raison d'etre
《2》
更にしばらく歩き続け、ようやく、彼等は魔王ザヴィードの居城に辿り着いた。 中世の王城と、おとぎ話などに出てくる悪魔の城を足したような、不思議な形をした建物だった。 巨大な城が、不気味な色をした魔界の空にそびえ立っている様子は、どこか冷たい威圧感を感じさせた。 ネピリムに促されるまま城内に入り、長い廊下を歩く。 内装は、赤い絨毯と、石造りの壁際に並べられた彫刻や絵画と言う、映画か何かで見るようなものに似ていた。 「ふん。意外に、人間くさいものだな、魔王とやらも」 壱哉が呟く。 独り言ではあるものの、誰かに聞こえる事など全く頓着していない様子に、樋口はハラハラする。 この城に入ってからネピリム以外の姿は見ないが、どこからともない視線を感じていた。 外を歩いている時同様、たくさんの存在に見られている。 そう思えば、あまり軽はずみな言葉を口にするのはまずいのではないか。――もっとも、壱哉がこの気配に気付いていない訳はないのだが。 神経を尖らせながら複雑に入り組んだ廊下を歩いて行くと、巨大な扉に辿り着く。 「さぁ、着いたよ。ザヴィード様は、この辺り一帯を治めておられる偉大なお方だ。くれぐれも、粗相のないようにな?」 ネピリムの言葉に何か含みがあるように感じられるのは、先入観のせいだろうか。 しかし壱哉は、僅かに唇の端を上げただけでそれに答えた。 一瞬、むっとしたような顔をしたネピリムは、すぐに表情を消した。 ネピリムが軽く扉に触れると、分厚い扉が、重々しい音を立てて開いて行く。 扉が大きく開け放たれた中は、かなり大きな広間だった。 床には真っ赤な絨毯が敷き詰められ、壁や柱などには黄金の装飾が施されている。 壁際には、魔界を歩くうちに見かけたような、正体の判らない魔物達が並んでいた。 そのせいだろうか、きらびやかに見える装飾にも関わらず、広間から感じるのは、どこか暗く、陰鬱な雰囲気だった。 「ようこそ、クロサキイチヤ。新たなる同胞よ」 良く通る声がした。 正面に目を移せば、豪奢な玉座にくつろいでいる姿があった。 長い金髪と端正な顔立ちをした男。 しかし、その頭から生えた長い角と、辺りを威圧するような強大な『力』が、人外の存在である事を知らせていた。 「何を呆けている。さっさと来い」 強く鎖を引かれ、樋口は慌てて壱哉に続いた。 距離を詰めるに連れ、何か、圧力のようなものが強くなる気がした。 歩を進めるごとに息が詰まり、身が竦む。 しかし、壱哉は何も感じていないようだった。 これが、『悪魔』と『従魔』の違いなのかとも思う。 玉座や、その主の様子が細かい部分まで見えるくらい近付いて、壱哉は足を止めた。 「初めてお目に掛かる。黒崎壱哉だ。あなたが魔王ザヴィードか?」 言葉は丁寧だが、壱哉は、傲然と胸を反らし、相手を真っ直ぐに見詰めた。 「いかにも。‥‥‥しかし、こうして見ると、また随分と美しい‥‥‥」 ザヴィードの視線が、値踏みするように壱哉に注がれる。 壱哉は、気圧される様子もなく、真っ直ぐにザヴィードの視線を見返した。 そんな反応に、ザヴィードは目を細めた。 と、その視線が、壱哉の後ろに隠れるようにしていた樋口に向けられる。 「ほぅ。それが、『契約のキス』で手に入れた従魔か」 「え‥‥?!」 突然、ふわりと身体が浮き上がり、樋口は慌てた。 樋口の身体は、何かに絡め取られているかのように、壱哉と、ザヴィードとの間の空間に浮かんでいた。 自分の身体が、何もない場所に浮かんでいる感覚は、酷く心許なかった。 「実に良いエナジーを持っている‥‥。玩具として、悪くないな」 ザヴィードが、笑った。 「っ、あ‥‥!?」 どす黒い悪意。 そうとしか呼べない『何か』が、流れ込んでくるのが判った。 それは、壱哉の注ぎ込んで来る闇に似ていたが、遙かに強い悪意と、凶暴な力に満ちていた。 暗い興味に満ちたいくつもの視線に、樋口は、理解した。 これは、ザヴィードの『力』。 そして、この広間に集う魔物達の悪意なのだ。 「うあぁぁっ!」 何もない空中で、樋口は身を捩った。 凶暴な闇が、容赦なく入り込み、樋口のエナジーを、心を蹂躙する。 