Home NovelTop Back



REBIRTH・2章(2)




 耳からセルをはずし、机の上に置く。そうしてクリュセは、エリートのしがらみからほんの一時自分を解放するのだ。候補生を含むエリート全員に常時携帯を義務づけられたセルキュラーは、使用時以外はその存在を忘れてしまうほど軽く、違和感がない。それが彼には何よりも重く、じゃまな物だった。
 そしてエレベーターに乗り、生まれ育った地区に向かう。
 エリート居住区からローワー居住区へは、展望室のある表層部へ行き、そこから別のエレベーターで降りるのが一番の近道だった。しかしクリュセはよほど時間のない時以外は、そのルートを使わなかった。たいていトップ・ノーマルの居住区でエレベーターから降り、あちこち寄り道をしていった。何度もエレベーターやオートウェイを乗り換え、少しずつ故郷に近づいていくのだ。それは儀式のようなものだった。どうしても必要な。
 エリートになったあと初めてローワー地区に帰った時のことを、クリュセは驚愕と共に、はっきりと覚えている。
 −−−−昔遊んだ場所は、変わってしまっただろうか。母は、友達は、オレのことを忘れてしまっていないだろうか。
 期待と不安がないまぜになった想いをかかえて、彼は5年ぶりに故郷に足を踏み入れた。
 最初に感じたのは、これほどまでに狭い所だっただろうか、という驚きだった。ローワー区は冷眠シェルターだった場所を改築した、空白期以前からもともと存在した地区だ。古く、汚く、狭い。他の場所を知らなかったクリュセは、13年間それがあたりまえとして暮らしてきた。しかし、ここを離れて5年。その間に、身長もずいぶん伸びた。そのせいだろう、と最初は思った。
 彼はまっすぐ母の住まいに向かった。夫も息子も失い、そして新しく伴侶を持たなかった彼女は、クリュセと暮らしていた時より狭い部屋に移っていた。
 ベルを押すと、誰かと聞き返しもせずにドアが開いた。そしてのぞいた母の顔は、しわこそ増えていたが、変わらず元気そうだった。
 彼女は彼をうさんくさそうに見上げた。誰かと問う口調には、警戒心すらあった。成長期に長い間離れていたのだからと、覚悟していた反応だった。クリュセはただ、誰だと思う、と訊き返した。名乗ってしまいたい気持ちを必死に押さえて。
 彼女は彼を頭の先から足の先までさんざん眺め回した。そして、言った。
「クリュセ・・・・・・・・かい?」
「そうだよ、マム。・・・・・・・・会いたかった!」
クリュセは母を抱きしめようとした。
 だがその手が母に触れる前に、いきなりドアは閉められた。
「マム・・・・・・・・!」クリュセはドアを叩いた。「オレだよ、クリュセだよ−−−−わかってくれたんじゃなかったのか−−−−マム!」
「なんで、かえってきた」
ドアの向こうからは、冷たい言葉が投げつけられた。想像もしなかった母の仕打ちに、クリュセは立ちすくんだ。
「あたまのいいれんちゅうのなかまになっちまったのに、いまさらあたしらみたいなくずになんの用があるって言うんだい?」
「オレはそんな・・・・・・・ただ・・・・・・・・・・・・!」
「うるさいね、とっととかえっちまいな!おきれいななりを見せびらかされるのはめいわくだ!」
 そう言われて、クリュセは自分が犯した大失敗に初めて気がついた。ひとめでエリートとわかるこざっぱりとした身なり。服一枚替えてくることにすらまるで思い当たらなかったのだ。
 なぜローワー区が狭く汚く思えたのか。それは知らないうちにエリートの感覚に染まっていたせいだ。自分では変わっていないつもりだったのに・・・・・・・・!
 通りがかった人々が、敵意のこもった目で彼を見ていた。彼がふりむくと、小さく肩をすくめてそそくさと立ち去った。
 クリュセはどうにもいたたまれなくなった。彼は逃げるようにその場を離れた。
 指導者たちが口をすっぱくして彼に言い聞かせていたこと−−−−ローワーの生まれであることを切り捨て、エリートである自分個人を高めるよう心がけること。それが正しかったのか。そうすべきなのか。それ以外、どうしようもないのか。
