月と共に      桐島上総 様


『月と共に』 第四話


 小夜が怪に魅入られているという噂は水面下で静かに、だが波紋のように着実に広まっていった。それに伴って恐怖心を煽っていった。
 なにせ狭い村である。閉塞的で排他的な場所なのだ。外からのものは一切受け付けなくとも、内で発生したことが広まるのはいやに早い。一度蔓延すると、村という蓋のされた小さな鍋の中でひたすら煮詰められる。鍋の中身は増えはしないし、おかしなことに減りもしない。新たに水を加えるということがないので増えないのは至極当然だが、減らないのは不思議だ。どんな鍋にも隙間があって、そこから水分が漏れ出てゆくものだ。それなのに、この鍋の中身は減らない。完全に密閉された空間なのだ。しかし、鍋の中身は循環し渦巻いて、次第に濃密さを増してゆく。もし鍋の中身が減るようなことがあるとすれば、それは突沸により中身が蓋を跳ね飛ばして溢れ出る場合のみだろう。

 小夜の両親は葵と別れ、呆然として帰宅した。青白い顔を月が照らし、死人のような面持ちの二人は示し合わせたように奥間に向かった。一人娘である小夜の部屋だ。
 音を立てぬように近付き、音を立てないように襖を開くと、小夜は薄布団の中ですうすうと寝息を立てていた。
 怪は望月の晩に気味の悪い声で啼いて人を襲うんだろ?望月まで7日もねぇからな。望月の日の前後に余裕を持たせて、今日から半月間何事も無ければ、その後も何にもねぇだろ―――それが夏山の見解だった。
 もし今、小夜がいなかったら・・・、と絶望の淵に居た二人は顔を見合わせて、ほう、と息を吐いた。だが、彼らの中に再び不安が湧き上がった。葵に聞かされた小夜の腕の傷についてである。
 葵は見間違っただけであり、本当は恐れる必要など何も無いのかもしれない。
 しかし小夜の腕に本当に怪の歯形があったら?
 ・・・期待か現実逃避か。はたまた事実の確認か。まさに生死を賭けた綱渡り。賭されているのは己の命ではない。長年連れ添った伴侶の命でもない。目に入れても痛くない愛しい我が子だ。命や尊厳、‘小夜’という個体を形作る全てのものが危機に瀕している。
 小夜の両親は息を殺し、飛び出さんばかりの心臓を押さえ込んで、眠っている小夜にそろりとそろりと近付いた。そして、小夜を起こさないように細心の注意を払い、小夜の寝間着の袖を捲った―――

 満ちるには二、三日早い月が冷たく輝いている。


 今宵は中秋の名月である。
 村人達は宴の準備に休む間もなく動き回っている。だが、村の空気は宴を心待ちにする楽しげなものではなく、朝から得も言われぬ緊張感で張り詰めている。

 村長、小夜の両親、葵、夏山の五人が村長宅で小夜と怪について話してから、その内容は一昼夜で村中に広まった。そして昨晩、寝たふりをして小夜を見張っていた何人もの村人と一人の客人が、夜中に家を抜け出して西の森へ消える小夜の姿を目撃した。
 小夜の両親は夏山に、小夜が何処かへ行こうとしたら止めてはならない、と釘をさされていた。そこで昨晩二人は、夜中に家を出て行く娘の背に背を向けたまま、心の中で、行かないでくれ、戻ってきてくれと何度となく叫んだが、可愛い娘は一人、夜の闇に自ら足を投じ、呑まれていった。小夜の母は寝返りをうって扉を見つめ、声も出さずに静かに静かに枕を濡らした。小夜の父は苦悶の表情を苦痛に変え、外界に背を向けたまま、小刻みに肩を震わせた。

 一方、夏山は家を抜け出した小夜の後ををつけていた。
 夏場に青々と繁った藪が、ただでさえ狭い道をさらに狭めている。
 薄色の小袖姿の少女がその中を進んでいる。
 村長から少女の詳しい性格等は聞いていないし、少女本人とも話したことはない。見た限りでは働き者の良い娘だ。夜半に無断で外出するような性質ではないだろう。と、すれば―――
 ここ何年も手入れされた形跡のないわらぶき屋根に穴の開いた土壁。破れた障子はそのままで、板で塞がれた窓もある。どう見ても廃屋なのだが、人の住んでいる気配がする。家屋とはどんなに手入れされなくとも、人が住んでいるのといないのとでは、その廃れ具合が異なるものである。
「・・・黒か」
 夏山はススキの影から、少女が廃屋に足を踏み入れるのを確認した。だが、まだ決定的な証拠をは掴んでいない。
 夏山は、スン、と鼻を啜った。―――些か緊張してきたのだ。夏山は確かに化物退治を命じられたが、夏山自身は化け物の存在をどうせ大型の獣か何かだろうと疑ってかかっていたのだ。
 しかし、魅入られたとなると話は別である。熊や大鹿は倒せても怪はどうか。どうやって倒せばいいのか検討もつかない。
 夏山は身を強張らせて、廃屋の中に居るかもしれない怪の姿を確認しようと足を踏み出した。
 ―――パキン
 足の下で小枝が乾いた音を立てた。
 夏山はそれだけで心臓が迫り上がってくる感じと、身の縮む思いをいっぺんに味わった。内側はドクドクと膨張するのに対し、外側は収縮するような、そんな逃げようのない感覚である。
 幸い廃屋に異常は見られない。夏山は大きく息を吐き、吸い込んでから再び歩を進めた。もう小枝など踏まないように細心の注意を払って、だ。

 その頃、小夜と龍之介は火の無い囲炉裏端で何をするでもなく、ぼうっと窓の外なんかを眺めていた。
 望月の明かりの下、漆黒の狼と化した龍之介は、大きな躰で小夜の近くに伏せていたのだが、突然ピン、と耳を立てて辺りを注意深く探り出した。
「どうしました?龍之介さん」
 小夜は、普段は自分を見下ろしているのだが、今日ばかりは獣化したせいで自分が見下ろす形になる一対の月を心配そうに窺った。

 夏山は廃屋の窓格子脇に立った。
 野生の生き物は人間と違って他の気配に敏感である。夏山は息を殺し、ともすれば発してしまいそうになる殺気を抑えながらも、万が一に備えて腰のものに手を添えた。
 そろり、と屋内を覗く―――


 夏山はよろりと窓から離れた。叫びそうになるのを必死で堪えて後退った。音を立てるな、気配を消せ、という理性の声に耳を傾けていられたのは、廃屋から五、六間離れた所までで、その先は脇目もふらずに逃げ出した。
 目が、あったのだ。・・・二つの月と。―――強烈な威圧感を殺気として放つ高貴な獣。 夏山はそのまま村長宅に駆け込み、小夜と化け物を狩らねばならぬ、と、そう告げた。 好々爺そのものな外見の翁は、村の長として一度重々しく頷き、村中に伝令を放った。―――明朝、小夜と化け物を狩る、と。
 狭く閉塞的な空間に恐怖が充満する。充満した恐怖が煮詰められ、次第に狂気に変わる。じわり、じわりと蝕まれて、やがて狂気に支配される。

 ―――そして朝が来た。狂気に彩られた朝が。



最終話へ     第三話へ


戻る