第一話 嘆きの万華鏡 後編

「樹、お前がわからないよ。そんな後悔した顔をしているのに、なぜ真澄を止めてくれなかったんだ?」
「そんなの決まってますよ。どうせなくしてから気づいたとでも言うんでしょう?」
 馬鹿みたい、と辛辣なセリフが襲いかかった。
 馬鹿みたいだ。本当に。
 なんでこんな、中途半端になってしまったのだろう。
 数少ない理解者の一人が、真澄だった。
 その理解者の中でも、普通なら時間をかけて気づく樹の仮面の下に、真澄は手もかけずに気づいた。
「お前は本当に、自分を大事にしない」
 そういう真澄だって、お世辞にも自分を大事にする奴ではなかった。
 お互い様だと笑えば、思いのほか厳しい視線が飛んで来た。
「体じゃない。樹、お前は……『自分自身』を、『存在』自体をないがしろにしすぎだ」
 ぎくりとする自分に、真澄は苦笑した。
「『自分』がどうでもいいぶん、『他人』が大切なのか? それとも『他人』を大事にしすぎて『自分』を捨てているのか? ……どっちにしろ、不器用な生き方だな。自分だけ大事にしてればいいのに」
 しかも、と推測は続いた。
「自分を今すぐ消したいくせして、他人が大事だからこそ、自分を完璧に消せないでいるんだろう?」
 厄介な奴だと言われ、自分のことを、初めて理解した気がした。
 そうか、そうだったのか。
 どこまでもよく当たっている……。
「逆だったら、楽だったのにな」
 ごまかすことは、すでに出来なかった。
 そうだなと、するりと答えが出てきてしまった。
 自分だけ大事で、他人がどうでも良かったら、それはそれでかなり問題だろうけど、おもしろおかしく人生を過ごせただろう。
「ああでも、そんなだからお前はお前なのかもな」
 どういう意味かと聞いても、真澄は笑うだけだった。
 ただこう付け加えた。
「そうだな……万華鏡、だな」
 いきなりの単語に首をかしげた樹の肩を、ぽんと叩いて。
「お前を例えると、万華鏡かな、と。お前自身は一つなのに、中身がパラパラと散らばって、見る者やそのタイミングによって様々に姿を、印象を変えるんだ……そっくりだろう?」
 ますます意味がわからなくなった。
 疑問符を頭に浮かべたままの樹に、真澄は気にするなと言った。
「要するに、見る者によってはお前はクラゲだったり、鳥だったり、犬だったりするってことだ」
 じゃあ真澄から見た自分はどうなのかと聞こうとした。
 この友人は、自分をどう見ているのだろうと、知りたくなった。
 だがはぐらかされた。
 そして結局……墓場まで持って行かれたようだ。
 なあ真澄、お前はいったい僕をどう思っていたんだ?
 ――僕を、どう見ていたんだ?


「――人でなし」
 栄に再び言われた一言で、意識が急上昇した。
 今のは……夢か?
 真澄との、一番心に残る会話。
「なに勝手にあっちの世界にいってるわけ?! 反省なんて、後悔なんてないんでしょ? あの人を止めなかった冷血漢さん?」
「……それで、栄は僕にどうして欲しかったんだ?」
 カッと、栄の顔に朱が昇った。
「欲しかったんじゃない! 止めるのは貴女の義務だったって言いたいのよっ!」
「義務?」
「そうよ、義務よっ!」
「それは……」
 それは、絶対に。
「違うだろう?」
「なに言って……」
 過ぎた怒りのせいか、赤から青に変わっていく栄を見つめながら、樹は続けた。
「それは義務じゃない。それは……」
 権利だ。
 いくつもある選択肢のうちの一つだ。
 でなければ。
「もしそうなら、真澄は僕に電話なんてしなかった」
「!? なにをっ……」
「僕が止めないことを、真澄は知っていたんだから」
 止められないことを、知っていたんだから。
 真澄は誰よりも樹を理解し、自身を初めて教えてくれた人間。
 もし本当に助けて欲しいなら。
「もし、止めて欲しいのなら、僕になんか電話しなかった」
 誰よりも聡いのが、真澄だったのだから。
「……っ、信じられないっ」
「なにを?」
「なんでそんなことぬけぬけと言えるのよ。あの人は、親友である貴女に、助けを求めてたに違いないじゃない!!」
「自分の価値観で全てはかっちゃいけないと思うよ。僕にも言えることだろうけどね」
 もう一度、平手が飛んで来た。
 今度は、伸一も止めない。
 冷めた右頬とは対照に、逆の頬が熱かった。
「貴女と話してると……おかしくなりそうよっ。もういい、貴女の顔なんて二度とみたくないっ!」
 ぱしゃぱしゃと、水たまりに波紋を呼びながら、栄は駆けていった。
 伸一も、ちろりとこちらを見て言った。
「俺も……今、お前の側にはいられない……」
 責めてしまいそうだと顔をそむけ言い、栄と同じように去った。


