第一話 嘆きの万華鏡 前編

 パン! と、いっそ小気味の良い音がその場に広がった。
 なんてことはない。平手が飛んで来たのだ。
 次の瞬間、頬には痛みが走った。じんじんと、ほてるような痛みが。
「なんで貴女、そんな顔していられるのよ!?」
 自分をにらみつける少女を見るこの瞳は、かなり無機質なものだと、どこか他人事のように思う自分がいる。
「なんで涙も流さないの!?」
 じんじんと。
 痛みだけがリアルで。
「偽善者! 八方美人! 人でなし! 貴女はあの人の友人気取りで、結局は他人だったんだわ!」
 涙と共に叩きつけられる声に、良心の痛みとやらは起きない。
 どこか現実離れした感覚が、自分を包んでいる。ただ、自分とは違いいつも女の子らしく可愛かった元後輩の動転ぷりが異様に感じられた。
「あの人が可哀相よ! 貴女を親友だと、誇らしげに語ったあの人が、あんまりにも可哀相!!」
 もう一度繰り返される人でなしという言葉。
 あまりにも陳腐で、自分に似合いのそれに、瀬川樹(せがわ・いつき)は唇を歪めた。
「なにがおかしいの!?」
 再び振り上げられる手の平に、衝撃を予期する。
 しかし避ける気もなく、樹は黙って立っていた。
「――やめろ、栄(さかえ)!」
「伸一(しんいち)先輩!?」
 頬の寸前で少女の手の平を止めたのは、樹の友人でもある東城伸一(とうじょう・しんいち)だった。彼はトレードマークの茶髪を雨にぬらしたまま、樹をかばう格好で二人の間に立ちふさがる。
 すんでで止められた手の平と、行き場を失った怒りに、栄は伸一にくってかかった。
「なんで止めるんですか!?」
「止めない馬鹿がいるかっ!」
「離してください、あたしはこの人を……!」
 目の前で繰り広げられる論争にも、樹は反応しなかった。
 ただ立っていた。
「やめろっ! 真澄(ますみ)の前で、みっともないことをするな!!」
「あたしは、真澄先輩のために……!」
「真澄がこんな事をして喜ぶと思うのか!?」
「だけどっ! あんまりです、このままじゃ……あんまりです!」
 伸一に捕まえられたまま、もう一度、栄の瞳が樹を向いた。
 その中に浮かぶのは、まぎれもなく怒り。
「許さない……私は貴女を、絶対に許さない!」
「……好きにすればいい」
 気のない返事は、さらに彼女の怒りを増長させたようだった。
「貴女のせいよ……貴女のせいで、真澄先輩は死んだのよっ!!」
「……そうだね」
 噂の主は、遺影の中、幸せそうに笑っていた。


