最終話 愛しき詐欺師 後編

 ホテル最上階からの景色を見つめながら、樹はもうはや後悔していた。レストランは確かに清潔かつ上品で、お見合い場所にしてはこれ以上の好条件はないだろう。
 だがどうにも自分には場違いに思えて仕方がなかったし、叔母に無理矢理着せられた振り袖も苦しくて、今すぐ脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。
 ――やはり、失敗した。
 脳裏に浮かぶのはその言葉ばかり。しかしもうお見合いはセッティング済み、あとは相手を待つだけである。いまさら逃げるわけにもいかない。
「どのくらいで終わるだろう……」
 こっそりつぶやいて、ため息を落とした。早く終わらせて、行きたいところがあるのだ。
 本当ならそっちを優先させ、お見合いは別の日にしてもらいたかったのだが『先方の事情』とやらで押し切られてしまった。それがまた、樹の気分を低くする。
 とりあえず形だけでもすませれば良いのだから。そう自分に言い聞かせ、黙って座り続けた。相手らしき人物が現れたのは、それから三つ目のため息を数えたときだった。
「――すいません、お待たせしましたか?」
 落ち着いた声に顔を上げると、黒髪のオールバックに眼鏡、ブランドもののスーツというエリートサラリーマンを絵に描いたような青年が立っていた。手元には鞄と、大きな封筒。見ようによっては医者や弁護士にも見えるかもしれない。
「瀬川樹さんですよね? 舞墨です。少し遅れてしまったでしょうか……?」
「え、いや……いいえ。大丈夫です」
「それはよかった」
 ほっとしたように微笑んだその顔に、やはり見覚えはない。相手もこちらの確認をとったことを思えば、やはり初対面のようだ。
 叔母は「舞墨さんが気に入ってくださって」と言っていたはずなのだが……。
「どうかされましたか?」
「……いいえ」
 悩んでいても仕方がない。とにかくさっさと終わらせるのが先決だ。
 叔母が始めた挨拶を気持ち半分で聞きながら話は進んだ。お決まりの自己紹介に軽い食事、そしてまたかるく会話。食事はうまかったはずなのだが集中していなかったので記憶にない。
 最終的には「あとは若い方で……」という例のセリフを最後にレストランから追い出され、いつの間にかホテルの中庭を並んで歩くはめになっていた。
「瀬川さん、お疲れのようですね」
「いえ、別に。なんともありません」
 のぞき込むように顔色を見られ、条件反射で愛想のあの字もなく答えてしまった。
 気を悪くしてしまったかとも思ったが、舞墨はそんな気配を見せることすらなく心配そうにこちらを見つめる。
「そうですか? ……でも、あなたが気づいていないだけかもしれませんから、そこのベンチにでも座りましょう?」
「……はい。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げれば、クスクスという小さな笑い声がした。もちろん出所は舞墨だった。先ほどから女性らしくない無表情やら無愛想な返事を連発する自分に、彼はなぜかうれしそうに笑う。
 不思議に思って問うてみると、少しはずんだ声が返ってきた。
「いえ、あまりにあの方に聞いていたとおりなので、つい。不快に思われたなら、申し訳ありません」
「不快とかじゃないですけど……あの方、ですか?」
 いっこうに誰だかわからない。そんな様子すら楽しむように、舞墨はうなずく。
「はい、あの方です」
 そのままベンチに連れて行かれ、座るようにうながされた。おとなしく座ると、舞墨は目の前に立ったまま、少し困ったような、すまなそうな顔をした。
「……実はですね、瀬川さん」
 内緒話をするようにトーンを落とす舞墨に、樹はその言葉を聞き逃さないようにと彼を仰ぎ見る。
「私、あなたに嘘をつきました」
「――え……?」
 突然何を言い出すのかこの男は。
 驚き瞳をまたたかせた樹に、彼はとっておきの秘密をばらす子どものようにささやいたのだ。
「……私は、舞墨ではありません」


