月と共に      桐島上総 様


 ―――皓々と輝く2つの月の光を一身に集めて、
理由の分からない想いを燃やしてしまおうか。
月と呼ぶには些か明るすぎ、鋭すぎるあの月なら、

・・・それも可能だろう?


            『月と共に』 第二話


 龍之介は小夜との別れ際にこう言った。
「いいか、俺は貴様を拾ってやったんだ。忘れるなよ。貴様の所有権は俺にある。俺は拾い主だからな」
 そして、またすぐに此処へ来い、と付け足した。
 小夜を‘拾った’場所まで送った龍之介は、木の幹に背を預けて腕を組み、小夜の姿が見えなくなるまで暫く小夜を見送り続けた。

 小夜は村に戻ってからというもの、ずっと上の空だった。彼女のこの様子は村の者達を酷く狼狽させた。
 小夜は元来はつらつとした少女ではないものの、穏やかで、よく気のつく優しい娘だと村人達には認識されていた。ところが、このところ彼女の様子がどうもおかしい。落ち着きを失い、穏やかさなど見られない。かと思えば、長時間ぼうっと空を見上げている。彼女の様子を窺っていた村人曰く、彼女がぼうっとしているのは月が出ている時に多い、らしい。彼女の様子に、恋煩いだの何だのと下世話な噂が持ち上がり、いつもひっそりとしていた村がにわかに活気づいている。そのことを知らないのは小夜のみである。
 しかし、小夜の注意力散漫が過ぎて彼女の手足に小さな傷が目立ってくると、村人達もそう暢気に構えてはいられなくなった。怪に魅入られたのではないか、という憶測までまことしやかに囁かれるようになった。

 小夜が使いに出た日からほぼ1ヶ月が過ぎた頃、とうとう堪りかねた近所の娘・葵
―――小夜が‘姉’と慕っている娘である―――が、小夜にどうしたのかと尋ねたところ、小夜はただ一言―――
「会いたい人がいる」
と、尋ねた葵の方が泣きたくなるような声で、切なげに呟いたという。

 小夜は、欠け、そして満ちてゆく月に焦りを覚えていた。ちくりちくりと胸が痛み、ざわつくのである。
 あの日から小夜の頭の中では、『貴様の所有権は俺にある』と言った彼の人の声が木霊して離れなかった。続けて『またすぐに此処へ来い』と言われたのにも関わらず、もうじき1ヶ月が経とうとしている。胸に刺さっている棘はこれである。すぐに来い、と言った龍之介と、会いたいと思慕する小夜の思いは合致しているのに、小夜は未だ会いに行けずにいる。
 『またすぐに此処へ来い』と言われた。会いに行きたい。しかし会いに行ってもいいのだろうか。否、どうして会いに行くことを躊躇するのか。来いと言われたのだから素直に行けばいい。だがしかし―――
 小夜は堂々巡りを繰り返す思考回路を止めようと、軽く頭を振った。
 夜空には月がぽっかり浮かんでいる。文月の空にぼんやりと輝く望月である。この月がさらに小夜を悩ませている。小夜と龍之介が出会った日から明日でちょうど1ヶ月経つ。小夜には、彼の人の瞳と同じ色の月が、否、彼の人の瞳が小夜を責めているように感じられるからだ。
 どうしてこんなにも会いたいのだろう。彼の人の何を知っているというのだ。何も知らない。接点が一つあるだけ。一度交わった二本の直線は二度と交わることはない。そんな人間にどうして会いたいと強く願うのだろう。どうして、どうして、どうして。
 小夜は縁側に腰掛け、いっこうに纏まらない思考をどうにか纏めようとしていた。先程思考回路を止めようとした行為は、全くの無駄になってしまったわけである。結局、今の段階でそれらの疑問を解決するのは不可能だという考えに行き着き、今度はどうやって考えるのを止めるか‘考えて’いた。これでは埒があかない。
 誰かの事を全て理解することは不可能である。人には無意識下の自我が存在するから、自分自身についてですら完全に理解することは出来ない。にも関わらず、他人という全ての感覚が己と異なる生き物を相手にするのである。憶測で量って知ったつもりになる他無い。触れて触れて積み重ねて、己の内に誰かの像を創り上げ、「知っている」と言う。それからも積み重ね続けて像の補修を繰り返し、より実物に近づけようとするのだ。
 もう交わらない直線をねじ曲げて、月をレンズに焦点を作り、像を結ぶ。像は像でしかなく実物にはなり得ないが、触れればどうしてこんなにも会いたいと願っているのか分かる気がした。相手のことは何も分からない。自分のことも分からない。・・・ならば手探りで触れてみるしかないではないか。
 小夜は悩みに悩んだ挙げ句、取り敢えず行動に移してみることにした。
 もし、会っても納得のいく理由を得られなかったら、会いに行って嫌な顔をされたら。その時は―――