 思いもよらなかった母の拒絶。身を切り刻まれる思いでクリュセはそのことばかりを考えた。何日も。ほとんど食べも眠りもせず。彼は見る間にやつれていった。最後には強制的に病院のベッドにくくりつけられた。
 薬で無理矢理眠らされ、うつらうつらした意識の中で、彼は結論を出した。
 過去を捨てることはできない、と。
 退院し、ほとぼりがさめるのを待って、クリュセはひんぱんにローワー区に足を運ぶようになった。
 身をやつしたくらいでは、エリートであることを隠しおおせるものではなかった。母やかつての友人、住人たちの態度はやはり冷たかった。それでも彼はあししげく通った。成人のローワーの生活感覚を身につけ、忘れかけていたスラングを思い出し、エリートとの暮らしの中で自ら捨て去った人間同士の関係を積み上げていった。クリュセは必死だった。彼らより余分に知識を持ち、身分は違ってしまった。それでも根本は彼らと同じであり、ローワーだった子供の頃となんら変わっていない。それを彼らに認めてもらいたかった。自分でもそうであると思いたかった。
 そうやって母と息子の関係を取り戻すのに、2年がかかった。
 今ではもう、ローワーの人々は彼を自分たちの仲間とみなしてくれていた。しかしクリュセは、それに甘えてしまうことができなかった。好むと好まざるにかかわらず彼は、彼らとは反目し合う階級に属しているのだ。彼はそれを自分に何度も言い聞かせ、戒めた。あの時のような思いは二度としたくなかった。
 だからこそ、帰るのに時間をかけるのだ。少しでもエリートの自分を振り落としてから母や友達に会おう、と。
ローワー区に帰るのも半年ぶり。一刻も早くと気がせいた。それでも母の部屋にたどりつくのに1時間ほどかけた。いつものとおり、途中で服を替え、食料をいくらか買いこんだ。最初の頃、母はクリュセに何かと「恵んでもらう」ことを嫌がった。しかしローワーの生活は苦しく、クリュセはそれ以外母のために何ができるか考えつかなかった。今ではなんだかんだ言いながらも、息子の手みやげをおとなしく受け取ってくれていた。エリートの嫌味と思われず、素直に喜んでもらえるもの−−−それを選ぶのがクリュセの一番の楽しみだった。
 荷物をちらりと確かめ、クリュセは母の部屋のベルを押した。返事はなかったが、彼はかまわず中に入った。
 暗かった。
「マム?」
仕事はとっくに終わっている時間だった。しかしテーブルに椅子、そして壁にはりついた小さなキッチンしかない小さな部屋には誰もいなかった。どこかに出かけているのかな−−−クリュセは棚に、持ってきたものを片付け始めた。
 後ろで物音がし、クリュセはふりかえった。母が壁に埋め込まれたベッドの仕切りを開け、しどけない恰好でのぞいていた。
「クリュセだったのかい。おかえり」
「うん。・・・・・・・・・・マム、寝てたのか?起こしちゃった?」
「さいきん、つかれやすくて。あたしも年かしらね」
母親はそろそろとベッドから降り、椅子にかけた。
「何言ってんだよ、まだ50前だろ」
「おまえをまってて、まちくたびれたんだよ。1ヵ月って言っておいて」
「ごめん。反省してる。夕飯買ってきた。すぐ作るよ」
「いい。たべたくない」
「疲れやすいなら、よけいにちゃんと食べないと。見てよ、いろいろ持ってきたんだから。何がいい?」
彼は母の肩に手をかけた。
 妙に熱かった。
「マム・・・・・・・・熱があるんじゃないのか?」
「すこしね。ずっと下がらないから、気にするのもめんどうになったよ」
 ベッドの様子を見て、クリュセは顔をしかめた。簡易食の包みが散乱し、シーツはしばらく洗濯していないようだった。クリュセはシーツを取り替え、母を寝かせた。
「ずっと寝込んでたのか?医者には?」
「医者はきらいだよ」
「そんな問題じゃないだろう!」
「だいたい、はたらかないとあたしらはおまんまの食い上げだからね」
「仕事、行ってたのか?今日も?」
彼女はうなづいた。
「まったく−−−−!病気じゃ働くこともできないじゃないか!すぐ医者を呼んでくるから、おとなしく寝てろよ!」
 クリュセはどなると、飛び出していった。



