第二話 迷い子に捧げる懺悔

 洗濯は終わった。
 掃除も終わった。
 食事も終わった。
 整理整頓もして、心残りはもう無いはず。
「よし……」
 こんなものかとつぶやいて、東城真澄(とうじょう・ますみ)はカップボードから薬を取り出した。
「――さ、お前の出番だ」
 ていねい過ぎるほどの手つきで、真澄は薬瓶を机の上に置く。
 白い錠剤が、どこまでも清廉に、そして禍々しく映る。
 それに少し微笑みを浮かべると、台所に行ってコップに一杯、水を汲んできた。
 グラスを薬瓶の隣に置いて、再びよしとため息をつく。
「準備完了……だな」
 そう、準備はもういい。あとは自分の気持ち一つのみ。
 そしてそれすら、とうの昔に決まっている。
 さあ。
「……心おきなく天国へ出発といこうか」
 まるで近くの公園に散歩にでも行くように言って、真澄はそこに座り込んだ。


 最初に死にたいと思ったのはいつだったろうか。
 ――もう覚えていないというのが正直な本音だ。ひょっとしたら、物心ついた頃にはもう思っていたのではなかろうか。
 原因は色々ある。
 自分がそれほど好きになれないとか、人生にあきたとか、本家分家のくだらない争いに嫌気がさしたとか、もう疲れたとか。
 くだらないのやらなんやら、とにかく理由だけは色々あった。
 それでも死なずにこれまで生きてきたのは、ひとえにこの不屈の負けず嫌いのおかげだと思う。
 ――死んだら負けだ。
 ――自分から舞台から降りてやるもんか。
 ――他人が原因で、死んでなんかやるもんか。
 そんな思いだけで、今まで生きてきた。
 そして今回死のうと思ったのも、実はその負けず嫌いが原因なのだから……今までとあわせまあ、プラスマイナスゼロというところか。
「人生引き際が肝心ってね」
 人生において、ひくつもりなど毛頭なかった。
 ひくぐらいなら玉砕する方がマシだと思っていた。
 でも、今回だけは違う。今回ばかりは、これしか方法がない。
「誰が妖怪どもの思い通りになってやるか」
 妖怪というのは本家の長老たちのことだ。多分、人間だろう。
 東城家は一応は古くから伝わる『名家』というやつで、政界などにも深く関わりを持つ家だ。おかげさまで本家や分家などの親戚内での身分わけ、因習など、今となっては珍しいもの(=めんどくさいもの)が数多く残っている。
 もちろん『長老』もその因習の一つだ。本家から代々当主が選ばれ家を動かしているわけだが、それとは別に長老衆と呼ばれる、妖怪のごとき老人たちが存在する。次期当主を決めるのも長老たちということもあり、その権力は当主よりも重く見られることがある。
 真澄はその東城家の嫡男であり、長老衆から当主としての素養十分にあり、何代に一度の逸材とお墨付きまでもらってしまった身分である。あんな妖怪に認められたからといって嬉しいとは思えないが。
 まあ、あいつらが妖怪だろうが人間だろうが関係ない。とにかく絶対に逃げ切らなければならないのだ。
 今まである程度言うことを聞いてきたからといって、今回もそううまく行くなんて思われるのは不愉快だった。あんな奴等の糸に絡め取られるなど、屈辱もいいところだ。
 だが、あのばあさんたちほどしつこい生き物を、真澄は知らない。
 そして己のプライドと命を秤にかけ、真澄はあっさりプライドを選んだのだ。
「生娘でもあるまいし、俺も馬鹿だな」
 本当に、まるで恋も知らない、否、恋しか知らない娘のようだ。
「だが、今ごろ政略結婚なんて、時代錯誤もはなはだしいんだよ、ババアども」
 忌々しげに呟いて、先程の考えに苦笑いした。


