第六話 必然の邂逅 後編

「え……?」
 固まる笑顔にしまったと思いつつも、樹は開く口を止められなかった。
「そんな空っぽの笑顔なんて、いらない」
「樹、何を言って」
「僕はっ!」
 真澄の言葉をさえぎって、樹は真っ向から彼をにらみつける。
「僕は、そんなにお前にとって信じられない、どうでもいい奴なのか……っ!?」
「樹……」
 目の前には驚きに目を丸くした真澄の顔。何も言わず、凝視するようにこちらを見つめている。
 そんな状態がしばらく続くと、樹も少し冷静になってきてだんだん気まずくなってきた。思わず目線を下げてしまい、今度は真澄を見られなくなる。
 自分の前では、きちんと笑って欲しかった。辛いなら、苦しいのだと言って欲しかった。そう、思わず勢いで言ってしまったまではよかったのだが……。
 もしかして自分は、とんでもないことを口走ったのではないだろうか。
 これは八つ当たり? むしろなんていうか子どものわがままっていうか。
 そう自覚した途端、顔に朱が上る。
 恥ずかしい。自分は何を馬鹿なことを言ってしまったのだろう。真澄だってきっと呆れてる。もしかしたら、気を悪くしたかもしれない。
 ――謝ろう。謝るしかない。
「真澄っ……って、うわ?!」
 そう決意して顔をあげようとした途端、とんというかるい衝撃とともに目の前が真っ暗になった。しかもなんだか動けない。
 自分の前と後ろに感じる暖かみ。
 疑問符がひらりひらりと蝶のように舞う頭で状況を判断しわかったのは、もしかしなくても自分は真澄に抱きしめられているのか、という結論だった。
「えっと……真澄?」
 おそるおそる声をかけてみるが、彼が動く様子はない。
 おろおろしていると、肩口で真澄が「ふう」と大きくため息をつくのを感じた。やはり怒らせてしまったのだろうかとも思ったが、それとはなんだか雰囲気が違う気がする。
 しばしの沈黙。やがて彼は今までとは違う、本当に穏やかな声でぽつりとつぶやいた。
「……参った」
「え?」
「降参だって、いったんだよ」
 続いて耳の後ろで聞こえたクスクスという真澄の笑いがくすぐったくて身をよじった。
「ま、真澄? その、くすぐったいんだけど」
「――ああ、悪い。今離す」
 やっと離されて、少し上にある真澄の顔を見た。
 おかしくて、おかしくて仕方がないというその表情。それはやっと見られた真澄の本当の笑顔だった。
 それになんだか胸が温かくなるものを感じたが、同時にいつまでも真澄が笑い続けるものだから、恥ずかしさでいたたまれなくなってくる。


「なあ、樹。俺はお前の前では『俺』でいていいのか?」
 ひとしきり笑った後の真澄の真剣な表情に、樹は首をかしげた。
「真澄は真澄だろう?」
 それ以外の、なんだというのだろうか。
「……鋭いんだか鈍いんだかわからないね、お前は」
「なんだよ、それ」
「そのまんまの意味だよ」
「……?」
 なお首をかしげることになった樹に、真澄は『真澄の顔』で笑う。
 ちゃんと笑ってくれるのは嬉しいが、なんだか腹が立つのはなぜだろう。
「そうだな。誓うよ、樹。俺はお前の前では『俺』でいる」
 そう言ってもう一度抱きしめられた。
「……なんで抱きしめるんだ」
「スキンシップだから気にするな」
「そうなのか?」
 よくわからないが、真澄が言うならそうなのだろうと納得する。
「そうだ。せっかくだから、俺もお前に言いたいことがある」
「僕に?」
 そうだとつぶやいて真澄は樹を離すと、さっき樹がしたように、真っ向から見つめてきた。
 どこまでも真っ直ぐな視線に、樹は思わず身を固くする。そんな樹の姿に一瞬微笑みつつも、真澄はすぐに元の顔に戻った。
「お前は本当に、自分を大事にしないな」
 そういう真澄だって、お世辞にも自分を大事にする奴ではない。今回だって学祭実行委員でろくに寝てないと伸一から聞いている。
「それはお互い様じゃないのか?」
 茶化すように言ったが、それに思いのほか厳しい視線が飛んで来た。
「そうじゃない、体じゃない。樹、お前は……『自分自身』を、『存在』自体をないがしろにしすぎだ」
 なぜかはわからないけれど、思わずからだが震える。それに追い打ちをかけるように真澄は続けた。
「『自分』がどうでもいいぶん、『他人』が大切なのか? それとも『他人』を大事にしすぎて『自分』を捨てているのか?」
 お前のことだから後者っぽいけど、と真澄は言う。
「どっちにしろ、不器用な生き方だな。自分だけ大事にしてりゃいいのに」
 しかも、と推測は続く。
「本当は自分を今すぐ消したいくせして、他人が大事だからこそ、自分を完璧に消せないでいるんだろう?」
 厄介な奴だと言われ、自分のことを初めて理解した気がした。
 そう言われれば、そうかもしれない。
 自分はいつも、とけてしまいたい、消えてしまいたいという思いを抱いていた。
「逆だったら、楽だったのにな」
 ごまかすことは、すでに出来ない。
 するりと肯定の言葉が出る。
「そうだな……そうかもしれない」
 自分だけ大事で、他人がどうでも良かったら、きっとおもしろおかしく人生を過ごせただろうに。
 それでも自分は、大切にしたい他人がいる。だから、こうやって日々を過ごしている。
 考え込む樹の横、真澄は思いついたように付け足した。
「ああでも、そんなだからお前はお前なのかもな」
「それはどういう意味だ?」
 真澄は笑うだけで答えを返してはくれない。
 嬉しいはずの真澄の笑顔が、今はほんの少し憎らしい。
 むっとする樹に、ただこう付け加えた。
「そうだな……万華鏡かな?」
 いきなりの単語に首をかしげた樹の肩を、ぽんと叩いて。
「お前を例えるとさ、万華鏡かな、と」
 よほど情けない顔をしていたのか、真澄が説明をしてくれた。
「お前自身は一つなのに、中身がパラパラと散らばって、見る者やそのタイミングによって様々に姿を、印象を変えるんだ……そっくりだろ?」
 ますます意味がわからなくなった。
「……わからん」
「気にするな。だからこそのお前だ」
 謎かけのような言葉は、すべて真澄のペースのようで少し悔しい。
「まあなんだ。要するに、見る者によってはお前はクラゲだったり、鳥だったり、犬だったりするってことさ」
「なら」
 人によって違うというのなら、真澄にとっての僕は……?
 そう聞こうとしたのに、真澄ははぐらかすように言った。
「――帰ろうか。もうすぐ完璧に日が沈む」
「って、伸一は?」
 元々伸一を待っていたからこそこの教室にいたんだろうに。
 そう言った樹に、真澄は呆れたように目を細め廊下を見た。
「六時を過ぎたのに終わらないなら、まだまだかかるってことだ。あの馬鹿をこのまま待ってたら七時をこすかもしれない」
 二人分の鞄を持って、真澄は一人で教室を出てしまう。はやく追いかけないと男子寮まで鞄を持ってかれてしまいそうだ。
 ごまかされたと思いつつも、今日はそれでもいいかと思った。彼の笑顔を見れた、それだけで十分だ。
 暗くなり始めた教室を振り返って樹は願った。
 こうやって出逢えたことが、必然であればいい。


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