第三話 棘のヌキカタ 前編

 ――いつからあたしは知ってしまったんだっけ?
 あの人が、今目の前にいるこの人を好きだったことを。
 好きなんて言葉じゃ物足りないほどに、愛しきっていたことを。
 
 ――なぜあたしは気づいてしまったんだろう?
 誰にでも向けられる笑顔の中、この人に向けるものだけ質が違うということに。
 優しげな表情の下、誰より冷たいその心を、この人の前では溶かしていたことに。

 ――どこからあたしはこんな風になってしまったの?
 この人を見る漆黒の瞳はいつも慈愛に満ちていて。
 同時に、欲望の欠片も見せていた。

 ……誰より孤高のあの人が。
 どこか浮き世離れしていたあの人が。
 この人の前でだけは一人の男で。
 それをさせているのが自分じゃないことが悔しくて。

 ――簡単なこと。
 あたしはこの人に、嫉妬しているのだ。
 そう、今も。


 パン! と、小気味の良い音がその場に広がった。
 同時に、憎しみが口からほとばしる。
「なんで貴女、そんな顔していられるのよ!?」
 思いの丈を全てぶつけた相手は、表情一つ動かさずに、無感動な感情を伝えてくる。
 それにいらついて、さらに叫んだ。
「なんで涙も流さないの!?」
 体中を巡る怒りのせいで、思考回路は焼き切れた。
 はっきりしているのは、たった今目の前の人を叩いた、己の右手の熱さだけ。
「偽善者! 八方美人! 人でなし! 貴女はあの人の友人気取りで、結局は他人だったんだわ!」
 知らずにこぼれた涙と共に、怒りはさらに大きくなっていく。
 なぜこんな人が、という思いは増長する。
「あの人が可哀相よ! 貴女を親友だと、誇らしげに語ったあの人が、あんまりにも可哀相!!」
 脳裏に映る、あの人の本当にあたたかな表情といえば、いつも目の前のこの人に関係するときだった。
 何かにつけてあの人は言っていたのだ。「樹(いつき)は俺の親友だからな」と。
 それは誇らしげに、愛しそうに、宝物をそっと見せる子供のような顔で。
 あれは、『親友』なんかに対する顔じゃない。『愛する者』に捧げる顔。
 なのに。
 なのにその当人は、この場で涙一粒も、悲しげな表情すら見せない。
 人でなしという言葉をもう一度繰り返した。
 それが一番、樹にふさわしい言葉と思えたから。
 それに初めて、目の前の『あの人の親友』が表情らしいものを見せた。
 だがそれは、悲しみや後悔などではなく、どこか歪んだ、壊れた笑い。
「なにがおかしいの!?」
 カッとなって、再び振り上げた手の平。
 ほんの一瞬だけ、手が止まりそうになった。しかし、避ける気もないのか、樹は黙って立っている。
 一瞬ちゅうちょしてしまった己に歯がみしつつ、良い度胸だわと小さく口内でつぶやいて、そのまま振り下ろそうとした。だが。
「――やめろ、栄(さかえ)!」
「伸一(しんいち)先輩!?」
 ぶつかる寸前、自分の手の平を止めたのは、あの人の友人であり、自分の先輩である東城伸一(とうじょう・しんいち)その人だった。
 すんでで止められた手の平と、行き場を失った怒りに、栄は伸一にくってかかった。
「なんで止めるんですか!?」
「止めない馬鹿がいるかっ!」
「離してください、あたしはこの人を……!」
 どうしても許しておけないのだ。
 誰より愛されていたくせに、何事も無かったようにふるまうこの人が。
 自分以外に、誰が樹を責められるというのか。
 手をふりほどこうともがけば、もう一度叱咤された。
「やめろっ! 真澄(ますみ)の前で、みっともないことをするな!!」
「あたしは、真澄先輩のために……!」
 そうだ。あの人の想いも知らないで。
 あの人に、想われてたくせに。
 誰よりも、あたしよりも、愛されていたくせに……!!
「真澄がこんな事をして喜ぶと思うのか!?」
「だけどっ! あんまりです、このままじゃ、あんまりです……!」
 伸一に捕まえられたまま、もう一度、栄は樹にらみつけた。
 怒りと視線のみで人が殺せるなら、きっと今の自分のもので、樹を葬り去ることだって可能だろう。
「許さない……あたしは貴女を、絶対に許さない!」
 身の内に燃える怒りの全てと、呪いを込めて吐き出した。
 しかし、それにも樹は無感動に呟くのみだった。
「……好きにすればいい」
 なんでそんなことが言えるの!?
 なんでそんな平気そうな顔をしていられるの!?
 栄には、全ての原因が樹にあるように思えていた。
「貴女のせいよ……貴女のせいで、真澄先輩は死んだのよっ!!」
「……そうだね」
 ささやいた人物は、やっと噂の主を見つめたようだった。
 視線の先には笑うあの人。
 黒縁に囲まれ、黒いリボンで飾られた、あの人の写真。