 ――縁談が持ち上がったのは二ヶ月ほど前。
 しかも、『結婚を前提にしたオツキアイ』というやつである。
 もちろんすぐに、ふざけるなと抗議した。
 自分には好きな人がいる、この話を受けるつもりはサラサラない。今回ばかりは考えるつもりもない。
 しかし相手は妖怪。真澄の抗議ごときで引き下がるような輩ではなかったのだ。
 あらゆる手を使い、真澄の逃げ道をふさぎ、真っ直ぐな一本道を作り上げた――結婚という名のだ。
 ……もはや退路はふさがれた。道は前にだけ有り、後ろは一歩進むごとに崩れてゆく。
 どうにかして脇道を探そうとしたが、見つけた先から相手に潰されていった。
「……しかし、だ」
 相手にもわかっていないことがある。
 他でもない、真澄の負けず嫌いと高いプライドだ。
「誰が思う通りになんかなるものか」
 誰が、あんな縁談にのるものか。
 妖怪達は言った。
 ――叶わぬ想いなど、忘れるがいいと。
「そうだな、叶わないだろうさ」
 いわれなくても知っている。この想いは、絶対に叶わない。
 胸で育つだけ育ち、赤い血の花をさかせ……そして、けして実をつけないだろう。
 それがあの家に生まれた自分の宿命だ。
 それでも、欲しいと思ってしまった。愛しいと感じてしまった。
 馬鹿だと、自分でも思っている。
「だが、それをどうするかは俺の自由だ」
 妖怪どもが好きにしていいものではないのだ。
 この想い以外に、別の想いを抱くなど、考えることさえ汚らわしい。
 だから自分は死ぬ。
 逃げるために、捕まらないために死ぬ。
「ホント……こんなに純情だったとはね」
 知らなかったと唇を歪め、薬瓶に手をかけた。
 なんの抵抗もなく開いたふたを、後ろに投げ捨てる。
「まるで少女のようだ」
 ざらざらと、手の平からこぼれそうなほどの白。
 水と一緒に、一気に飲み干した。
「さあ、天国へのツアーだ」
 妖怪たちよ、サヨウナラ。


 数週間前に、真澄はとある人物に電話した。
 死ぬことを、伝えるためだ。
 普通の人間が聞いたなら、その内容は単なる愚痴と取れるだろう。
 だが、その人物は――樹(いつき)は違う。
 誰よりも真澄を理解し、真澄も理解していた少女だ。
 全てを理解するのは無理でも、一番その割合が大きかった相手だ。
 ――もう死にたい……。
 ――死んでもいいだろうか。
 ――楽になってもいいのだろうか。
 何度も繰り返し、告げた。
 少女は何も言わなかった――否、『言えなかった』のだ。
 彼女は、人の死を止めることの出来る人間ではない。本人がそれを選択するなら、自分に止める権利はないのだと考える奴だ。
 それを真澄が知っていることを、樹はわかっていた。
 だから気づいたはずだ。あの電話が、自殺相談ではなく、自殺予告だということに。そしてその予告が、必ず実行されるであろうことに。
 ――自分もいい加減いい性格をしていると、眠気が混じり始めた頭で真澄は考える。
 樹が気づいたように、真澄も気づいていたからだ。
 止められないことをわかっていて、真澄はなお樹に電話をかけた。
 それで樹が苦しむことがわかっていた。だけど、後悔なんかで樹は死ねない。誰よりも他人だけを大事にする人間だから。
 例え真澄を見捨てたとののしられても、絶対に自殺なんてしない。自分の告白で、罪の意識から後を追うなんてことは絶対にない。
 辛い目にあわせたのは、十分承知している。
「それでも俺は、この方法しか思いつかなかったんだ……」
 今ごろ樹は、止めなかったことを後悔しているに違いない。頭の中は、真澄でいっぱいだろう。
 そう、『真澄のことしか彼女は考えられない』でいる。
「こうすれば、俺のことを一生覚えているだろう……?」
 ククッ、と低く自嘲的な笑いがもれた。
 なんて自分勝手なんだろう。
 なんてひねくれているのだろう。
「ごめん、樹……。俺は最期まで、自分しか考えられない……」
 例え傷つけても、深く自分を刻み込みたいと思った。
 彼女の、『絶対存在』になりたかった。
 時間はもうなくて。
 手段は限られていて。
 だからしなくてもいい電話をしたのだ。最低最悪の、しかし最大の効果を持つ手段をとったのだ。
 どんな手を使ってでも、彼女を自分に縛りつけたかったから。
「ああ、せめて……最期くらい教えてやれば良かったかな……?」
 霞んできた目の前に、彼女の短い黒髪が見えた気がして、少し微笑んだ。
 かつて自分は、樹を『万華鏡』と称した。
 自身は一つなのに、中身がパラパラと散らばって、見る者やそのタイミングによって様々に姿を、印象を変える。そんな樹が万華鏡のようだった。
 いっそ真っ白か、真っ黒だったら楽だったのにとぼやく少女を見ながら、よく思った。
 黒でもなく、白でもなく。透明だからこそ何色にも染まらない。色のない、無色の人間が本当にいるのだと初めて知った。
 中途半端に理解したならば、鏡に似ていると思うかもしれない。だけど違う。
 樹は万華鏡。本質は変わらないというのに、見る者によって姿を変えられてしまう、変幻自在の不自由者。
 なれやしないものを求めて嘆くその姿に、自分はさらに連想したものだ。
「ああ、声が聞こえる……あいつの声が」
 なあ、真澄……と、自分を呼ぶ声が。
 
――お前は一体、僕をどんな風に見てるんだ?

「お前は……お前は…………」
 意識が遠ざかる。
 最期の最期、もはや欠片すら動かない口で、真澄は呟いた。
 ――お前は、俺にとって迷い子だよ。
 ――どこか違った場所から来て泣きわめく、迷い子だ。 


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