直接痛みを与えられている訳ではない、しかし紛れもない苦痛に、樋口は悲鳴を上げた。 「あっ、う、あぁ‥‥!」 体中を暴れ回る『闇』は、いくつもの意志を持っていて、各々が好き勝手に樋口の中をかき回す。 喰われる。 壊される。 そんなイメージが、頭の中に弾けた。 と、何か意志のようなものが、頭に入り込んで来る。 《黙って喰われたくはないだろう?》 《この苦痛から、逃れたいだろう?》 「っ、く‥‥」 『声』のようなものが、頭の中に直接呼びかけてくる。 《目の前にいるそいつを倒してしまえば、解放されるぞ》 《人でなくなったお前の力なら、無理ではないはずだ》 《今なら、みんなが油断しているぞ》 煩い程に、『声』が呼びかけて来る。 そればかりか、凶暴な殺意のようなものが身体の内から湧き上がった。 しかも、それが向いている相手は――魔王ザヴィードだった。 まるで、誰かに操られているかのように、手が伸びる。 ザヴィードに飛びかかり、その身体を引き裂きたいような衝動が込み上げる。 「ダメ‥‥だ‥‥っ!」 樋口は、強く、腕を、自分の身体を抱え込んだ。 罠だ、これは。 たかが従魔ふぜいが、魔王に傷など負わせられるはずがない。 しかし、そうであっても、樋口が魔王に手を出せば、咎められるのは壱哉だ。 苦痛と、悪意の誘惑に朦朧とした樋口の視界に、薄い笑みを浮かべたネピリムが映る。 赤く、血のような光を放っているネピリムの瞳に、これが、彼の企みだったのだと気がついた。 ここで、従魔が魔王に牙を剥けば、それは主である壱哉自身の罪になる。 壱哉が、魔王を傷付けるよう従魔に命じていたとでも言われれば、申し開きは出来なくなるだろう。 それだけは嫌だ。 自分のために、壱哉が危険になるなんて、耐えられない。 だったら、ここで心を食い尽くされた方がマシだ。 どす黒い誘惑の『声』に耐えようとすると、頭が割れそうに痛む。 強制的に身体を動かそうとする『力』に抗うと、皮膚が、筋肉が引き裂かれそうな痛みが襲う。 まだ、耐えていられるうちに。 自分がおかしくなる前に、壱哉が逃げてくれれば。 「くろ‥き‥‥‥に‥‥げ‥‥‥」 苦痛に全身を痙攣させながら、樋口は掠れた声を上げた。 「‥‥‥この、駄犬が‥‥!」 苛立たしげな壱哉の声が、奇妙な程はっきりと聞こえた。 ふっ、と、全身にまとわりついていた圧力が消える。 同時に、ふわりとした浮遊感と共に、足が床についた感覚があった。 気が付けば、樋口は、壱哉の腕に抱かれていた。 状況が飲み込めないまま、壱哉が唇を合わせて来た。 「ん‥‥っ」 流し込まれたのは、いつもからは想像がつかないくらい、穏やかで優しいエナジーだった。 同じ闇でありながら、樋口の中を蹂躙する悪意を残らず消し去り、癒して行く。 あれだけ激しかった苦痛は跡形もなく消え、甘いキスに、樋口の全身から力が抜けて行った。 「ふ‥‥ぁ‥‥‥」 壱哉が唇を離しても、甘い疼きは全身に広がって、樋口はぺたりと座り込んでしまった。 「無礼だぞ、黒崎壱哉!ザヴィード様のお楽しみを、邪魔しようと言うのか?それに、この謁見の間では、ザヴィード様のお許しがない限り、力を振るうことは許されていないのだぞ!」 咎める、と言うよりは、勝ち誇ったようにも聞こえるような口調で、ネピリムが叫んだ。 「ふん。俺は元々人間だからな。魔界の風習には詳しくないんだ」 薄い笑いを口元に刻み、壱哉は悪びれもせずにザヴィードを見詰めた。 「無礼ついでに、問おう。悪魔の価値観では、獲物に執着する事、独占欲は悪なのか?是非とも、この若輩者にご教示願いたいものだが」 若輩者、などとは思ってもいないような口調で、壱哉は言った。 ザヴィードは、玉座の肘掛けについた手で頬杖をつき、興味深そうに壱哉を眺めている。 「執着や独占欲は、悪、ではないな。いや、むしろ欲望の赴くままに振る舞う事は、魔界の者としては望ましい姿だ」 ザヴィードの言葉に、壱哉は、樋口の首輪に繋いだ鎖を軽く引く。 「あ‥‥‥」 甘い快楽に呆然としていた樋口は、我に返ったように、座り込んだままで壱哉を見上げた。 「これは、俺の気に入りのペットだ。