 鼻につく線香の匂い。
 耳に入るすすり泣き。
 目に映る喪服の群れ。
 肌を流れるうっとおしい雨粒。
 どれもこれも、栄の神経を逆なでした。
 自分はもう止まれない。
 憎いこの相手に、自分を取り巻く棘を突き刺すまで、自分は止まれない。
「貴女は知ってたんでしょ? 聞いてたんでしょ? 相談されたんでしょ?」
 たたみかけるように質問を投げかければ、樹が無感動にうなずいた。
 事実を認めた。
 やはり、あの人は『親友』には言っていたのだ。自分には相談なんて、一つもしてくれなかったのに……。
 口の中に苦みが走る。
「なら!」
 さらなる苛立ちを込めて、問いかけた。
「なんで、止めなかったの! なんで思い止めさせなかったの!?」
 それが出来たのは、悔しいけれど樹だけだったろう。
 だって、真澄はいつも、樹しか見ていなかったのだから。
「栄、頼むから、それぐらいにしてくれ……」
「伸一先輩は思わないんですか!?」
「――っ。それは」
「思わないはずがない!」
 伸一が眼をそらす。この先輩にも、樹への不信はあるということだろう。
 ねえ樹さん、と、栄はわざとていねいに呼びかけた。
「貴女が、何か言ったんでしょ? それとも何も言わなかったのかしら?」
 しばらくの沈黙の後、はっきりと、樹は答えた。
「……何も、言わなかったが正しい」
 簡潔に返されたその答え。
 やはり!
 そう思い、栄は伸一に振り返った。
 やはりそうだったのだ。樹はわざと、真澄を止めなかったのだ。
 伸一が、目を見開いて樹を見る。
 今や伸一の樹への不信は、はっきりとその表情に出るまでとなった。
「樹……それは……」
 信じられないとでもいうその目。
 そう簡単に長年の友を斬り捨てることが出来ないのだろう、迷いが見える。
 だがそれに終止符を打ったのは、樹のはっきりとした一言だった。
「本当だよ」
「樹……お前……」
「話は聞いた。あえて薦めもしなかった。でも、止めなかった」
 それを、世間一般では見殺しという。
 この人は親友を、直接的ではないとはいえ、殺したのだ。
「なぜ!? なんで止めてくれなかったんだ……なんで、むざむざ見殺しにしたんだ……」
 栄と同じ感想を抱いたらしい伸一が、悪夢でも見てるように首を左右に力無く振る。
 それに追い打ちをかけるように、樹の声が響いた。
「でもあいつは、自ら選んだ」
 選ばせたの、間違いではないの!?
 例え選んだのが真澄本人だとしても、本来樹はなにか行動を起こすべきだったのに。
「それを止めるのが、友人の仕事じゃないの!?」
 最悪の事態は回避出来たかもしれない。
 否、樹が一言でもいえば、真澄は考えを変えた。
「そんな資格、僕は持ってないし……人の心に、声はそう簡単には届かないよ」
 自分の声など届かないと?
 ――違う。
 届かないのは、樹以外の声だ。
 あの人の心を動かせたのは、いつも樹の存在だけなのだから。
 なにもわからずに、その恩恵だけを、愛だけを受けて、樹はのうのうと生きている。
 許せるものか。
 許すものか。
「……人でなし。やっぱり貴女は人でなしよ。だいたい資格ってになよ。そんなことどうでもよかったの、貴女が止めてればもしかしたら……真澄先輩は、自殺なんかしなかったかもしれないのに!!」
 樹が、けだるそうにため息をついた。


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