Lost…

《1》


 早朝。
 一輪の薔薇が、静かに綻び始めた。
 淡い色の花弁が、ゆるやかにほどけて行く。
 しかし。
「そん‥‥な‥‥‥」
 樋口は、茫然と呻いた。
 この株こそ、完成だ。
 そう思っていたのに。
 ゆっくりと開いて行く花は、確かに素晴らしいものだった。
 しかし、違うのだ。
 花弁の色が、幾重にも重なり合う形が、イメージと微妙に違う。
 少なくとも‥‥これは、父と追い求めて来た夢の終着点ではなかった。
「そんな‥‥っ」
 全身から力が抜け、気付けば座り込んでしまっていた。
 今度こそ完成だと、そう思っていたからこそ、この薔薇園を懸けた巨額の借金を何とか頼み込んだ。
 だが、これでは‥‥契約金は入らない。
 勿論、この花は今まで咲いた中で一番理想に近い出来だったけれど、未完成品を完成品として売る訳には行かない。
「‥‥‥‥‥‥」
 呆然と、樋口は目の前の薔薇を見詰めていた。
 ガラガラと、音を立てて足元の大地が崩れて行くような気がする。
 いや、今この大地が崩れ、このまま飲み込まれてしまうのならどんなにいいだろう。
 樋口は、力なく両手を大地についた。
 そうしなければ、倒れてしまいそうな気がした。
 まるで全身から、全ての力が流れ出て行ってしまったようだ。
 もう一世代‥‥いや、もしかすると二世代か三世代重ねないと、理想の形にはならないかも知れない。
 どちらにしても、もう、樋口に許された時間は残されていなかった。
「‥‥‥ごめん‥‥‥」
 ポタリ、と大地に雫が落ちた。
「‥‥親父‥‥サンダー‥‥‥ごめん。俺‥ダメだったよ‥‥‥」
 雫は、次々と大地に染み込み、土の色を変えて行く。
 もう、遅い。
 間に合わなかった。
 樋口は、何も守る事は出来なかったのだ。
 明るい太陽が高く昇り、暖かな光で辺りりを照らしても、樋口はその場に座り込んだまま、動かなかった。


 夜の街を、新は暗い裏道を選ぶようにして歩いていた。
 明るい光の下を通ると、ボタンを引き千切られ、破かれたツナギを見られてしまうからだ。
 これから、どうすればいいのだろう。
 もう、あのアパートには戻れない。
 あの借金取りが待ち構えているかも知れないし、或いは壱哉の手が回っていて連れ戻されてしまうかも知れない。
 連れ戻され、またあんな醜態をさらすのは絶対に嫌だった。
 だが、頼る当てがなくて壱哉のマンションに行ったくらいだから、新に他に行く場所などない。
 とにかく、この破かれた服をどうにかしなければ、遠くに逃げる事も出来ないのだが。
 当てもなく歩くうち、町角に暖かい光が見えた。
 いつも老犬を散歩させている、人の好い青年がやっている花屋だ。
 今は深夜を回っているはずなのだが、何故かまだ店を開いている。
 その暖かな光に誘われるように、新はドアを押していた。
「いらっ‥‥あ、君は‥‥‥」
 一瞬輝いた顔が失望に曇るが、樋口はすぐに新の様子に気付く。
「と、とにかく中に入りなよ」
 樋口は、新を家に導き入れる。
「まず、風呂でも入るか?」
 樋口が風呂を沸かしている間、新は茶の間らしい場所で待たされていた。
 だが、その部屋に新は困惑していた。
 その部屋には、殺風景な程、何も物がなかったのだ。
 この部屋ばかりではない。
 隣りのキッチンにも、ガス台以外何も見つける事は出来なかった。
 テレビや、戸棚やテーブルや‥‥生活していれば当然あるはずの家具や道具が、何一つないのだ。
 それを口に出来ないまま、新は勧められるままに風呂に入る。
 裸になると、あの時の事が嫌でも蘇って来て、居たたまれない程の自己嫌悪に陥る。
 そして、平然と嘘を吐き、あんな事をして来た壱哉にどうしようもない程の憎しみを覚える。
 思い出すだけで、屈辱と怒りのあまり叫び出したくなってしまう。
 その衝動を辛うじて堪え、新は早々に風呂から上がった。
「ごめん、こんなものしかないけど」
 樋口の服を借り、新は身支度を整える。
 茶の間に落ち着き、新はやっと息をついた。
「今、うち、何もないから。ごめんな」
 樋口が、自販機辺りから買って来たらしい缶ジュースを新の前に置く。
 素直に飲み始めた新を、樋口は黙って見詰めている。
―――そう言えば‥‥。
 この花屋の青年は、確か壱哉の同級生だと言っていた。
 壱哉の会社の敷地がこの土地にかかってしまって、立ち退きを迫られていたはずだ。
 壱哉の事を思い出してしまい、新の胸の奥に嫌なわだかまりが広がる。
 思わず顔をしかめてしまった新を、樋口は誤解したらしい。
「あ、ごめん。それ、嫌いだった?」
 どうやら、渡した缶ジュースが嫌いだったと思ったようだ。
