第三話 棘のヌキカタ 後編
初めて会ったのは、三年前の春。全寮制の高校での入学式だった。 自分は十六で、真澄は一つ上の十七。伸一はさらに一つ上の十八。ただ伸一は事情があって留年しているらしく、真澄と同じクラスに属していた。 入学式で生徒の案内をしていた真澄に、栄は一目で心を奪われた。 その時はただかっこいい人だと思っただけだったが、入学式での生徒会長としての祝いの言葉を述べる彼に、再び目を奪われたのはまぎれもない事実だ。 部活勧誘が始まる頃になると、彼は生徒会の補佐にあたる『イベント部』の客寄せパンダにされていた。ちなみにその案を出したのは伸一らしい。 イベント部とは要するに何でも屋、雑用係で、学園内でなにかトラブルが起きたり、催し物があると、生徒会の陰となり日向となり援護する、限りなく地味でめんどくさく、しかもかなりつらい重労働だった。 伸一の案である『真澄で部員を大量捕獲大作戦』(別名・客寄せパンダで酒池肉林)は、確かに半分は成功したといえよう。 当初イベント部は、真澄目当てで山のような部員が集まったからだ。(もちろんほとんど女)栄だって、その一人だった。 しかし、しょせんは軽い気持ちで入部した女の集まりだ。 栄と他数名をを除くおおかたの部員は、その仕事のきつさにどんどんやめていった。 だけど栄はやめなかった。仕事はきついが、わりと性に合っていたし、なにより真澄の側にいられて、親しくなれるのが嬉しかった。 部活で仕事を共にする内に、優しく人当たりの良い真澄は家柄もよく、まさに生徒会長にふさわしい人物だとわかった。 勉強も出来て、スポーツも出来る。幼い頃からの英才教育の賜物、金の卵だと教師は言い、女生徒の半数は彼に憧れ、少しでも親しくなりたいと考えていた。 イベント部は辛いところだったが、真澄と親しくなるには最も近い道だったのだ。 「なかなか良い根性をしている。いつも悪いな、助かってるよ」 入部してしばらくしてからの真澄のその一言は、言葉にいいあらわせないほどに嬉しかった。 この微笑みと言葉がもらえるなら、どんな仕事だってやれると思った。 それから数ヶ月が、自分にとって一番幸せだった時期だと栄は思う。 別にそれから幸せじゃなかったわけじゃない。真澄の存在は、栄にとって側にいるだけで幸せになれるものだったから。 それでもあの頃は、信じることが出来た。自分が一番、真澄の近くにいる女だと。 まだ知らないでいられた。真澄に絶対の存在がいることを。 思い知らされたのは、学期が変わった頃。 まだ夏の蒸し暑さの残る、九月の初めだった。 ため息をついたままなにも喋ろうとしない樹に、伸一が問いかけた。 「樹、お前がわからないよ。そんな後悔した顔をしているのに、なぜ真澄を止めてくれなかったんだ?」 「そんなの決まってますよ。どうせなくしてから気づいたとでも言うんでしょう?」 馬鹿みたい、と辛辣なセリフをあびせるが、樹に反応はない。 いつもそうだ、この人は。 あれだけあの人の側にいながら、あれだけの想いを受けながら、いつもひょうひょうとして、つかみ所が無く、風のような、雲のような存在だった。 当然のようにあの人の側にいた、それを許されたこの人。初めて会ったときから、気にくわなかった。 あの暑い日、真澄が連れてきたときから憎しみは始まっていたのかもしれない。 いつも通りに部室に行くと、見知らぬ人間が一人増えていた。 伸一と真澄がその人物に話しかけていて……真澄が、微笑んでいた。 真澄が笑顔なのはいつものことだ。でもなぜか、栄はその時に気づいてしまったのだ。 この微笑みが、真澄の素顔だと。いつもの笑顔は作られたもので、本物はこの目の前の人物にしか向けられないのだと。 それは恋した者の本能、直感だったのかもしれない。 「お、栄じゃないか」 最初に、呆然としている栄に気づいたのは伸一だった。 おいでおいでと手招きする彼の動作にも体が動かず、ただ立ちつくして。 「真澄、栄が来た。紹介しないと」 「え? ……ああ、栄さんか。こっちに、来てくれないか?」 その瞬間の、真澄の表情を、どう言えばいいだろう。 顔に張り付いた微笑みはどこか人工的で、魅力的なのに虚無くさく。なによりも雄弁にその眼が語っていた。 邪魔者が来た――と。 心臓が震え、心が壊れそうだった。 それまで持っていた自信、自惚れ……自分は真澄に近しい者だという確信は、霧になって消えた。 ショックで頭が真っ白になりながらも、どうにか三人の側に近づいた。 「栄、紹介するな。これは生徒会のメンバーの一人で……ちょっと事情があって、一学期は休学してたんだ」 「名は樹……俺の、親友だ」 まるで宝物のように言われた言葉。 それだけで、絶対に勝てないと思い知らされた。 「――人でなし」 もう一度、自分でも無意識に言った一言で、意識が急上昇した。 同時に、下を向いていた樹の顔がゆっくりと上げられる。 こうやって思い出せば、いつも真澄の視線は樹を向いていた。 