 鼻につく線香の匂い。
 耳に入るすすり泣き。
 目に映る喪服の群れ。
 極めつけ。肌を流れるうっとおしい雨粒。
 どれもこれも、今日という日に陰気な花を添えている。
 自分もまた、そんな光景の一部だ。
 目線を上げれば白黒写真。遺影の中微笑む友の姿は、樹の心をよりいっそう重くする。
 後悔?
 絶望?
 諦め?
 ――自分でもわからない。
「貴女は知ってたんでしょ? 聞いてたんでしょ? 相談されたんでしょ?」
 たたみかけるような栄の問いに、樹は無感動にうなずく。
「なら!」
 さらなる苛立ちを込めて、少女はいう。
「なんで、止めなかったの! なんで思い止めさせなかったの!?」
 それが出来たのは貴女だけだったろうと。
 怒りと、嫉妬と……ごちゃ混ぜになったような声が、樹を責め立てる。
「栄、頼むから、それぐらいにしてくれ……」
「伸一先輩は思わないんですか!?」
「――っ。それは」
「思わないはずがない!」
 断定の口調に、伸一は眼をそらした。
 ねえ樹さん、と、栄は口の端を上げて、皮肉げに問いかけてきた。
「貴女が、何か言ったんでしょ? それとも何も言わなかったのかしら?」
「……何も、言わなかったが正しい」
 簡潔に返した答えに、それ見たことかと、栄は伸一に振り返った。
 伸一が、目を見開いて自分を見るのを樹は感じた。いつもあたたかい茶目っ気のある光をともして自分を見ていた瞳に、今宿っているのは紛れもない疑惑だった。
「樹……それは……」
 信じられないとでもいうその目に、やっぱりお前もか、と心の中でつぶやく。
 ――やっぱり、お前もそう思うのか。
「本当だよ」
「樹……お前……」
 呆然とする友人に、事実のみを語る。
「話は聞いた。あえて薦めもしなかった。でも、止めなかった」
「なぜ!?」
 栄と同じ言葉を繰り返す相手。
「なんで止めてくれなかったんだ……なんで、むざむざ見殺しにしたんだ……」
 ああそうか。世間ではこれを、見殺しというのだったか。
 まるで新たな発見のように、樹には感じられた。
「でもあいつは、自ら選んだ」
「それを止めるのが、友人の仕事じゃないの!?」
 最悪の事態は回避出来たかもしれないと?
 ……そうだろうか。本当に、そうだろうか?
「そんな資格、僕は持ってないし……人の心に、声はそう簡単には届かないよ」
 思ったことを、確信を言えば、栄は目を大きく見開き、吐き出すように言った。
「……人でなし。やっぱり貴女は人でなしよ。だいたい資格ってになよ。そんなことどうでもよかったの、貴女が止めてればもしかしたら……真澄先輩は、自殺なんかしなかったかもしれないのに!!」
 やっぱりわかってもらえないと、小さく樹はため息をついた。


 訃報を知らせる電話がかかってきて、まず最初に思ったのは。
 ああ、やはり……。
 という、安堵にも、諦めにも似た思いだった。
 悲しみよりも、驚きよりも。――納得?
 それよりも数週間前に、真澄から連絡があったから。
 もう死にたい……そう、友人は言った。
 死んでもいいだろうか。
 楽になってもいいのだろうか。
 何度も繰り返し、尋ねられた。
 自分は何も言わなかった。否、言えなかった。
 だって、自分にそんな資格はない。
 死ぬも死なぬも、個人の人生だろう。例え自分が嫌だと思っても、くだらないと思っても、その人にとって、死がかけがえのない選択なら……口を出せる問題じゃない。
 だって、当人の気持ちが、わからない。
 同じ立場、心境を持たない自分の意見が、人生を狂わせていいものだろうか? 例え、それが自殺を止めるという大義名分を持っていたとしても。
 樹は、心から死にたいと思ったことがない。そして同時に、一度も死を思ったことがないと言うのは、限りなく嘘になる。
 自殺を思い止まらせるということは、行き着く先を知ったどちらかの人、悟りを得るか、全く無垢な人だけが出来ることだと樹は思う。
 その人達だけが、資格を持つ。
 自分はあまりに中途半端だ。
 死にたいと、死のうかと、思うことはたまにある。
 けれどそれはたいしたことが原因ではなく、戯れのように、口に乗せる……本当の、戯れ言だ。真剣に思い悩むなどしたことがない。
 そして、命を絶ちきる勇気もない。未練がこの世にありすぎる。未練とは違うかもしれない、情という名の鎖が、樹をこの世に縛り付ける。
 自分が死んだ時、自惚れでなく悲しむ人がいることを知っている。冗談抜きに、狂い死にしそうな人を、自分は知っている。
 それを考えると、どうしても死ねないと思うのだ。だから、その人たちのためにも、自分は生きようと思う。
 そう思うなら、生きろと説くのが人の道という人もいるだろう。
 だけど、死んでも良いと思うのは事実だから、死にたいとつぶやく人の気持ちを否定は出来ないから……自分には止められない。
 もし真っ白だったなら。
 もし真っ黒だったなら。
 きっと、止められたのに。
 彼に、わがままが言えたのに。
 中途半端な、自分。


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