披露するために連れて来ただけで、貢物として差し出すつもりはない」 『気に入りのペット』、との言葉に、樋口はぼんやりと壱哉を見上げた。 さっき言ったように、壱哉は本当に、自分も一緒に連れ帰ろうと考えているのか。 こんな――役にも立たない、抜け殻のために? しかし、そんな樋口の視線など意に介さないように、壱哉は、薄い笑みさえ浮かべながら口を開いた。 「そこの悪魔が何か言っていたようだが。まさか魔王たる者が、元は人間の新参者から獲物を取り上げたり、眼前で少し力を使ったからと言って罰する程狭量ではなかろう?」 壱哉は、むしろ楽しげに、ザヴィードに視線を注ぐ。 まるっきり無視された形のネピリムは、憤然として口を開いた。 「そもそも、お前の態度自体が、ザヴィード様の御前でありながら、無礼だろう!」 しかし、壱哉は小さく肩を竦めた。 「こんなに可愛いペットと、これだけ楽しい日常を与えてくれたんだ、心から感謝しているし、敬意も払っているぞ。それに、態度だのに目くじらを立てるのは雑魚の悪魔程度ではないのか?そんな些末な事を、王が気にするとは思えんな」 「なっ、な‥‥‥!」 雑魚呼ばわりされて、ネピリムは怒りのあまり、言葉が出てこないようだった。 「くっくっく‥‥‥」 ザヴィードが、耐えきれないように、笑い声を漏らした。 「‥‥ザヴィード様?」 戸惑ったようなネピリムの前で、ザヴィードは大声を上げて笑った。 このように声を上げて王が笑うのは珍しいのか、広間に集う魔物達がざわめく。 やがて、やっと笑いが治まったらしいザヴィードは、ネピリムに視線を移した。 「ネピリムよ。お前の負けだ」 「は?そんな、私は‥‥‥」 壱哉を陥れようとする企みは、ネピリムの独断のようだった。 「イチヤの方が、お前より上手だったと言う事だ。諦めよ、ネピリム」 「‥‥‥‥‥」 ネピリムは、不満げに黙り込む。 しかし、こんな事を言っているが、ザヴィードは全て承知の上で、どちらに転んでもいいと思っていたのではないか。 壱哉がそれ程の力を持っていないと思えば、ネピリムの言葉に応じて罰を与えていたかも知れない。いや、魂を喰われていたか。 とすれば、とりあえず、ザヴィードは壱哉を認めてくれたと言う事なのだろう。 ザヴィードは、上機嫌な様子で、壱哉を見詰めた。 「そなたのエナジー、転生した時よりもかなり増えておるな。それだけの力があれば、魔界と人間界を自由に行き来もできよう。ネピリムにでも、術を教わるが良い」 「有り難き幸せ――とでも言えばいいのかな、俺は?」 皮肉めいた壱哉の言葉に、ザヴィードは笑った。 「無理はせずとも良いぞ。そなたには、型通りの挨拶などは似合わぬ。好きに振舞うがよかろう」 「ザヴィード様っ?!」 半ば悲鳴のような声を上げたのはネピリムだった。 陥れようとまでした相手を、大切な主が特別扱いしようと言うのだから、到底、納得が行かないのだろう。 「ネピリム。お前も、今は同胞となったのだから、そう煩い事は言うな」 「‥‥‥っ」 名指しで嗜められ、ネピリムは顔を真っ赤にしながらも口をつぐむ。 ゆったりと玉座にくつろぎ、ザヴィードは目を細めて樋口を眺めた。 楽しげな、しかし冷たい威圧感を感じる視線に、樋口は思わず、壱哉のスーツの裾を掴む。 「そなたの従魔は良いな。気に入った。壊さねば、遊んでも良いのかな?」 笑いを含んだ言葉に、壱哉はちらりと樋口に視線を落とす。 反射的に、樋口は身を竦ませた。 このまま、玩具として置いて行かれても仕方がない。 いや、壱哉の役に立つのならばそれは望む事のはずだけれど、さっきの苦痛を思い出して、身体が勝手に緊張していた。 「ふん‥‥‥」 身を硬くしている樋口に、壱哉は不快気に鼻を鳴らした。 「悪いが、ダメだ」 ザヴィードに視線を戻し、壱哉は言った。 憤然と口を開こうとしたネピリムを、ザヴィードが手で制す。 「これは、俺のものだ。嬲るのも壊すのも、俺以外には許さない。たとえ『偉大なる魔王陛下』であってもな」 「ほぅ‥‥随分と、気に入っているのだな」 顎を撫でながら、ザヴィードは興味深そうに目を細めた。 