郷土熊本出身の作者 一
 
     ※下記の漢詩は「熊本漢詩紀行 一」を御覧下さい。
阿  蘇  山
徳 富 蘇 峰
宮 本 武 蔵
大 橋 梧 軒
     ※下記の漢詩は「酒にまつわる詩」を御覧下さい。
杯を挙げて明月に酬ゆ
伊 形 霊 雨
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武侯の墓(竹添井井)
 

 【題意】

 明治9年(1876年)諸葛武侯(孔明)の墓に詣でて詠んだもの。

 【詩意】

 涙を流して何回か湊川の楠公の前を通り過ぎたが

 今また定軍山の麓の孔明の墓の前に詣でて

 涙がとめどもなく流れるのを禁じ得ないのである

 人間、読書人になどなるものではない

 何処へ行っても何かしら感慨を催す事が多くてやりきれない

 【参考】

 武侯=諸葛亮、字は孔明。山東省の人。181〜234年。

 中国三国時代の蜀漢の丞相(古代中国で、天子を助けて国務を執った大臣。宰相。)

 劉備(りゅうび)に仕え、”赤壁の戦い”で魏の曹操(そうそう)を破った。

 劉備の没後、その子・劉禅を補佐し「出師(すいし)の表」を奉って漢中に出陣、

 五丈原で魏軍と対陣中に歿した。

 出師の表=孔明が劉禅に奉った前後二回の上奏文。誠忠と憂国の詩情に溢れた

 名文として後世に知られる。

 【語釈】

 湊川=楠公の墓のあるところ。

 定軍山=中国陝西省陝県の東南にある山の名で、孔明を葬ったところ。

 滂沱=涙がとめどなく流れ出るさま。

 【鑑賞】

 「人生読書子と作ること勿れ」の句は、蘇軾の詩「石蒼舒酔墨堂」(せきそうじょのすいぼくどう)

 の第一句「人生、字を知るは憂患の始め」に基づく。更に蘇軾はその詩の第二句において、

 「自分の姓名さえ大体書けたら、それ以上は入らぬことではあるまいか」と言っている。

 楠木正成と諸葛孔明を並べるのは、どちらも忠臣であるから。

 「人生読書子と作ること勿れ」は必ずしも「読書子」になることを否定するものではない。

 「読書子」なればこそ、かくまで感慨に耽ることが出来るのである。

 竹添井井(たけぞえせいせい)  
 1842〜1917年。幕末明治の儒学者。字は漸卿(ぜんけい)、幼名は満。
 後に進一郎と改めた。別に光鴻(こうこう)という。号は井井。
 先祖は駿河入道覚派、代々肥前の蓮池(はすのいけ)に居た。
 父は通称・順左衛門、荀園(しゅんえん)と号し、字は叔南。
 広瀬淡窓に学んで詩を善くし、宜園十八才子の一人に数えられた。
 井井は、天保13年3月15日、肥後天草郡上村で生まれた。幼少にして神童と称されるも
 虚弱で、母の苦労は大抵ではなかったが、父はその大成を期して厳しく躾けた。
 安政3年(1856)15歳で熊本に出て、木下@村(いそん)の門に学んだ。
 木門には俊才が多かったが、中でも井上梧陰、坂田警軒と親しく、称して三傑と呼ばれた。