 雨の中に一人残されて、頬をつたう雫をうっとうしく思う。
「ごめん、な……」
 誰ともなしに力なくつぶやいた瞬間、降り注いでいた雨が途切れる。
 思わず顔を上げると、そこには自分に傘を差し掛ける親友の姿があった。
「綾(あや)……」
 雨音にかき消されそうなほど小さな呼びかけに、宮小路綾子(みやこうじ・あやこ)は心配をにじませた笑みで応えてきた。
「風邪をひくわ」
「大丈夫……風邪ぐらい、なんてことないよ」
 そう、『見殺し』にしたことに比べれば、なんて軽い罰だろうか。
 傘を押し返す樹に、綾子は子供を相手にするように手を取り、しっかりとその柄を握らせる。
「私がイヤなのよ。あなたが、風邪をひくなんてね」
「でも、綾……!」
 今の自分には、そんな風に思ってもらえる資格などないのに。
「でももなにもないの。親友の言うこと、ききなさい」
 そう言いながらわざわざハンカチで濡れたほおをぬぐってくれる親友の優しさに、我慢していたものがあふれそうだった。
「泣きなさい、樹。あなたにはその権利があるんだから」
「ないよ。そんなもの、どこにもない。そんなこと、許されない」
 必死にかぶりをふると、苦笑したらしい綾子が樹を力いっぱい抱き寄せた。
 急のことに反応できず、樹の手から傘が滑り落ち水たまりに円をえがく。
 再び身体に当たり始めた雨に、樹ははっとした。
「綾、お前がぬれるっ……!」
 自分はいい。だが、この親友までぬれていいはずがない。
 だから離れてくれと必死でもがくのに、綾子は逆に腕に力を込めた。逃げようとすればするほど、樹を拘束する力が強くなる。
「……今だけ、あの男の代わりになってあげる」
「え……?」
 思ってもみなかった言葉に、もがく力が弱まる。それに気づいたのか、綾子も少し腕の力を緩めた。
 隙間からそっと親友の顔をうかがえば、そこには『不本意だ』とでかでかと書かれていたが、彼女は言葉を続けた。
「私をあの男だと思って、言いたいことを言えばいいわ」
 今ここにいるのは二人だけ。泣くことは許されなくても、そのぐらいは許されて良いはずだと。
 屁理屈にしかならないだろうそれは、今の樹のは甘く響いた。
「樹、『言ってごらん』」
 わざと似せたのだろう。後半の台詞が生前の真澄を彷彿させた。
 それにつられるように、気づくとするりと言葉が出ていた。
「……ずるい、よ」
「うん」
 先を促すように髪をなでられた。しかし、そこからためらうように言葉が出てこない樹に綾子は小さく笑うと、もう一度樹を抱きしめた。
 顔が見えない、声が聞こえにくいこの状況は、親友の優しさだとわかったから、樹はためらいつつも小さな声で続きをつぶやく。
「真澄……お前はわかっていたんだろう?」
 自分が止められないことをわかっていて、なお電話をかけてきた。
「いい性格だよ、お前」
 止めなかったことを後悔していないわけじゃない。後悔しないわけがないのだ。
 それでも自分には、あの選択しかなかった。
「誰にも止められたくなかった……でも、意志だけは伝えたかった。そんなトコか?」
 だから、自分を選んだ。
 こんなふうに苦しむことは、とうに見越していただろうに、それでも。
「死ねないことまで、見越していたんだろう?」
 例え見捨てたとののしられても、絶対に自殺なんてしないことをわかっていたから、真澄は樹を選んだのだろう。
 自分の告白で、罪の意識から後を追うなんてことがないように。
「真澄はずるくて……残酷だ」
 自分は死ねなくて、後を追えるはずもなく。だからこの背にはどんどん十字架が増えてゆく。
 昨日も今日も、そして明日もそれは変わることのない事実。
 そしてなによりも、自分は永久に変わることがないのだろう。
 白でもなく、黒でもなく。
 そのあいまいさが友を死に追いやったとしても。
「僕は、僕でしかいられない」
 自分はこのまま、きっと変われない。
 いつまでも、粗末な万華鏡のままなんだろう……。


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