「一、かつて東城真澄(とうじょう・ますみ)につながっていた人間全ての安全保障を望む」
 何をいまさらという声も聞こえたが、それは気にせずに真澄は次を暗唱した。
「一、これまでの働きの正当報酬として、以下の金額を望む」
 首をかしげる者が、出始めた。
「一、これよりこちらへのいっさいの口出しを禁止する」
 ざわりと、場がざわめく。先ほどの老人の手から、紙がぱさりとおちた。
 最後の行を言った時が見物だと思いながら、気取ることなくそれを唇からすべらせる。
「……一、新しい戸籍を望む」
 一瞬の沈黙の後、噴火のように老人たちが叫び始めた。
「ばっ、馬鹿な馬鹿な馬鹿な!! なにをたわけたことを……!」
「三年間の報酬にしては安い方だと自負しているが?」
「貴様は幽鬼ぞ。なにをしようというのだ……!」
「だから戸籍をよこせと言っている」
「そんなこと、わしらが了承するとでもっ」
「……こう言った方がわかりやすいか? ――黙ってみていろ。口を出すな。もう、話はついている」
「なっ、いつの間に……!?」
 口をパクパクと開閉する老人に、真澄はにぃっと笑って見せた。
「あんたらがくれたんだろう、東城の『全権』を」
 うっとうしくて仕方のない名ではあるが、『権力』という意味でならば役に立つ。新しい戸籍を作るぐらい、造作もなかった。ただ問題があるとすれば。
「さすがに『東城家長老』に出しゃばられると少々混乱が起きる。東城の命は二つもいらない。俺としても、手早くすませたいからな」
「そんな馬鹿な……っ!」
「現実だ」
 真澄の鋭い一言に沈黙がおちた。長(おさ)は何を思っているのかわからないが一言も言葉を発しない。半ば呆然としている老人たちの一人が、思い出したようにわめいたのはその時だった。
「――そうじゃ! お主、あの娘のことはもういいというのか!?」
 それにはっとしたように、老人たちが次々と続く。
「おお、そうじゃ。契約を破るというならば、わしらとて黙っている義理はない」
「真澄、お主の大事な者は、わしらの手の中ぞ?!」
 血走った目の中には、焦りとそれ以上の勝ち誇ったような光がある。下卑た笑みに真澄は「くだらない」と言い捨てた。
「この三年で、ずいぶんと衰えたものだな、ジジイども。俺は言ったはずだ、『取引』だと」
 勝負に出るだけ理由が、黙らせるためのなにかあるのだ、と。ようやく気づいたらしい老人たちは、背を丸め肩をこわばらせた。青ざめた唇がぶるぶると震えている。
 そんな中ただ一人、表情一つ変えない長がようやく問いを投げかけてきた。
「じゃあ真澄さん。この場合、東城家の『得』はなにかしら?」
 やっとまともな会話が出来そうなことに安心しつつ、真澄は答えを返す。
「仕事はこれまで通りやってやろう、真人(まさと)を傀儡(かいらい)としてな。そして東城の秘密も、俺が墓場まで持ってゆく」
 十分だろう? という真澄の言葉に、長は「なるほど」とうなずくが、老人たちはいまいち理解してないらしい。
 この三年で本当にぼけたかふぬけたかと、思わず嘆きが出そうになる。それを押し殺し、端的に説明した。
「ここ三年の東城グループのデータは、表裏を問わず俺の手元にある。中には法を前に口に出しにくいこともあるな」
「不正を警察に届けるとでもいうのか」
「ふん。警察程度、東城の力でなんとでもなるわ」
「ましてや、お主は東城とは浅からぬ関係の身。ただではすまんぞ」
 自信満々に無駄だと断じる長老衆に、そうかな? と問い返す。
「マスコミなら、どうだ?」
「なっ……」
「あいつらなら、面白おかしくこの家のことをかき立ててくれるだろうさ」
 書かれるのは不正だけではあるまい。醜聞をおそれ、真澄という存在を世間から抹消したこと、その真澄を利用し続けたことなども、全て明るみに出るだろう。
「それに、俺はもうすぐ東城真澄ではなくなる。言っただろう、戸籍自体は出来ていると」
 どっちにしろ、自分は東城から解放されるのだ。
 今度こそ黙りきった長老衆を前に、真澄はゆったりとした動作で時計を見た。側近が出て行ってから、すでに一時間がたっていた。
「言っておくが、俺がデータを出せなくすればいいと思ってももう遅い。さっき外に出た秘書の黒田(くろだ)に、データのコピーを持たせた。二時間たっても俺からの連絡がなければ、それら全てをマスコミに流すように言ってある」
 タイムリミットまで、一時間弱。腕組みをして、老人たちを、長をねめつける。
「――さあ、結論をもらおうか。取引にこたえ東城を守るか、それとも俺と争い……東城と心中するか!」
 好きな方を、選べばいい。


「舞墨じゃないって……え? どういう、意味ですか?」
「私(わたくし)、不肖ながら静匡(しずまさ)様の秘書をさせていただいてる者です」
 これ名刺です、と一枚のカードがさしだされる。「どうも」と、とりあえず受け取ってしまったものの、謎は深まるばかりだ。
「は、はぁ……。その、秘書のあなたがなぜここに?」
「静匡様の命令です。あの方は少々用事がありましたので。あとは、見合いの席であなたが驚かぬようにとの配慮でした」
 驚かないようにといわれても。
「影武者立てられる方が、よっぽど驚きますけど……」
 正直に出てしまった言葉に、舞墨の秘書とやらは首を横に振った。
「いいえ。あなたは今以上に驚かれる。そしてそれ以上に――っと」
 男のスーツのポケットから振動音がもれる。無機質なそれに気づいた彼は、「失礼」とつぶやき背を向けると、携帯電話を取り出した。
「はい、私です。はい、はい……。了解しました。現在地ですか? ええ、予定通り中庭のベンチです。はい――お待ちしております」
 ぴっという電子音をたて電話が切られた。再びこちらを向いた男は、ゆっくりと樹の横に腰を下ろした。
「もうすこしでいらっしゃいます。どうかお待ちください」
「いいですけど……舞墨さんって、どんな方なんですか?」
 問いに返ってきたのは、何かを含んだような笑みだった。意味もなくドキリとさせられる。
「すぐに、わかりますよ」
 確かに、もうすぐ本人が来るというならば『すぐにわかる』のであろうが……わざわざこんな遠回しなことをした舞墨という男の真意が知りたかった。だが、目の前の男は口を開きそうもない。
 ふう、と諦めのため息をつき、帯の息苦しさに耐えながら空を仰いだ。太陽のまぶしさに目を細め、今度は下を向く。そのまま特に会話することもなく、時間だけが過ぎた。
 早く、舞墨とやらが来ないだろうか。早く終わらせて、『彼』の元に行きたいのに……。