 慶応元年(1865)9月、藩学・時習館居寮生となるも、12月3日、父が61歳で急逝。

 慶応3年5月6日、父とも頼んだ@村が63歳で没する。

 井井は悲傷し詩を作って之を哭した。

 当時、討幕の嵐は更に強まり、江戸幕藩体制の崩壊は時間の問題であった。
 諸藩が競って大艦を購入する中、熊本藩の万里丸も同じように購入されたが、航海中の事故
 で船底を破損する。日本に修理ドックが無い為、井井は策を講じ、漂流と称して上海に赴き
 修理をおこなった。その上海でアヘン戦争後の外人の傍若無人な振る舞いを目の当たりにし、
 憤懣やる方無い思いを述べている。
 維新の際には、薩長の諸藩は討幕をはかり、肥後の藩士も多くこれに加わったが、井井は
 藩主に従い佐幕派として活動する。またこの頃、時習館訓導となった。
 明治8年4月、修史局に入り、森有礼の清国公使に随行し、天津に赴く。
 北京・蜀山を訪ねた後、人情風俗を探ろうと、同郷の津田静一(九州学院創立者)と5月2日
 北京を旅立ち、直隷・河南・陜西を経て、四川省に入り、成都・重慶に至る。
 さらに三峡の険から洞庭湖へ抜け、8月21日上海に到着した。
 かくて観聞した所を録し、”桟雲峡雨日記”(さんうんきょううにっき)詩草三巻として刊行。
 文辞の雄麗さを世間に轟かせた。
 官命により陸軍大佐・福原和勝に属して上海に駐留中、西南の役が勃発する。
 その後、天津総領事、朝鮮弁理公使となったが、明治18年に公使を辞し、小田原に読書の
 楼・独抱楼を建て隠栖。東京帝国大学文学教授となる。
 大正6年3月29日、77歳で病没。
 伊藤博文はよく訪問して益を受け、皇太子も時に召されて儒教に関する教え等を御下問に
 なったという。正四位勲四等を贈られ、小石川音羽の護国寺にその墓がある。
 文、詩共に一流と称され、著書に「左氏会箋」「毛誌会箋」「論語会箋」他がある。
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懐を述ぶ(北里柴三郎)
 

 【題意】

 感慨を述べたもの。

 【詩意】

 人間一代、功名を挙げる時があるだろうか、いや、必ずその時はある

 一生学問に奮励努力することは、もとより自分が願うところ

 色々と言うのはやめよ、困窮や栄達、浮き沈みを

 艱難辛苦を耐えて一生を生き抜くのが男児なのだ

 【鑑賞】

 熊本県出身の偉大な先覚者。吟詠によって偲び讃えたい。

 63年10月、香雲堂小国本部30周年大会終了後、宗家一行が現在の記念館である

 北里柴三郎の生家を訪ねた。在りし日の資料に感慨を覚えたが、その中にこの詩を自書した

 半幅の掛け軸を見出し呆然。

 吟に携わる者には殊の外の感激、博士への親近感とイメージが一層鮮明になったという。

 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)  
 1852〜1931年。熊本県阿蘇郡小国町生まれ。細菌学者。
 苦学勉励して、1883年、東京大学医学部を卒業。内務省衛生局に入り、後に衛生試験所
 細菌室で学んだ。その後ドイツに留学、研究室に入り破傷風菌の純粋培養に成功。
 破傷風免疫の研究に進む。
 1890年、ジフテリアの免疫研究者、E・ベーリングと共著で「ジフテリア及び破傷風の血清
 治療について」という論文を発表し、北里の名は全世界に広がった。
 1884年、ペスト菌を発見。福沢諭吉が北里の為に伝染病研究所を建てた。
 以後99年にその研究所が内務省管轄になる迄、免疫血清、予防用ワクチンの製造と後進の
 指導に従事した。その後、同伝染病研究所長として、各国政府、学会から名誉会員等の栄を
 受け帝国学士会会員となった。
 しかし大隈内閣の時、突如その研究所を東京帝国大学の組織下に移すと発表した為に、
 北里以下全職員は辞職し、私財を以って北里研究所を設立した。
 昭和6年6月17日、脳出血により急逝。79歳。
 現在北里研究所、北里大学がある。(大正6年・貴族院議員、同13年・男爵、昭和6年・
 勲一等従二位、フランスからも勲章を受ける。)
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舟中子規を聞く(城野静軒)
 

