月と共に      桐島上総 様


             『月と共に』 第一話

 ―――頭上で丸い月が皓々と輝いている。

 村境の辺りで華奢な少女が一人、酷く困った様子で立ち尽くしている。月明かりに照らされた少女の白い肌が青白く見える。―――否、実際に青ざめているのかもしれない。
 少女は月を見上げ、持っていた風呂敷包みをきつく抱え込んだ。一度後ろを確認し、眼前の黒々とした異界のような森をキッと見つめて、意を決したように木々の中へ小走りで入っていった。
 いくら水無月の中頃といえども、時刻は亥の刻を大幅にまわっており辺りは真っ暗闇だ。冬でないだけまだましだが、女子供の一人歩きはもとより人の出歩く時間ではない。草木も眠るとまではいかないが、暗く静まりかえっているという点では大した差はない。こんな時間に誰か、あるいは何かに出会ったら、「誰そ彼は」と問う必要は無く、まず間違いなく怪である。常日頃から怪の存在が囁かれているこの森の中ならなおのこと、言うまでもない。
 西の森は昼でも日の光が差し込まないような暗く、鬱蒼とした森だ。何が居たっておかしくない。その森には、やはり、と言うか何というか、怪が住み着いているらしい。その怪は巨大な狼の姿をしており、今晩のような月夜に月に向かって気味の悪い声で鳴き、通り掛かった人間を・・・喰らう、という。
 小夜はそこまで逡巡して小さく身震いした。なにせ、今自分の居る場所こそが、その西の森なのだ。もし怪に出会したら・・・―――考えたくもないが容易に想像がつく。
 小夜自身、そもそもこんなに隣の村に長居するつもりはなかった。昼過ぎに隣の村に使いに出るように頼まれて村を出発した。すぐに用事を済ませて、酉の刻には帰宅出来る心づもりであった。
 しかし、予定はあくまでも未定だ。話好きで有名な隣村の村長に捕まってしまうという計算外の出来事が起こった。断りきれずに夕食を御馳走になり、あれよあれよと言う間に結局こんな時間になってしまったのだ。
 小夜は背筋がすうっと冷たくなるのを感じた。ざわざわと鳥肌が立つ。無意識のうちに肩や首に力が入る。先程から背後に何者かの―――否、何かのか?―――気配を感じるのだ。
 襟を重ね合わせて僅かに足を速めた。
 気のせいかもしれない。だが、やはり恐怖心が先に立つ。背中に通っている全ての神経が過敏とも言えるほど敏感に、背後にいるかもしれない‘何か’の気配に反応している。
 さらに足を速める。
「・・・はぁっ・・・はぁっ・・・はぁっ・・」
 呼吸も速まる。額と帯周り、脇の下にじわりと汗が滲む。
 さらに足を速める。
「はぁっ・・はっ・・はっ・・」
 気付けば走っていた。
 心臓が着物の上からも分かる程、大きくドクドクと打ち鳴らされている。口の中が乾く。「はっ・・はっ・・・、キャッ」
 ―――ドサッ
 何かにつまづいて転び、両手をついたものの、頬を強か打った。土の匂いが鼻腔に流れ込む。
 つまづく原因となった何かは、どうやら木の根とかの類ではなさそうだ。もっと大きくて、もっと柔らかくて温かいもの。そう。例えば西の森に住み着いたという噂の怪。
 小夜は恐る恐る顔を上げた。
 闇の中から縦長に切れた黄金色の眼球が、ギロリ、と小夜を見下ろしている。
「・・・お・・・狼っ・・」
 小夜は、すうっと躰の力が抜けるのを感じた。そこで小夜の記憶は途切れた。
 そして完全な静寂と闇が訪れた。現という名の器に墨汁を流し込んだような夜闇である。 遠くから梟の声が聞こえる。
 頭上で丸い月が皓々と輝いている。


