あなたに会いたい

《1》

 それは、本当に些細な事だった。
 片や、企業グループのトップ。
 片や、今話題の薔薇の育種家。
 忙しい二人が、同じ時に休む事は中々難しくて。
 突発的なトラブルで、直前で休みが潰れる事がお互いに重なった。
 何度目か、予定がキャンセルになった時。
 会いたい気持ちがとても募っていた反動で、つい、詰るような言葉を口にしてしまった。
 そうなれば、行き着くのは感情的な口争いで。
「お前はどうせ、俺より薔薇の方が大切なんだろう?」
「お前こそ、俺との休みより仕事が優先なんじゃないか!」
 後になってみれば、何故あんな事を言ってしまったのかと悔やまれた。
 お互い、納得ずくで今の生活を選んでいたはずだったのに。
 謝らなければ、そう思わないではなかった。
 しかし、あれだけの言葉を投げたのだ、まだ相手が怒っているのではないか、それが怖くて、携帯に手を伸ばせなかった。
 電話での会話どころか、メールのやりとりすらないまま、もう三週間が経っていた―――。


 壱哉は、一向に着信のない携帯を睨み付けていた。
 三週間が過ぎ、会いたい気持ちはとても募っていた、けれど。
 向こうから何もないと言う事は、まだ怒っているのだろうか。
 確かに、あれは言ってはいけない言葉だったと思う。
 口が滑ったとは言え、樋口の負い目をもろに逆撫でしてしまったのだから。
 だから、壱哉が悪くないとは言えない。
 しかし、予定が潰れているのはお互いなのだから、あそこまで怒る事はないのではないか。
 そう思うと、連絡が来ない事自体が面白くなくなる。
 悪いと思う後悔と、八つ当たりめいた苛立ち。
 壱哉の気持ちは、ずっと、その間を行ったり来たりしていた。
「失礼します」
 ノックの後に、吉岡が部屋に入って来た。
 携帯を睨み付けている壱哉に、僅かに呆れた表情を浮かべる。
「‥‥いい加減、素直になられたらいかがですか」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、憮然とした表情で吉岡を見た。
 吉岡の言いたい事は判っている。
 このところ、精神的な余裕が無くなっているのは自覚していた。
 一応、仕事の時は頭を切り換えているつもりだが、吉岡にはお見通しだろう。
 しかし、あまり強く言うと反発する壱哉の性格まで知っているせいか、吉岡は、その一言だけで、仕事の表情に戻る。
「そろそろ出発のお時間です」
「‥‥あぁ」
 頷いて、壱哉は、携帯を内ポケットに仕舞い込んで立ち上がった。
 支社の視察のために、今日は午前中から飛行機で出発する予定だった。
 総務課に寄って行くと言う吉岡と別れ、壱哉は一人で一階に下りた。
 そのまま吉岡を待つつもりだったが、何となく気紛れで外に出る。
 と、壱哉は、ビルの影に不思議なものを見付ける。
 それは、空間の歪み、としか言えないようなものだった。
 大きさは数十センチだろうか。
 まるでレンズを通して見ているかのように、その辺りの景色が歪んでいた。
「‥‥‥‥‥」
 それを見た瞬間、何故か胸がざわめいた。
 どこか不吉なものを感じつつも、目が離せない。
 そして壱哉は、まるで操られるように、手を伸ばしていた。
 壱哉の指がそれに触れた瞬間―――。
「――っ!」
 壱哉は突然、足下が無くなってしまったような感覚に襲われた。
 そして、辺りを包む不思議な空間。
 これには、覚えがあった。
 二度と思い出したくもなかったが。
「やあ。久しぶりだね、黒崎壱哉」
 羽ばたきの音と共に現れたのは、銀色の髪の悪魔だった。
「‥‥‥何の用だ」
 壱哉は、鋭い視線をネピリムに注ぐ。
「もう、俺には近づけないんじゃなかったのか」
 しかしネピリムは、楽しげに笑うと、空中でくるりと宙返りした。
「確かに、今のお前の魂は、悪魔とは対極の位置にある。でも、もともと、お前には『素質』があったんだ。だから、お前の心にマイナスの感情が増えれば、僕はいつでも、現れることができるのさ」
「‥‥‥‥‥」
 黙り込む壱哉に、ネピリムは益々楽しそうな表情になった。
「さて、と。ザヴィード様に叱られた仕返し、って訳じゃないけど、ちょっとした『ゲーム』をしようじゃないか」
 ネピリムは、子どもっぽくも見える仕草で首を傾げた。
「さっきの『歪み』は、お前のマイナスの感情を糧にして維持されている。そしてこれから、お前はある世界に飛ばされる。元に戻るには、さっきと同じ、『歪み』を見つけなきゃならない。タイムリミットは夜中の十二時。それが過ぎると、『歪み』は消えてしまう。――あぁ、もちろん、お前に拒否権なんかない」
 ネピリムは、壱哉の反応を伺うように、一旦、言葉を切った。
 壱哉は、不機嫌さを隠しもせずにネピリムを睨み付けている。
「そうそう、『歪み』はお前のマイナスの感情で維持されているから、お前が怒りや憎しみなどの感情を抱けば、維持される時間は伸びる。でも、それだけ僕は実体化しやすくなるからね。せいぜい、妨害させてもらうよ」
「‥‥‥随分と、俺にメリットのない『ゲーム』だな」
 少なくとも、どう転んでも壱哉には何の得もない気がする。
「拒否権はない、と言ったろう?無事に元の世界に帰れるのが、一番のメリットじゃないか」
 どことなく、いたずらっ子の軽口にようにも聞こえる口調に、怒りが湧く。
「それじゃあ、せいぜい、頑張るんだね」
 笑って、ネピリムが指を鳴らした。
 不思議な空間が、ゆっくりと薄れて行く。
「あぁ、忠告しておくけど、その世界の『自分』に会うと、どちらかが消えてしまうよ。気をつけるんだね‥‥」
 最後に、からかうようなネピリムの言葉が聞こえた。
「‥‥‥‥‥‥」
 腹の奥にわだかまるような怒りを堪え、壱哉は辺りを見回した。
「‥‥ここは‥‥‥」
 確かに、見覚えのある家並み。
 それは、あの街だった。
 場所を移されただけなのか。
 一瞬、そう思った壱哉だが、すぐに違和感に気付く。
 樋口の店を訪ねるようになって、結構この町には来ていた。
 しかし、ビルや建物など、記憶にあるものとは微妙に違う。
 いや、むしろこれは―――。
 心に浮かんだ可能性を確かめる為に、壱哉は歩き出した。

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‥‥連載です。今までのペースわかってんのか、と言うツッコミが聞こえます。自分でも無謀だと思いますよ、えぇ。
でも、なんだか書いてるうちにどんどんどんどん増えて行ってしまって。
本一冊くらいのボリュームになってもまだ終わらないのですよ。大した事書いてる訳でもないですが。
‥‥‥なので、連載です。あ、えちはないです。念のため。