「そなたの気に入りならば、ますます欲しいものだが‥‥まぁ、仕方あるまい」 ザヴィードの口調は、心底、残念そうだった。 「貢物なら、後で、獲物を見繕って送ってやる。だが、こいつだけは駄目だ」 壱哉は、ザヴィードを見詰めながら、きっぱりと言った。 「ふむ。そなたの目に適ったものであれば、確かであろうな。楽しみに、待つ事にしよう」 頬杖をついたまま、ザヴィードは、楽しげに笑った―――。 ネピリムに教わったばかりの術で、壱哉は、マンションへと戻ってきた。 見慣れた、壱哉の寝室に、樋口は思わず大きく息を吐く。 悪魔のくせに変な所が正直なネピリムは、まるで仇のように壱哉を睨みつけながらも、ちゃんと術を教えてくれたのだ。 あの重苦しい魔界の空気から解放され、樋口はやっと肩の力を抜いた。 「樋口」 厳しい声に、樋口は身を縮めた。 怖々と見上げた視線は、怒ったような色をした瞳にぶつかった。 「お前は、俺の『従魔』だ。俺の物として、黙って従っていればいいんだ。二度と、あんな勝手な事は言うな」 紛れもない怒りを含んだ声に、樋口は目を伏せた。 「うん‥‥ごめん」 樋口が詫びると、壱哉は、更に不機嫌な顔になって、出て行ってしまった。 それ以上咎められる事も、何か罰を受ける事もなかったのは、樋口には不思議に思えた。 壱哉の命令がなければ、自分にはやる事はない。 樋口は、いつものように、座り込んで壱哉のベッドの支柱に寄りかかる。 目を閉じると、あの禍々しい魔界の景色が、はっきりと思い出される。 壱哉が危ない目に遭うのではないかと、そして壱哉のために自分に何が出来るかと、そればかり考えていた。 こうして、何事もなく戻って来られた、その事実自体がまだ信じられない気がする。 そして。 『必ず、お前と一緒に帰る』 『俺が守ってやると言っているんだ』 魔界で囁かれた幾つもの言葉。 思い出すだけで、全身が熱くなる。 あの言葉だけで、もう、魔物達に身体を引き裂かれて死んでもいいとすら思った。 それなのに壱哉は、言葉通り、樋口を連れてこの世界に戻ってきた。 壱哉にしてみれば、自分の『所有物』を勝手に壊されるのが気に入らなかった、ただそれだけの事かも知れない。 でも‥‥捨て駒程度の役にしか立たない樋口を、危険を冒しても連れ帰ってくれた。 魂を失い、生きている意味も、目的も何もなくなってしまった自分だけれど。 いや、だからこそ。 たとえ、壱哉がどう変わろうと。 たとえ、自分がどう変えられようと。 この身体は――全ては、壱哉のためだけに。 「‥‥‥黒崎‥‥‥」 この胸の内にある気持ちを表すのにふさわしい言葉を、しかし、樋口は飲み込んだ。 思い返せば、学生時代から、ずっとこの気持ちを抱いていたのだ。 けれど、もう、戻らない。 人でなくなって、『従魔』に――壱哉の『所有物』となった、この身では。 きっと、その言葉はふさわしくないもの。 だから、樋口はきつく唇を噛み締めた。 口には出せない、いや、抱く事さえ、今の自分には不相応な気持ちを、言葉と共に胸の奥深くに仕舞い込む。 『従魔』―――従う、魔。 人間ではなく、魂を失ったただの抜け殻。 それで、いい。 『ペット』でも、『物』でも、どう扱われても。 壱哉の側にいられれば。 この身体も‥‥‥心も、ただ、壱哉のためにあるのだから―――。 |
END |
←BACK |
どえらく長くなってしまったので二つに分けたのですが、区切りのいい所で切ったらバランスの悪い配分になってしまいました。
ザヴィード様に遊んでいいか訊かれて、PC版の壱哉様なら3Pとか公開セ○○スとか言い出しそうだなぁと思いつつ。PS2版の壱哉様だと、ちゃんと庇ってくれそうな気がします。
PS2版に対してまた愚痴るのも何なんですが。結局、従魔になってしまった時点で、壱哉が『好き』と言う気持ちが変質してしまうような気がします。絶対的な支配力を持ち、その心さえ作り変えられる主人と、基本的に主人に尽くすためにある従魔と言う関係になってしまうと、『好き』と言う気持ちが本来のものなのかどうか判らなくなってしまうと思うのですよ。そこらの微妙な割り切れなさ(作者の)が最後の方に出ていたり。