 あれは本当に狼だったのか。
 あれは本当に眼球だったのか。実は提灯の明かりや、松明の明かりではなかろうか。あるいは、そうであって欲しくないのだが、鬼火だったのかもしれない。
 手元にある確固たる事実は、一対の黄金色に輝く物体を見た、ということだけなのだ。狼を見たわけではない。―――否、その事実も嘘臭い。
 人はパニック状態に陥ると、実際は見ていないもの、聞いていないことでも、見た、聞いたと言う。正常な判断を下せない状態であれば、本当は見ていなくても、隣に居た人間が怪を見たと言えば自分も見たと思い込む。
 屁理屈も10回唱えれば理屈のように聞こえてくる。
 見た、のだろうか?否、そんなはずは・・・でもしかし・・・見たような・・・見た、のか?・・・見たかもしれない。見たかもしれない―――そこで、隣に居合わせた人間による、何処其処にどういう格好の怪が居た、という情報を植え付けられる。情報という証拠を与えられ、姿形の分からなかった怪が像を結ぶ。さらに、見たかもしれないと繰り返す。そのうちに、ああ、そう言えばそのような姿のものを見たような・・・否、見た、と思い込む。
 だからそもそも何も見ていないのかもしれない。西の森に住むという怪の話を聞いた回数は、ゆうに10回を超えている。
 ただ、あれは。‘目があった’というあの感覚は拭い去れない。

 小夜はうっすらと差し込む明かりで目を覚ました。
 朝だろうか。
 ぼんやりと揺れる、見慣れた天井の梁。暖かな布団。寝起きの微睡み。小夜は再び目蓋を落とし、ふわふわと漂う眠気に身を任せようとした。
 しかし、そこで気付いた。―――揺らぐ視界に見慣れた天井の梁はあっただろうか。昨夜、どうやって家へ帰ったのか。
 脳は急速に覚醒したが、目蓋を上げないまま昨夜の記憶を手繰り寄せる。
 隣の村を出、西の森に入り、何かの気配を感じて走った。何かに躓いて転び、顔を上げると黄金色の眼が私を見下ろしていた。
 小夜はおそるおそる目蓋を上げた。
 皓々と輝く切れ長の細い月が小夜を見下ろしている。
「・・・ひィッ・・・」
 小夜は小さく悲鳴を上げ、掛け布団の端をしっかり掴んだ。
「・・・随分な挨拶だな。助けてもらっておいて」
 小夜を見下ろしていた青年がそう言った。青年の声は低く、美しく、僅かに掠れている。 青年は、すいと布団から離れ、部屋を出ていった。小夜は上体を起こし、青年の後ろ姿を窺う。開け放たれた襖の向こう、台所で青年が碗に何かをよそっているのが見える。
 小夜は、自身が人間に助けられたようだと漸く理解した。心を許していい人間かどうかはまだ判断出来ないので安全とも言い難いが、とりあえず肩の力を抜いた。
 小夜は青年が後ろを向いているのをいいことに不躾な視線を送り続け、青年の姿を観察した。
 艶やかな漆黒の髪は首筋を伝うようにして肩胛骨の上まで伸びている。藍染めの着流しの上からでも分かる綺麗な躰の線。バランスの整った体躯。先程見た顔の造りは秀麗で、白い肌に、切れ長な黄金色の瞳を持つ美青年である。その上、青年の動きはどこか優雅で―――家屋全てを見たわけではないが、布団の上から見渡す限り―――障子の破れた、老朽化したような家屋には相応しくない気品を漂わせている。
 青年が碗を手に戻ってきた。小夜は気恥ずかしさを覚えて顔を伏せた。
「ほら。食え」
 小夜はずいっと差し出された碗を受け取ったが、一端碗を床に置いて居住まいを正した。「あのっ!・・・助けて下さって有り難うございました。私は東の村の、小夜と申します」 小夜は手をついて、しっかり頭を下げた。小夜の様子を横目に、青年は自身の碗に箸をつけた。
「・・・俺は龍之介だ。別に助けたつもりはない」
「え?」
 龍之介と名乗る青年は、箸を止めてふいと顔を背けた。
「拾ったんだ。・・・そうだ、拾ったんだ」
 背けた顔を戻し、龍之介は意地悪そうに目を細めて口角を上げた。
「はあ・・・」
 小夜は目を見開いたまま、そう言うのが精一杯だった。 


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