「いや、そうじゃねえって。ちょっと‥‥嫌なこと、思い出しただけだから」
「そっか‥‥」
 樋口は、目を伏せた。
 その様子が、いつもと違って見えて、新は戸惑う。
 公園などで見かけた時は、樋口はもっと生き生きしていた気がする。
 しかし今の樋口からは、覇気が全く感じられない。
 何があったのだろう、と考えかけて、新は自分のお人好しさかげんに呆れる。
 今の新には、人の事を気にしている余裕などないはずだった。
 もうアパートには戻れないし、バイトだってやめるしかない。
 いや、もうこの街自体にいられないのだ。
 これからどうすればいいのか、それすらも見えないのに、少し面識があるだけの人間の事を気にするのは馬鹿のようだ。
 大体、もう二度と、他人なんか信じないと心に決めたはずではなかったか。
 だから新は、黙ったままジュースを飲むのに集中する。
 それでも、どこか口数少なく、ぼんやりしている樋口の様子は、酷く気になった。
「‥‥‥なぁ。なんで、こんな遅くまで店、開いてたんだ?‥‥まあ、俺は助かったけど」
 我慢出来なくて、つい訊いてしまった新は、すぐに後悔した。
「うん‥‥黒崎が、来ないかな、って思ってたんだ」
 壱哉の名を聞いて、新が顔を強張らせたのにも気付かず、樋口は続けた。
「土地代の借金、返す当てがなくなっちゃって‥‥立ち退かなきゃならないんだけど、でも‥‥もしかすると、黒崎がまた、来てくれるんじゃないか、って思ってさ」
 その、お人好しに壱哉を信じているらしい言葉が気に障った。
 あいつは‥‥黒崎壱哉と言う男は、最低の人間なのに。
「来る‥‥はず、ねえよ」
「え?」
「あいつ、来るつもりなんかない。俺は‥‥ついさっきまで、あいつと一緒にいたんだからな!」
「‥‥!!」
 新の言葉に、樋口は大きく目を見開いた。
 何故そんな事まで言おうと思ったのかは判らない。
 けれど、一旦口にするともう止まらなかった。
「あいつ‥‥借金取りから逃げて来た俺に、体を売れ、って言ったんだぜ?おまけに、親切そうな顔をして俺に薬を盛ったんだ!」
「そんな‥‥」
 樋口が、辛そうに首を振る。
 その表情が、新には、自分の言葉を信じていないように見えた。
「‥‥っ!」
 怒りの衝動の命じるまま、新は樋口に飛びかかるようにして押し倒していた。
 信じていた壱哉に裏切られた、そのショックで、まだ精神の平衡を失っていたのかも知れない。
 畳の上に樋口を押し倒し、襟元を掴んだ新は馬乗りになるようにする。
「あんたは‥‥何も知らないんだ!あいつが、本当はどんな奴なのか‥‥あいつが、どんなに平然と、嘘をつくのか!」
 無意識に力が籠もったのか、襟元を締め上げられて、樋口の表情が歪む。
「あいつが、俺に何をしたのか教えてやるよ。あいつは、俺を犯そうとしたんだ。しかも、ヤバい薬まで使ってな!今まで‥‥いろいろ、優しくしてくれたのも、何もかも嘘だったんだ!!」
 叫ぶような新の声は、まるで泣き声のようにも聞こえた。
 無抵抗のまま、新を見上げていた樋口の表情が、悲しそうに歪んだ。
「そうか‥‥黒崎が、そんな事を‥‥‥」
 小さな呟きに、新は我に返った。
 そして、自分が何をしようとしていたのかに気付いて愕然とする。
 樋口の上からすぐにどくと、新は項垂れた。
「ご‥‥ごめん。俺‥‥俺は‥‥‥」
 それ以上言う言葉が思いつかず、新は項垂れたまま身を震わせている。
「‥‥‥‥‥」
 自由になった樋口は、黙って立ち上がった。
 新は、反射的に身を固くする。
 樋口は、黙ったまま、隣室へと消えた。
 こんな真夜中に、何度か顔を合わせた事があるだけの人間を何も聞かずに家に招き入れてくれた相手に、暴力を振るおうとしたのだ。
 このまま、警察に突き出されたとしても文句は言えない。
「俺‥‥最低だ‥‥‥」
 情けなくて涙が出そうだった。
 壱哉に酷い目にあわされた事は理由にはならない。
 自分は、いつの間に感情を他人にぶつけるような人間になってしまったのだろう。
 自己嫌悪に陥っていた新は、樋口が戻って来たのに気付いて息を詰めた。
 しかし樋口は、穏やかな様子で新の前に座る。
「もう、この街にはいられないんだろう?色々大変だと思うから、これ‥‥使ってくれよ」
 差し出されたのは、ナップザックと‥‥通帳、だった。
「なに‥‥この通帳」
 不審げな新に、樋口は、どこか寂しそうな顔で笑った。
「もう、俺にはいらないものだから。必要な人が使う方がいいだろう?」
 その言葉を不思議に思いつつ通帳を開いて見ると、何と額面は三百万近くあった。
「こんな大金、受け取れねえよ!大体、あんただって、ここ立ち退いてどっかに行かなきゃならないんだろ?自分が使えばいいじゃないか!」
