最終話 愛しき詐欺師 前編

 真っ暗な部屋の中で目を覚ました。肩より下までのびた髪が、起きあがる拍子に視界をさえぎる。邪魔なそれを片手で後ろにやると、瀬川樹(せがわ・いつき)はベッドの上でのびをした。
「朝、か……」
 寝るのは得意であるが、当然のように起きるという行為が大の苦手である彼女は、起きあがったものの、いくぶんまだ脳が活動していなかった。下手をすれば、このまま二度寝になだれこめそうである。
 それでも二度寝をしたが最後、昼過ぎまで起きない自信があるからこそ、嫌々ながらも床に足をつけた。大学四年の現在、授業などあってないようなものだが、今日は珍しく朝一から授業があるのだ。
 冷たいフローリングの床を歩いて隣の部屋に移る。カーテンをあければ朝の光が差し込んできた。
 窓の横。少し小さめの、一人暮らしむけのカップボードの上には写真立て。
 それを見つめ、樹は小さく微笑んだ。
「おはよう、真澄」
 自分と、彼と、彼の従兄弟の三人で写ったその写真は、いやがおうにも懐かしいあの頃を鮮明に思い出させるものだ。最近やっと直視できるようになったそれは、見る度樹に愛しさと切なさをわきおこさせる。
 今はもう、彼は――東城真澄(とうじょう・ますみ)はいないからだ。
「もうすぐ……か。はやかったんだか、遅かったんだか、わからないね」
 写真の彼を、指でそっとなでる。温もりなんて伝わるわけないとわかっていても、それはなぜかやってしまう、樹のクセになってしまっていた。
 思わずもれたつぶやきは、どうしても自嘲気味になる。
「まったく、未練がましいな。あれからもう……」
 三年も、たつのに。


「三年、だな」
「――は? なにか、おっしゃいましたか」
 何気なく落とした小さなつぶやきさえ、側にいた男は聞き逃さなかったらしい。実に彼らしいと思いつつ、もう一度繰り返した。
「三年たつな、と。俺がここに入れられてから」
 真澄の言葉に、スーツをかっちり着込んだ秘書は「ああ」と思い出したように言った。
「もう三年ですか。ということは……」
「お前がここに押しかけてきて、二年だな」
 冗談半分本気半分の『押しかけ』という単語に、男は苦笑する。
「それを言われると困りますね。うまい言い訳が出来ませんから」
「まあ、助かったのは事実だ」
「光栄です」
 軽口をたたきながらも、手は休めない。ざっと目の前の画面に映るデータと、机の上に散らばった書類に目を通す。間違いのないことを確認し、それら全てを茶封筒につめて男に差し出した。
「――託す。『頼んだ』ぞ」
 一つの言葉に複数の意味を重ね、封筒ごと想いを託す。
 優秀な側近は、それら全てを引き受け不敵に笑って見せた。
「お任せを。……では」
 一礼して部屋から出て行く男を見送り、真澄はゆったりとしたソファに身を沈める。
 三年で、やっとここまでこぎつけた。もう少しで、どんな形だとしても全てが終わるだろう。
 感慨深く感じながらも、きちんと時計で三十分測る。最後の仕上げまでもう少し、ここでしくじるわけにはいかないのだ。
「……頃合いか」
 きっちり三十分後、側近に負けるとも劣らない不敵な笑みをうかべ、真澄はデスク上の受話器を取る。数回コールの後、すぐに相手が出た。
「――俺だ。『長(おさ)』に直接話すことがある。俺が出向くか、そちらがこちらに来るか選んでくれないか。……ああ、『東城』に関することだ。緊急で、ああ……了解」
 静かに受話器を置き、真澄はその場に立ち上がった。
「さあ、ラストステージだ」
 もう少し。
 そんな高揚感に身を包まれながら、真澄は部屋の戸を開けた。一世一代の駆け引きをするために。


「――お見合い?」
《そう、お見合いよ》
 電話先の叔母があっけらかんと言ったその単語に、樹はどう反応すべきか迷った。その間も相手は話を続ける。
《いい話なのよ? お相手は舞墨(まいずみ)さんとおっしゃるんだけどね》
 待ったをかけるタイミングを逃した樹に、そのまま叔母は話し続けた。ようやく「自分にはまだ早いのではないか」ときりだしたものの、《早くなんてありません!!》と断言されてしまう。
《ただでさえ樹ちゃんは浪人してて、他の子より卒業が遅れるのよ? もう二十三じゃないの。それなのに浮いた噂一つないし。おばさん心配で……》
 それを出されると、痛い。ただでさえこの叔母には昔から世話になっているのだ。
「心配かけて、すいません……」
《いいのよ。樹ちゃんはあたしの娘のようなものだし……ね、お見合いしてみない?》
「いや、でも……」
 樹としてはどうにも乗り気になれないのだが、いつなく叔母は強情だった。だが、いつまでもうなずく様子のない樹に疑問を持ったらしく、《もしかして……》とつぶやいた。
《誰か好きな人――心に決めた人でもいるの?》
 心に決めた、人――?
 瞬間、脳裏をよぎるたった一人の人。黒髪と、切れ長の瞳を持ったあの……。
《――樹ちゃん?》
「――っ! あ、はい」
 すぐにかぶりをふって、想いを打ち消した。
 だめだ。あの人を想う資格も、幸せになる権利も、自分にはないのだから。
 なくしてから気づいた想いなど、口に出してはいけない。
「大丈夫です」
《そう……? とりあえずね、会うだけ会ってみたらいいと思うの。経歴も申し分ない上に、どうも先方がずいぶんあなたを気に入ってるみたいなのよ》
 自分を、気に入ってる……?
 そう言われて、樹は首をかしげた。
「でも私、その『舞墨』って方、聞いたことすらないですけど」
 初めて聞く名前だった。
《そうなの? てっきりどこかで会ったことがあるのかと思ってたんだけれど……そう違ったの。で、どうする? やっぱりいやかしら》
 どうも、答えを出さない限り逃がしてくれないようだ。しかも自分に甘い叔母がこれだけしつこいということは……これはもう、腹をくくるしかない。
 お世話になっているし、恩返しと思えばいいか。
「……おばさん、会うだけでいいんですよね?」
《ええ。後は断るなりなんなり……あら。お見合いする気になったの?》
「とりあえず、おばさんの顔を立てます」
《あらあら! 樹ちゃん、ありがとう!! ――じゃあとりあえず、先方に連絡を取ってみるから、しばらくはスケジュールに余裕を持っておいてちょうだい。またそのうち、電話するわ》
「はい」
《じゃあね》
 うきうきとした調子で電話を切った叔母に、これだけ喜んでもらえるならまあ良かったかなと一人納得する。
「しかしお見合いなんて……」
 ガラじゃないな、本当に。
 先ほどから消そうにも消せない面影に、樹は気づくと問いかけていた。
「お前が聞いたら、なんて言うかな」
 答えは返らないと、知っている。


