Lost…

《7》


 ホテルの一室にも似た部屋で、樋口は人を待っていた。
 金を払って自分を『買う』客を。
 ここに連れて来られてから、どれだけの時間が経つのかもう判らなくなっていた。
 似たような部屋が並ぶこの建物から、一度も外には出ていない。
 昼夜を問わず、『客』がついたら金に応じた時間、相手をさせられるのだ。
 別に、時計を見る気も起こらなかった。
 内臓、眼球、骨髄、売れるもの全てと引き替えに金を手に入れた。
 勿論、金での臓器売買は違法だ。
 こんな非合法な手段での臓器を欲しがるのは、本当に困っている人間ではなく、金に不自由しない連中だ。
 重い病気などではなく、若返りの為に臓器を欲しがる金持ちがいると言う。
 中には、道楽が昂じて行き着く末の欲望――『食人』の為に金を出す者すらいるらしい。
 より高値で売り捌く事の出来る金持ちを捜す間、樋口は生かされている。
 しかし、その間ただ飼っておく訳には行かないと、こうして『客』を取らされているのだ。
 無論、下手な人間の相手をさせて病気など感染されては元も子もないから、身元のはっきりした、高い金を払う人間を選んでいるようだ。
 相手は男が多かったが、時には女もいた。
 テレビで見たような評論家や、政治家なども客にいた。
 しかし、身元が確かな事と、性癖とは別の話だ。
 樋口は体格がしっかりしているせいか、彼を選ぶ客は、性行為ばかりでなく、いたぶるのを好んだ。
 さすがに怪我をするような行為は止められているらしいが、いつも容赦なく痛めつけられ、気絶してしまう事が多かった。
 こんな行為に慣れていない樋口は、ろくに奉仕も出来なかったが、逆にそれが、何も知らない普通の人間をいたぶる気分にさせるらしく、客の評判は上々らしい。
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、小さくため息をついた。
 『客』を取るなど、嫌だった。
 しかし、全てを売った樋口に、選ぶ自由がある訳がない。
 それに、苛まれ、苦痛と快楽に意識を飛ばしている間は何も考えないでいられる。
 あの街を出たあの日からずっと胸の奥にある痛みも、何も出来ない自分への怒りも自己嫌悪も‥‥新の事も。
「新‥‥‥」
 口の中で小さく呟く。
 全てを手放す事にしたあの日。
 知り合ったばかりなのに、新は半ば強引に樋口をあの街から連れ出した。
 そして‥‥今までずっと、一緒に暮らしてくれた。
 途中から、何となく新に抱かれるようになって。
 同性のはずなのに、不思議と、嫌だとは感じなかった。
 いや、むしろ、新と一緒にいる時は、重苦しい胸の痛みも罪悪感も、少しは薄れる気がした。
 けれど、いつも不思議に思っていた。
 どうして新は、樋口の側にいるのだろう。
 どうして‥‥樋口を抱くのだろう。
 新が、樋口の事を本気で心配してくれているのは判っていた。
 あの街から連れ出してくれた時も、バイト先から怪我をして帰って来た時も、新が本気なのだと言う事は感じた。
 それが、ただの心配だけではなく、好意が含まれている事も、薄々は感じていた。
 けれど、自分自身ですら、生きている意味などないと思っているこんな人間に、どうしてそこまで本気になれるのだろう。
 新の気遣いが嫌と思った事はないし、側にいてくれれば落ち着ける。
 しかし、自分には、新が好意を持ってくれるような価値はない。
 薔薇園も、サンダーの墓も、何一つ、守る事が出来ず。
 父が死ぬまで追いかけていた夢も、叶える事は出来なかった。
 こんな自分に、生きている意味などない。
 真っ直ぐに夢を見詰め、その為に努力している新は、樋口には、眩しすぎた。
 真剣な視線が、笑顔が、嬉しくて、同時に辛かった。
 本当に純粋な好意が、重荷だと言ったら新に酷だろうか。
 しかし、新が本気で近付いて来れば来る程、樋口は、苦しくて、居たたまれなくなった。
 自分にはそんな価値などない、何度もそう叫びたくなった。
 だから――逃げ出した。
 結局、自分は卑怯者なのだ。
 この苦しさを早く終わらせたくて、しかし自分で命を絶つ度胸もないから、こんな手段を選んだ。
 こんな事をしても、新が喜ばないのは判っていた。
 だからこれは、『新のため』などではない。