 新の言葉に、樋口は表情を曇らせて視線を逸らした。
「俺‥‥新しい薔薇、作ってたんだ。それでこの土地を買い戻そうと思ってたけど‥‥結局、完成しなかった。朝には、この土地、出て行かなきゃならないんだ。でも、どうせ行く場所なんかないし、俺は薔薇を作る以外何もできない。だったら、このまんまここにいて‥‥家が取り壊される時、一緒に死ぬのもいいかも、なんて思ったりもしたんだ」
 樋口の言葉に、新は全身が熱くなるような怒りを覚える。
「ふざけんなっ!取り壊しとかしてて死人なんか出たら、工事してる人間が責任取らなきゃならないんだぞ!下手したら、殺人とかになっちまうかもしれないんだ!」
 新の剣幕に、驚いたような顔をした樋口は、目を伏せた。
「‥‥‥ごめん。嘘、だよ。それもいいかな、とか思っただけだ。ごめん」
 しかし、樋口はもしかすると、本当にそうするつもりだったのではないか。
 もう生きていてもしょうがない、そう思っていたから、樋口からは何の気力も感じられなかったのだ。
 たかが『薔薇』の為にそこまで思い詰めるのは理解出来なかったが、それでも、このまま放って置く訳には行かない。
 このまま別れたりしたら、樋口は、本当に自殺でもしてしまいそうな気がした。
「‥‥‥わかった。それじゃ、これはありがたくもらっとく」
 新の言葉に、樋口はほっとしたような顔をする。
「その代わり、あんたも俺と一緒に来いよ。それなら、素直に受け取る」
「え‥‥‥」
 樋口は、戸惑ったように瞬きした。
「でも‥‥俺は、君とそんなに親しい訳でもないし‥‥‥」
「その『親しい訳でもない』奴に、大金の通帳やろうとしたのは誰だよ」
「‥‥‥‥‥」
 樋口は、新の真意を図りかねているようだった。
 新自身にだって、どうしてこんな事を思ったのか判らない。
 もう絶対に他人なんか信じない、そう思ったはずなのに。
 でも、このまま樋口を放って置いたら、絶対に自分は後悔する。
 それは、奇妙なまでにはっきりとした確信だった。
「第一、これだけのものをただでもらうなんてできないよ。あんたと俺が一緒にいれば、これはあんたが使う金にもなるだろ?だから、もしあんたがここを動かないんなら、俺もここにいる」
 新の言葉に、樋口は何故か、とても悲しそうな顔をした。
 何か悪い事でも言ってしまったのかとも思ったのだが、思い当たる事はない。
 小さく息を吐いた樋口は、新の真意を確かめるように、じっと見詰めて来た。
「‥‥俺には‥‥何にも当てなんかないけど、それでもいいのか?」
「俺にだってねえよ。けど、どうにかなる。‥‥どうにかなるよ」
 新の言葉は、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「‥‥‥そっか」
 樋口は、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、いろんな後始末とか、してくるから」
「何か、荷物とかあるのか?なんなら手伝うけど」
 新の言葉に、樋口は首を振った。
「持って行くものなんか、もう、ないよ」
 寂しげな笑いに、新は言葉を失う。
 樋口が外に消えると、新は手持ち無沙汰になって辺りを見回した。
「‥‥?」
 ふと、新は押し入れに目を留めた。
 細く開いた扉の隙間から、何かが見えたのだ。
 悪いと思いつつ、新は押し入れをそっと開けてみる。
 がらんとした中に、古ぼけた大学ノートとアルバムが一冊。
 他の物は全部処分してしまったのだろうが、これはきっと、相当大事なものだから処分出来なかったのだろう。
 だが、さっきの樋口の言葉からは、これを持って行くような素振りは感じられなかった。
 少し、考えてから、新はノートとアルバムをナップザックにしまい込んだ。―――何故か、そうした方がいい気がした。
 新がナップザックの口を閉めた時、樋口が外から戻って来た。
 少し、目の縁が赤いような気がした。
「待たせて、ごめん。もう、いいよ。行こう」
 明らかに、無理をしていると判る笑みを浮かべ、樋口は言った。
「うん‥‥」
 新は、それ以上樋口を見ていられなくて、目を伏せて頷いた。
 電気を消し、家の外に出た時には、街灯の明り以外は真っ暗になっていた。
 家の前で、樋口は一旦足を止めた。
「‥‥‥‥‥」
 家を見上げる樋口の横顔は、とても辛そうに見えて、新は目を逸らした。
「‥‥‥行こうか」
 声をかけられ、新は黙って頷いた。
 そして、二人は夜の闇に紛れ、馴染み深い街を後にしたのだった。



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