「――黒田(くろだ)!」
「……っ!?」
 突如響いた声に、樹は肩を震わせた。
 その声があまりに、耳になじみ深いものだったから。今まで一度たりとも、聞き間違えたことのないものだったから。
 ……まさか。そんなはずがない。あの声が、聞こえるはずがない。
 もしかしたらという期待と、そんな馬鹿なという己を戒める声が交互に頭の中に響く。混乱し、うつむいたまま顔が上げられなかった。
「ああ、お疲れ様です」
 横にいた男が立ち上がり、声の主に向かって歩き出したらしい。自分も立ち上がるべきだと思ったのだが、体が言うことをきかなかった。
 草を踏みしめる音が、徐々に近づいてくる。ふっと太陽がかげり、足音も止まる。視界の隅に見える、黒の革靴。
「ハジメマシテ、瀬川樹さん。舞墨静匡です」
 ほら、「初めまして」って言った。だから彼は『舞墨静匡』なのだ。あの人であるはずがない。自分の都合のいい、思い過ごしにすぎない。
 顔を上げよう。期待は無駄だったと知ればいい。聞きたいと思う気持ちが、きっと錯覚をおこさせたのだ。
 顔を上げることを決意した瞬間、男の手が樹のほおに添えられた。
「そして……」
 そのまま、自然な動作で顔を上に向けられる。眼前にあったものに、樹は目を見開いた。
「あ……!」
「樹、迎えに来たよ」
 三年前になくしたはずの人が、あの頃と変わらない姿で微笑んでいた。


「嘘だ……」
 目を大きく見開いたまま、樹が今にも消えそうな声でつぶやいた。
「嘘に、決まってる……こんなことが……」
「嘘? 何が嘘だって言うんだ?」
「だって! だってお前は三年前に……!!」
 くしゃりと顔をゆがめた樹に、舞墨――真澄は安心させるようにもう一度微笑んで見せる。
「俺だよ、樹。さっき言っただろう? 迎えに来たんだ」
「…………」
 呆然としたままの樹を立ち上がらせ、抱きしめる。彼女は抵抗することなく、腕の中に収まった。
「……命日だから、化けて出たのか」
 あまりに樹らしいセリフに思わず吹き出す。邪魔にならないようにと向こうで控えている黒田も、笑いを必死にこらえているようだった。
 実際、今日という『東城真澄の命日』を選んだのは偶然ではなかった。死んだ日に別人として生き返るのも悪くはないと思ったのが一番の理由である。だが、まさかそんな風に言われるとは夢にも思っていなかった。
「馬鹿、生きてるよ。ちゃんと足があるだろう?」
「……うん」
 しっかりと確かめてからうなずくその姿に、また笑いがもれる。
「でも……ほんとに、真澄……?」
「まだ言うか。俺以外の、誰だっていうんだ」
「だって、『舞墨』って」
「ああ、便宜上のことだ。一応俺は『故人』だからな」
「……やっぱり」
「――幽霊じゃないから安心しろ」
 世間的にはそうなのかもしれないが。
「名前が変わろうがなんだろうが、『俺は俺だ』。お前が、そう言ったんだろう?」
 あの日、そう言って樹が最初に真澄を縛ったのだ。あの言葉で、自分は勝てないと思ったのだから。
 それでもまだ不安気にする樹の瞳を、真っ正面からのぞき込んだ。
「三年間、連絡を取れなくて悪かった。……ただいま。今、戻ったよ」
 それまでしっかりとしたものが見えなかった樹の瞳に、まるでその言葉がキーワードだったかのように涙がたまり始める。
「真澄……真澄っ……!!」
 こぼれる涙を必死にぬぐい、少女は真っ直ぐに自分を見つめ言った。
「馬鹿。大馬鹿。この、詐欺師……っ」
「褒め言葉か? ……これからいくらでも償ってやるさ」
 ぎゅっと、樹から真澄に抱擁が贈られた。
「おかえりなさい……本当に、おかえりなさい……っ!」
 久しぶりに感じるあたたかさを胸に抱いたまま、空を見上げる。
 空が青い。世界が今こんなに愛おしい。やっと戻ってこれたのだ、彼女の元に。


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