 ただ、全てを終わらせたかった。
 自分と言う存在を、跡形もなく消してしまいたかった。
 そうすれば、新はちゃんと別のものを見るだろう。
 樋口の口から拒絶を伝えなくても、諦めてくれるだろう。
 直接、言葉で伝える事をせずに逃げ出す自分は、本当に卑怯者なのだ――。
 そんな事を考えていた時。
 ドアが音を立てて開いた。
 樋口は、慌てて立ち上がる。
 案内されて入って来た、スーツ姿の客を見て、樋口は固まった。
 案内の男をうっとうしそうに外へと追い払った、その『客』は。
「黒崎‥‥‥?」
 呟いた言葉に、向けられた顔は、確かに、あの同級生のものだった。
「なんで、こんな所に‥‥‥」
 言いかけて、薔薇園と引き替えに『契約』を持ちかけられた時の事を思い出す。
「‥‥あぁ、そっか‥‥お前、『そっち側』の趣味、あったんだよな‥‥‥」
 苦笑する樋口を、壱哉は鋭い視線で見詰めた。
「お前。こんな所で、何をやっている?」
「何、って‥‥‥」
 樋口は、少し困ったように部屋の中を見回した。
「ここに来たんなら、わかってるはずだろ?客を取ってるんだ」
「‥‥‥‥」
 黙り込んだ壱哉に、樋口は笑って見せた。
「どうする?抱くんでも抱かれるんでも、どっちでもいいぜ。口でするんでも、見せるんでも、なんだってできるし。まぁ、あんまり上手くはないけどな。‥‥あぁ、ロープとか、一通りのものもそろってる。ひどい傷になるようなこと以外なら、なんでもしてもらって構わない」
 まるで、ごく普通の話題を話しているような口調だった。
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、無言のまま、樋口に手を伸ばした。
 耳元からうなじへ指が這わされると、反射的に樋口は身体を硬くする。
「こんなザマで、客を取っていたのか?」
 射るような視線に、樋口はぎこちなくも見える笑みを浮かべた。
「かえって‥‥素人みたいでいい、って喜ばれてるよ。それに、縛られたり、痛めつけられたりとか多いから、技術なんかいらないし」
「‥‥上だけでいい、脱いでみろ」
 唐突な言葉に、樋口は一瞬、困った顔をしたが、すぐに目を伏せ、シャツのボタンに手を掛ける。
 ラフなシャツを脱ぎ捨てると、筋肉質の身体が顕わになる。
 しかしその全身には、縛られ、ロープと擦れた痕や、鞭か何かで打たれた痕、中には切り傷のような痕も残されていた。
 そう酷いものはないが、殆どが、まだ新しい傷だった。
 脇腹の辺りには、まだ痛々しい火傷の痕まで刻まれていた。
「‥‥あぁ、これ。なんか、悪のりした客がいてさ。ライターで焼かれたんだ。その時はちょっとひどかったかな」
 壱哉の視線に気付いて、樋口は、言い訳のように言った。
「‥‥‥もういい。服を着ろ」
 言われ、樋口は戸惑った顔になる。
 しかし、俯いてシャツを羽織った樋口は、少し躊躇ってから、ゆっくりとボタンも留めて行く。
 その間に、壱哉は部屋のベッドに腰掛けて、足を組む。
 どうすればいいのか判らなくて、樋口は落ち着かなかった。
「座れ」
 隣りを示され、樋口は更に戸惑う。
 おずおずと近付いて、樋口は壱哉の隣りに座った。
「‥‥金のため、か?」
 問われ、樋口は下を向いた。
「それは‥‥ない訳じゃないけど、それだけでもないかな‥‥」
 樋口は、苦笑した。
「あぁ、そう言えば、俺、お前の所にまだ借金、残ってたよな」
 一ヶ月分の土地の借料は、これまで父が世に出した品種の権利を纏めて手放した金で支払った。
 しかし、その後、バイト先で騙されたりして増えた借金を返すのに、樋口はまた、クロサキファイナンスから借りていたのだ。
「ごめん。俺‥‥もう、内臓も全部売ったから‥‥これ以上は、売るもの、ないんだ。今は、買い手が見付かるまでの時間、生かされてるだけだし。‥‥まぁ、まさかこんな事をさせられるとは思わなかったけど」
 壱哉が何か言うより先に、樋口は言葉を継いだ。
「なあ。お前、新って‥‥清水新、って、知ってるよな?」
 壱哉の表情が動く。
「俺‥‥さ。しばらく、新と暮らしてたんだ。お前と‥‥いろいろ、あったみたいだよな」
「‥‥‥‥‥」
「新‥‥がんばってるからさ。助けてやってほしいんだ」
 樋口の言葉に、壱哉は思わず、その顔を見直してしまった。