 【題意】

 舟で京都から大阪へ下る途中、天王山下の八幡・山崎村を通過中、

 月夜にほととぎすの声を聞いて作ったもの。

 【詩意】

 京より淀川を下り、春も終わりの八幡山崎を過ぎれば

 何処で鳴くのか、ほととぎすが血を吐くような声をあげ、落花は静かに流れている

 ほととぎすの一声は月に響き、また水に流れ

 夜の舟中、故郷を離れた旅人は無限の思いでその啼声に聞き入った

 【語釈】

 子規=ほととぎす(杜鵑、不如帰、蜀鳥)

 八幡、山崎=天王山の麓、淀川に臨み、昔は京、大阪を結ぶ要衝であった。

 杜鵑啼血=ほととぎすの啼く声は哀切で血を吐く様に聞こえる。

 また、口の中が血の様な赤色をしている為に言う。

 離人=故郷を離れた旅人。

 【鑑賞】

 人口に膾炙された有名な詩である。

 城野静軒(きのせいけん)  
 1800〜1873年。熊本菊池生まれ。名は弥三次。
 横井小楠と親交があり、文武、書に秀で、詩に妙を著す。
 熊本市本妙寺参道の各寺院の扁額(門戸に掲げた額)はその筆である。
 明治6年、74歳で没。隈府・正照寺にその墓がある。
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三角港(瓜生田建山)
 

 【題意】

 熊本の南西、天草に面する港を題したもの。

 【詩意】

 三角港から、有明海へと舟遊びをした

 舟上から景色を眺め、詩酒に興じて、心地良く酔いうっとりとなる

 波の光、天草の島々の姿は、描いた絵よりも美しい

 頼山陽の「天草洋に泊す」を吟ずれば、ますます楽しい

 【語釈】

 篷窓=竹や、かや等で編んで船の覆いとするもの。  麗=晴々と、のどかなさま。

 【鑑賞】

 三角港は熊本県の西沿いの中央付近から、天草諸島へ突出している宇土半島の突端に

 位置する。JR三角線の終着駅。三角町は天草に面する港町として古くから栄えた。

 天草五橋の開通で一変し,旅客船は衰退したが、西港は明治の面影を残すものとして、

 観光客が訪れる。

 瓜生田建山(うりゅうだけんざん)  
瓜生田建山
 1892〜1974年。明治25年4月24日、熊本県阿蘇郡宮地の生まれ。
 名は健次。昭和3年2月15日、初代山桜先生と結婚。
 爾来、香雲堂の主人として、香雲堂吟詠の発展に尽力、人を愛し、酒を愛し、
 吟を愛された。初代山桜先生が今日も尚、吟界、各界に著名であるのは夫君
 の陰功も有るとされる。
 作詩、書をよくし、吟もまた味のある声で長詩(正気歌)をよくされた。
 香雲堂が夫婦吟詠を奨励されるのは、夫君の奨訓された処によるものである。
 昭和49年2月26日没、83歳。
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塞翁が馬(松口月城)
 

 【題意】

 人間の禍福は変転し定まりないものだという故事より。

 【詩意】

 歎く無かれ、我が身には災いが多いと

 天の愛に偏りは無く、等しく思いやり慈しむ

 いろいろ眺めるにつけ、どれもみな塞翁が馬の様である

 禍あればまた良いことが訪れ、因果は廻って輪になっている

 【語釈】

 塞翁=中国北方の辺境のとりでに住む老人。

 人間万事塞翁が馬=出典は前漢時代の書物、淮南子(えなんじ)人間訓。

 昔、塞翁の馬が胡の地に逃げてしまったが、数ヵ月後、名馬を連れて帰ってきた。

 その後、老人の子がその馬から落ちて足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際、

 兵役を免れて無事であったという話。人間の禍福は変転し予測出来ないという例え。

 松口月城(まつぐちげつじょう)  

 ※作者については栞/熊本漢詩紀行一を御覧下さい。

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