 真澄がこの三年間人の目から隠されて住んでいた離れの屋敷には、もう一人東城にとっての重要人物がいる。長老衆を束ねる『長』がそれだ。
 長はけして表だっては姿を見せず、いつも出てくるのは長老衆のみ。実質的に当主であった真澄ですら、今まで片手で数えるほどしか会ったことがなかった。
 だが今目の前に、その長がいる。離れの一番奥の和室で、二人は向き合っていた。
 長たる老婆の左右横には彼女の部下とも呼べる長老衆がはべり、こちらを警戒心が見え隠れする瞳で見つめている。対し老婆の方といえば、小柄ながらも背筋がしゃんとのび、真澄を正面から真っ直ぐに見据えていた。
 真澄自身の幼い頃から同じ姿であり続けるこの長の実際年齢は、ようとして知れない。上品かつ穏やかで、人の好さそうな老婆という印象とは真逆の得体の知れなさは、まさしく東城一と言っていいだろう。
「久しぶりですね、真澄さん。わたくしに直接の用なんて……珍しいこともあること」
 そう言ってころころと笑う様子には可愛らしさすら感じられるというのに、格下の長老衆にはない毅然とした余裕がある。
 その雰囲気に飲まれないよう気をつけながら、自分の意志を明確に言葉にする。
「話をつけるなら、あんたにするのが一番早い……そう思ったのは間違いか、長?」
「お話? どうにも友好的なものではなさそうね」
「そうだな、正確にいうならば取引だ」
 取引という言葉に、場がざわめく。長が反応する前に、格下どもが騒ぎ始めたのだ。
「取引じゃと? これ以上何を望む!」
「望み通りあの娘には平穏を与え、お主にもある程度の自由は許したはずじゃ!」
 確かに、待遇は当初よりもマシになったといえる。
 一ヶ月目はあの白い部屋に閉じこめられて時が過ぎた。しかし二ヶ月目にはグループを立ち直させるため仕事のしやすい今の部屋を与えられ、一年後には秘書がつき、一年半後には現在のように離れの中だけだが自由に移動できるようになった。
 鬼籍に入った幽鬼には、十分すぎる待遇かもしれない。だが、それは自由だろうか?
「自由ね……」
 鼻で笑った真澄に、長老衆がいきり立った。
「自分の立場をまた忘れたか!」
 しょせんは籠の鳥。部屋という籠が、屋敷という籠に一回り大きくなったにすぎない。
 まだ何かを言おうとする老人に先回りし、言葉をつむいだ。
「俺を信用し、全権を預けてくれたのには感謝している」
「……真澄さんにしては、ずいぶん謙虚なお言葉のようだけれど?」
「一応は、本心だ」
「一応、ね」
 仕事のためとはいえ、ある程度の設備が整ったのは幸運だった。画面越しとはいえ、外界との接触が持てた。
 ついで側近の出現、長老衆からの東城に対するほぼ全権の譲渡と、真澄の思い描いたとおりに、いやそれ以上にことは進んだ。条件はそろったのだ。
 そうやって今、この場に立てている。
「――長、取引をしよう。あんたらにとっても、そう都合は悪くない」
 懐から用意していた紙を取り出し、長にさしだす。受け取った老婆は、傍らにある眼鏡をかけると、ゆっくりとそれを読み始めた。
 静かに目で文字を追いかける彼女の表情に大きな変化はない。ただ読み終わってこちらを向いた時、出来の悪い孫を見るような、そんな眼差しをした。
「……真澄さん、ずいぶん無茶なことをいいだしたんではなくって? 本当に、こんな要望が通るとでも?」
「通るさ。他はともかく、あんたはこれがどういう意味を持っているのかわかっているはずだから。それに、かなり妥協したつもりだが?」
「だいぶん欲張ったように、わたくしには見えますけれど」
 そう言って、あまつさえ微笑んでみせるのは、心に残る余裕ゆえか、それとも心底真澄をみくびっているからか。
「……長、わしらにもどうかお見せください」
 話についていけなく、ずっと焦れていたらしい長老衆の一人が、長から紙を渡される。
 そして数瞬後には、目を動かすたびに青くなっていく老人がいた。反応としては面白いと思いつつ、まだ状況がわかっていない老人のお仲間のため、真澄は『取引』の内容を朗々とそらんじ始める。
 どこまでも、勝利を確信しながら――。


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