「俺が、あいつに何をしたか、聞いていないのか?‥‥大体、お前だって、俺がいなければこんな所にいなくて済むはずだろう」
「それは‥‥そうかもしれないけど」
 樋口は、壱哉の視線を避けるように下を向く。
「期日までに薔薇を完成させられなかったのは俺が悪かったんだし。一ヶ月‥‥待ってくれただけでも、ありがたかったと思うよ」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、俯いた樋口の横顔に鋭い視線を注ぐ。
 まるで、その表情を一瞬たりとも見逃すまいとするように。
「‥‥身体を切り売りしてまで、新に金を渡したのか?お前は、そこまであいつに義理があるのか?」
 樋口は、小さく笑って首を振った。
 自嘲に満ちた笑みを浮かべる樋口など初めてで、壱哉は目を見張る。
「新のため、なんかじゃないよ。俺が、逃げ出したかっただけだ。もう、何もかも終わらせたかった。けど、同じ死ぬなら、知ってる人の役に立って死ねた方がいいだろ。要するに‥‥自己満足、だよ」
 そこまで、自分で言ってしまう樋口に、壱哉は思わず視線を逸らしてしまった。
 薔薇園を失った事で、樋口は、生きる目的すら失ってしまったのか。
 そう遠くないうちにもたらされる『死』を見詰めている樋口は、あの薔薇園で再会した同級生とは、全くの別人にすら見えた。
 何か別の目的を見付けるには、樋口は、あまりにも不器用だったのかも知れない。
 黙り込んだ壱哉を、樋口はじっと見詰めた。
「こんな言い方‥‥卑怯だと思うけど。俺は、黒崎はそんなに変わってないんだと思ってる。素直じゃなくて、でも、本当は昔みたいに優しいんだって‥‥俺は、思ってるよ」
「お前‥‥‥」
 微笑すら浮かべる、このお人好しの言葉が、壱哉には信じられなかった。
 これが、そもそも自分をこんな境遇に追い落とした相手に向ける言葉だろうか?
「‥‥俺が、もしあいつを手に入れて、好き勝手に扱うと言ったら、どうするつもりだ?」
 壱哉の言葉に、樋口は小さく息を吐いた。
「‥‥‥どうも、できないよ。俺には、止める力なんかない。俺には‥‥新に返せるものは、何もないんだ」
 諦め切ったような、乾いた呟きだった。
「黒崎が、聞いてくれても、くれなくても。頼むことしか、俺にはできない」
 真っ直ぐに見詰めて来る樋口の瞳は、しかし、目の前の壱哉ではなく、もっと遠くの何かを見ているように思えた。
「‥‥‥‥‥‥」
 否とも、応とも答えず、壱哉は立ち上がった。
「あ‥‥‥」
 慌てたように、樋口も立ち上がる。
 自分の前の、少しだけ低い位置にある瞳を、壱哉は見詰めた。
「樋口。お前、本当に、このままでいいのか?」
 まともに訊かれ、樋口は思わず視線を逸らした。
「‥‥‥うん」
 しばし後、小さな声が答えた。
 しかし、その瞳は逸らされたたままだった。
「‥‥‥そうか」
 そのまま、ドアの方へ行こうとする壱哉に、樋口は戸惑った。
「何も、しないのか?その為に‥‥高い金、払ったんだろ」
 躊躇いがちな樋口の言葉に、壱哉は足を止め、振り返った。
「お前は、されたいのか?」
「‥‥‥それは‥‥‥」
 樋口が目を伏せる。
「別に困る程の金を払った訳じゃない。お前と話をする代金だと思えば高くもない」
 その言い方が何となく壱哉らしくて、樋口は小さく笑った。
 壱哉がドアを開けると、時間が早かったせいか、外で待っていた案内の男が慌てて近寄って来る。
 樋口が気に入らなかった訳ではない、と金を渡すと、案内の男はあからさまにホッとした顔をする。
 そんなやり取りを見ていた樋口が、ふと、自嘲に満ちた笑みを浮かべた。
「‥‥‥本当は‥‥こんなところ、お前には、見られたくなかったな‥‥‥」
 聞こえるか聞こえないかの呟きに、壱哉が振り返った時にはもう、部屋の扉は閉ざされていた。
 閉まるドアから一瞬、見て取れた樋口の表情。
 まるで泣き笑いのようなその表情は、壱哉の胸の中に強く刻まれ、いつまでも離れなかった。



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to be continued…

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