、眉をはねさせ咎めるようにつぶやく。
「違うだろう、樹?」
「……なにがだ?」
 なにが違うというのか。首をかしげた彼女を静匡は片手で抱き寄せる。予想外に近くなった距離に樹は慌てたが、当の本人はどこ吹く風だった。
 それどころか耳元に口を寄せ、いたずらめいた口調でささやいた。
「二人きりの時は、その名で呼ぶなって言っただろ?」
 この男はいまさらなにを言うのかと思わず息をのむ。
 呆れ半分に「なにを馬鹿なことを」と言いかけたが、自分を見つめる男の瞳に期待だけでなく懇願の欠片も見て取れたから樹は仕方ないと諦めた。
 仕方ない。そう仕方ないのだ。そんな彼にとらわれてしまった自分が悪い。
 だから、数時間後には夫となる愛しい男の真名を呼ぶ。
「そうだったな――真澄」

 鐘が鳴る。祝福のために鐘が鳴る。
 万華鏡と詐欺師、二人の新たな始まりを告げるため、天空まで鳴り響く。

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