第五話 鏡の中の他人 後編
雨に濡れたままの親友に静かに近づく。樹はまるで雨など見えないように、うなだれたまま立ちつくしていた。 「ごめん、な……」 誰かに向けた力なきつぶやきに、こちらが泣きそうになる。それをまぎらわせるように、綾子は樹に傘をさしかけた。 「綾……」 当たらなくなった雨粒に気づいたのか、樹がゆっくりとこちらを向く。 雨音にかき消されそうなほど小さな呼びかけに、彼女のダメージの深さを知った。そう、いくら人から冷静に見えても、そうじゃないことは綾子には一目瞭然だった。 「風邪をひくわ」 なんて陳腐な台詞だろう。そう思いながらも、それしか言えない。 「大丈夫……風邪ぐらい、なんてことないよ」 ぐっと傘を押し返す樹に、綾子はしつこく柄を握らせた。 「私がイヤなのよ。あなたが、風邪をひくなんてね」 「でも、綾……!」 「でももなにもないの。親友の言うこと、ききなさい」 ふと見れば、彼女は全身びしょぬれだった。今まで傘なしだったのだから当たり前とはいえ、その姿はひどく寒々しい。 せめて顔だけでもと、ポケットからハンカチを取り出しそのほおをぬぐう。それに樹は目を潤ませた。だが、涙をこぼす様子はない。 「泣きなさい、樹。あなたにはその権利があるんだから」< 「ないよ。そんなもの、どこにもない。そんなこと、許されない」 必死にかぶりをふるその姿に「やはり」と苦笑する。 なんて不器用な子なんだろう……愛しさと悲しさで胸がいっぱいになり、綾子は傘を落とすと樹を力いっぱい抱き寄せた。 一瞬何が起きたのかわからず呆然としていたらしい樹だが、思い出したように暴れ始めた。 「綾、お前がぬれるっ……!」 だから離れてくれと必死でもがく親友に、綾子は逆に腕に力を込めた。今ここで、樹を離してはならないという警鐘が鳴っていた。 このままでは、樹は泣くことも出来ずただひたすら自分を責め続ける。 「……今だけ、あの男の代わりになってあげる」 「え……?」 驚いたせいか、樹のもがく力が弱まる。それに比例させ、綾子も少し腕の力を緩めた。 「私をあの男だと思って、言いたいことを言えばいいわ」 かなり不本意だが、今はそれしか方法がなさそうだ。 泣くことが許されないなら、文句を言うぐらいしなくては、樹が保たない。 屁理屈なのは重々承知。それでもどうにかして本音を引きずり出さなければ、樹が壊れてしまう。 いまだためらう樹に、仕方がないと最終手段を出した。 「樹、『言ってごらん』」 自分があの男の真似をするなんて絶対にあり得ないと思っていたが……緊急手段だ。 目を見開いた樹から、思わずといったように言葉が滑り落ちた。 「……ずるい、よ」 「うん」 よし、その調子だ。 髪をなで、自分がここにいることを伝える。しかしそこから言葉が続かない。だからもう一度樹を抱きしめた。 顔が見えない、声が聞こえにくいこの状況なら、少しは言いやすいだろう。それが伝わったのか、樹はためらいながらも賢明に言葉を紡ぎ出した。 その後は何を言っているかはよくわからなかった。それでも最後の言葉は耳に残っている。 「真澄はずるくて……残酷だ」 後日、たまたま会った伸一から真澄に何があり、そしてそんな彼が樹に対して何をしたかを知った。彼いわく、「あんたにゃ知る権利がある」だそうだ。……心遣いはありがたく受け取っておこう。 「それにしたって、もっと根性見せなさいよね」 思わずため息をつき、横を見る。すやすやと静かな寝息を立てる樹の姿がそこにあった。今日は綾子が無理を言って樹を家に泊まらせたのだ。 真澄が去ってもう一年がたとうというのに、あいかわらず樹は泣こうとしない。ただ今にも泣き出しそうな、辛そうな顔をするだけだ。 それは伸一と会ったときだったり、昔通っていた学校の生徒を見たときだったりとばらばらだが、真澄を思い出しているというのは考えるまでもない。 「あの日も言ったのに。あなたには泣く権利があるのよ、って」 本当に、この少女は意地っ張りなのだ。 真澄が死んだのは止められなかった自分のせいで、その罪はけして消えることがない。だから泣く資格などないと、そう思いこんでいるのが手に取るようにわかる。 あの男が樹に止められはしないと確信して伝えたことすら知っているのに、彼女は自分を責め続けてる。まさしくあの男の思い通りにだ。 泣きたいだろうに泣かないで、会いたいだろうに言葉にすら出さず、沈黙を友に日々を過ごしている。忘れられたら楽だろうに、刻まれた傷は深すぎてそれを許してくれない。そんな姿が痛々しい。 「違う方法はなかったの……?」 あの悪魔のように要領が良く、頭のまわる男が『自殺』などという手段に出た以上、本当に他に道がなかったのはわかっている。それでも悪態をつかずにはいられない。 あの男が当時どういう状況にあったのか、綾子は伸一が思っている以上に知っている。 蛇の道は蛇、とでも言えばいいのか。同じような『名家』という鎖に縛られる者同士だ、知りたくなくたって情報はいくらでも手に入る。 見合い話が出てたという。相手までは聞かなかったが、あの『東城家』が縁を結ぼうというのだから、それなりに良い家だったは確かだ。家同士の勝手な取り決めで、『結婚を前提に』どころか、『結婚』がほぼ決まっていたのも想像に難くない。 ……そういう世界だ、ここは。 「わかってたはずでしょう?」 いつかそんな話が来ることぐらい、そして自分の意志が通らないことぐらいわかってたはずだ。 だからあんな、死んだ魚みたいな目をしてたんでしょうに。何も期待しないことを、覚えたんでしょうに。 「馬鹿よねえ……あんたも、私も」 本当に馬鹿なのだろう、自分たちは。 全てわかった上で、それでも見つけてしまったから。欲しいという気持ちを、知ってしまったから。 愛しくて切なくて苦しくて、どうしても手に入れたくて狂いそうで。 馬鹿でわがままな自分たちは、止まれなかった。 「いっそ、見合い相手が私ならよかったのにね」 そうすれば、お互いに干渉しあわずたった一人を二人で見つめることだって出来たはずだ。 ああでも。 「きっとだめね。私たちは、鏡だから」 お互い妥協なんて出来ないだろうから。たった一人を泣かせることになりそうだ。 「ね、樹。……愛してるわ」 言って、傍らで眠り続ける少女の髪をすいた。 愛しくて切なくて苦しくて、どうしても手に入れたくて狂いそうで。 だからあんな手をとったのだろう。一番あくどくて、けれど確実なものを。 例えば、自分が男だったなら。 例えば、自分があの男と同じ立場だったなら。 ひょっとしたら、同じことをしたかもしれないと思う。 それでも、いやだからこそ思う。 「樹を泣かせるなんて、最低だわ」 鏡の中の他人に、そう毒づく。 「大嫌いよ、馬鹿男」 第四話前編へ 第六話前編へ 戻る |