諦められず、追いかけても追いかけても、二人への距離は縮まらなかった。 目の前で視線をゆっくり左右に動かしている樹に、いらだちがつのる。 冷静すぎるその姿は、栄にとって発火材でしかない。 「なに勝手にあっちの世界にいってるわけ?! 反省なんて、後悔なんてないんでしょ? あの人を止めなかった冷血漢さん?」 しばらくの沈黙の後、少し皮肉げに、それでもいつものようにひょうひょうと、本当に不思議そうに樹は尋ねてきた。 「……それで、栄は僕にどうして欲しかったんだ?」 カッと、顔に朱が昇るのを栄は感じた。 「欲しかったんじゃない! 止めるのは貴女の義務だったって言いたいのよっ!」 「義務?」 「そうよ、義務よっ!」 友人であるならば当然のことだろうに、なぜこの人はこんなに困惑した表情をするのか。 ためらいがちに樹が口を開く。 「それは……違うだろう?」 「なに言って……」 この人は、何を言っているのだ? なにが違うといっている。 「それは義務じゃない。それは……」 それは? なにを続けようとしたのかわからない。続きは樹の中に埋没する。 なにかを飲み込むような一呼吸置いて、簡潔に樹は答えた。 「もしそうなら、真澄は僕に電話なんてしなかった」 「!? なにをっ……」 「僕が止めないことを、真澄は知っていたんだから」 止めないことを、知っていた? 「もし、止めて欲しいのなら、僕になんか電話しなかった」 『僕になんか電話しなかった』? ならばなぜ、真澄は樹に電話したというのだ。 伸一でも、自分でもなく……他の、誰でもなく、樹に。親友――宝だと言外に言っていたこの人に、全てを委ねたと言うんだ。 助けて欲しかったから。 知って欲しかったからに違いないだろう? 「……っ、信じられないっ」 それだけを言うのが、やっとだった。 焼き切れた回路が、さらに熱を持ってゆく。 「なにを?」 「なんでそんなことぬけぬけと言えるのよ、あの人は、親友である貴女に、助けを求めてたに違いないじゃない!!」 「自分の価値観で全てはかっちゃいけないと思うよ。僕にも言えることだろうけどね」 淡々と言われた言葉に、なけなしの理性は飛び散った。 大きく右手を振り上げる。ちらりと見たが、今度は伸一も止めない。 先程とは逆……左の頬に、渾身の一撃を込めた。 最初と同じ、いい音がした。 「貴女と話してると……おかしくなりそうよっ。もういい、貴女の顔なんて二度とみたくないっ!」 これ以上顔を見れば、なにをするかわからない。 ビンタぐらいではすませられない自分の心をわかっていたから、方向転換し、逆の方向へ走り出した。 ぱしゃぱしゃと、水たまりに波紋が広がるのを、どこかぼうっとした頭で栄は見ていた。 やがて後ろに足跡が聞こえ、ついてくるそれにそっと振り向けば、伸一だった。 「伸一先輩……」 いつもの軽いノリはなりをひそめ、その表情はひどく切なげだった。染められた茶の髪から、雨の滴が音をたてずに落ちている。 傘もささずに、雨にうたれたままぽつりと呟く。 「……本当に、自分勝手だな」 「え?」 「自分勝手すぎだ。エゴイストってのはこういうのをいうんだろう」 誰と言わずに表された言葉。 「そ、そうですよ、大体あの人は昔から……!」 その幸せさを何一つわかっていなかったのだと、そう続けようとした栄を伸一は手の平をかざしてやめるようにうったえた。 「……?」 なぜ、と眼で抗議する栄に、伸一は力無く首を振って答える。 「違う……樹じゃない。あいつはむしろ、被害者さ……」 「……?!」 あの人が、被害者? 言っている意味がわからずに沈黙した栄の口から目をそらすと、伸一は曇天を見上げて独白を続けた。 「こんな形で想いを遂げるなんざ……本当に自分のことしか考えてねぇよ。確かに……刻み込まれただろうがな」 意味不明な言葉の羅列。謎かけのような文。 それでも理解出来たのは、執念。 「――真澄先輩、ですか……?」 伸一はなにも答えず、小さく微笑むだけだった。 だけどそれは、何よりの答えではないのか。 こうやってまた、愛しい人との距離はまたひらく。 自分だけが理解できないのだ。 ずっとずっと変わらない。 むしろ広がるようなこの距離は、一体どうしたらよかったのだろう? 好きになってはいけない人だった。 傷つくだけとわかっていた恋だった。 叶わないと、あまりに遠いと自覚するたびに出来る傷。 そしてそこから生まれる棘。 自分も、他人も傷つけずにはいられないこの棘は、罪の代償ですか? それともあなたに恋した罰ですか? この棘すら愛しいと思いかけているあたしは、もう狂っているのでしょうか? この棘が、今の私を支える術。 あなたを、忘れられない理由。 苦しくて、嬉しくて、逃げられない。 どうか誰か。 棘のヌキカタを教えてください。 狂おしい想いを忘れる方法を、教えてください。 なぜ。 あたしは愛してしまったんだろう――? 第三話前編へ 第四話前編へ 戻る |