 小夜は西の森の中をひた走っている。鼻緒の辺りがじりじりと痛むが、大して気にはならない。運動量以上に激しく脈打つ心臓の方が気に掛かって仕方ない。緊張で鳩尾の辺りがシクシクと痛む。
 そろそろ前回気を失った場所のすぐ近くまで来ているはずだ。怪を見たような気がするが、人を喰らうという化け物と出くわしてタダで済むはずがないので、おそらく気のせいだろう。見たと思い込んでいるのだ。
 ―――ガサガサッ
 前方左の繁みが揺れている。
 風のせいだ。小動物のせいだ。気のせいだ。
 巨大な闇の塊がのろり、と姿を現した。
 西の森には獣道が踏み固められた、人が2人並んで歩ける程の幅の道が1本通っているだけで他に道は無い。たとえあったとしても、今の小夜の状況では逃げられない。足が竦んでしまったのである。
 熊か?否、違う。・・・漆黒の狼だ。人よりもずっと大きい狼だ。噂の怪に違いない。 怪が小夜の方にそろそろと近付いて来る。
 小夜は腰を抜かしてへなへなとその場に崩れた。
「・・・ひっ・・・嫌・・来ないで、来ない・・・」
 小夜の目には涙が溜まっている。涙は表面張力でなんとか零れ落ちずにすんでいる。
 小夜の目と鼻の先と言える距離まで近付いた怪は、小夜の腕を銜えて軽く引いた。小夜は狼の鋭い牙が、つぷりと皮膚に食い込むのを感じた。
「きゃああぁぁぁっ!!」

 小夜の酸欠で揺れ、また涙で揺らぐ視界にはおかしな光景が広がっている。小夜はしゃくりを上げ、肩で息を吐きながら、どうしていいのか分からずに呆然としていた。怪が銜えた小夜の腕を離し、ペロペロと舐めているのである。
 粗方舐め終わった怪が、ふいに顔を上げた。
 月が。2つの月が困ったように、申し訳なさそうに、上目使いで小夜の顔を覗き込んでいる。
「・・・龍之介さん?」
 怪は、くうん、と啼きながら小夜の頬に鼻面を擦り寄せた。

 怪は小夜を背に乗せて走った。小夜が連れて行かれたのは、やはり龍之介の家である。小夜は囲炉裏脇に座り、横に伏せている怪・・・否、龍之介を見つめている。
 尋ねたい事は山ほど在る。だが、今それはどうでもいい。あんなに会いたいと願って止まなかった理由が分かったからだ。尤も、人語を話せない状態らしい龍之介にいくら質問をぶつけても、答えが返ってくるはずもないのだが。
「・・・龍之介さん。すぐに会いに来られなくて御免なさい」
 龍之介はのそりと躰を起こし、小夜の唇をペロリと舐めてから、小夜の膝に頭を擦り寄せた。
「赦して・・・いただけたのですか?」
 小夜はくすくす笑いながら龍之介を撫でた。

 翌朝、小夜が鳥の声で目を覚ますと、隣で龍之介が規則正しい寝息をたてていた。小夜は龍之介の髪に指を絡めて、龍之介を起こさないように忍び笑いを洩らした。


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