×××



 かなり体が弱っている、とクリュセの母親はすぐに入院することになった。
 ローワー担当の医者は、腕がいいとはおせじにも言えない。そのことも含めて心配のタネはつきなかったが、母についていることはできない。こまめに経過報告をしてくれるように担当医に頼んだら、こころよく引き受けてくれた。腕は悪くても、気のいい人物が多いことも事実だ。
 1週間ほどして、検査結果が出た、と連絡があった。クリュセはとるものもとりあえず、病院にすっとんでいった。
 医師の表情に、クリュセは不吉なものを感じた。儀礼的な挨拶もいやに長すぎた。
 クリュセは医師の言葉をさえぎり、要点をさっさと言うようせっついた。医師はしぶしぶ結論を言た。
「−−−−白血病?」
「ええ。慢性のものが、この1ヵ月くらいで急性転化したようです」
「慢性?いつから?定期健康診断で見つけられなかったのか?」
医師はまた視線をそらせた。がまんしきれずクリュセがどなろうとした寸前に、彼はようやく答えた。
「ご存じでしょう?ローワーの健康管理の実態は。遺伝病の排除や伝染病の予防はローワー区でもきちんと行われていますが、それ以外は−−−−」
「おざなりの検査。そうだろうさ。病気を治療するより、新しい労働力を育てたほうが安上がりだ。ローワーはネズミみたいに子供をつくるからな」
「そんな、そこまで申し上げたつもりはありませんよ、キリエ!」
「いい。あんたのせいじゃない」クリュセは手を握りしめた。「−−−−そんなことより、治療すれば、助かるのか?」
クリュセは訊いた。そして、医師が答えようとするのをさえぎって続けた。
「ローワーだからうんぬん、というのは抜きでだ!純粋に医療技術の問題だけで話をしてくれ。薬が手に入らないのか?器具が足りないのか?そんなことなら、オレがなんとかする。骨髄なら、オレから取ればいい」
医師は小さなため息をついた。
「そうおっしゃるだろうと思いましたよ。あらかじめ、調べておきました。残念ながら、型が一致していません。もし一致したとしても、あなたから取ることは事実上不可能です。骨髄液を取るのは、注射針を一本刺して終わり、なんて簡単なものではないですからね。ローワーの病気を治すためにエリートの方を危険にさらした、なんてことがばれたら、私の首がとびますよ。正直に言わせていただければ」
「だけど、他に、誰か。同じローワーから取る分には」
「キリエ・クリュセ、骨髄移植は手間のかかる治療です。せめてノーマルでないと、治療に必要な環境が整えられません。いくらあなたが、ローワーという条件は抜きで、とおっしゃっても、それが実態なんです。−−−−わかってください、キリエ、私だっておもしろくないんですよ、こんなことは」
 クリュセは目をふせた。もうこれ以上聞きたくなかった。何を聞いたにしても、希望をたたきのめす役にしかたってくれない。そんなことは医者の答を待つまでもなくわかりきっていたことだった。ただ、認めたくなかっただけだ。
「・・・・・・・・・あと、どのくらいもつ」
「はっきりとは・・・・・・・・・長くて、半年か、と」
「治療しなければ、か」
「完全治癒のための治療ができないならば、無駄な処置はしないほうが」
「わかった。あんたにまかせる」クリュセは手の震えを必死になって止めようとした。「・・・・・・・・・だけど、楽に過ごせるようには、してやってくれ。そのくらいはできるだろう」
「ええ。そのくらいでしたら」医師は目に見えてほっとして言った。「ローワーと言えど、エリートを産んだ人だ。できるかぎりのお世話はさせていただきます」
 いつ医師と別れたのか、クリュセには覚えがなかった。気がついたら、母のそばに立っていた。
 彼女は気持ちよさそうにベッドに横になって、テレビを見ていた。病室が小さいために小型の平面テレビしか置けなかったが、それを目当てに、いつ見舞いに来ても必ず軽症の患者が何人か一緒にいた。ローワーにとってテレビは一番の娯楽だった。他の患者たちとわいわい言って楽しそうにしている彼女は、入院した頃にくらべて顔色もずっとよくなり、元気そうだった。だからこそよけいにクリュセは、医師がウソをついていると思いたかった。
「たまにはこういうのもいいねえ。のんびりとしてさ」
母親は無邪気にそう言った。
「そうだね」クリュセは笑顔を浮かべて答えた。「たいくつじゃない?何か欲しいものはある?」
「これだけでいいよ」彼女はテレビを指した。「わざわざひろばまで見に行かなくてもいいしさ。好きなのも見れるし。だけどねえ」
「だけど、何?」
「おまえね・・・・・・・・。ほんとうに、いいのかい?あたしなんかにかまってて。えらい人に、なんか言われてるんじゃないの?」
「そんなつまんないこと、考えてたの?」クリュセは思わず母を抱きしめた。「オレは大丈夫だから。約束しただろう?マムが入院している間は毎日来るって」
「おまえがいいんなら、いいんだけど、さ」
「いいんだよ。だからマムは、早く、元気になることだけ、考えて」
クリュセは母の頬にキスした。
 病室を出る時、他の患者が彼のことをほめたり、そんな息子を持った彼女をうらやましがる声がクリュセの耳に漏れ聞こえた。
 オレはそんな立派な人間じゃない−−−−!
 彼はいたたまれず、走りだした。そして展望室へのエレベーターに飛び乗った。
 展望室は今日も誰もいなかった。クリュセはいつものベンチに、腰が抜けたように座りこんだ。
 母が、死ぬ。
 やっとの思いで取り戻した、唯一の家族が。
 その事実を彼は受け止めかねていた。
 イルクーツクを発つ前に会った時の母は健康そのものだった。少なくとも、そう見えた。それが、半年もふらふらして帰ってきてみれば、このざまだ。
 約束どおり1ヵ月で帰っていれば。母の体調の変化にもっと早くに気づいていれば。もっと時間があったなら。もしかしたら−−−−!
 エリートなら、かかるはずのない病気。治るはずの病気。
 ローワーだからと言う理由で、社会はマムを守ってくれない。だからこそ、オレが守らなければならない。そんなことはわかっていたはずだったのに。身にしみてわかっていたはずだったのに。
 オレのせいだ−−−−!



×××



『−−−−このように、インドでは他の地域ではみられなかった、あるいは極端な方向に進んだ風習が数多くありました。そこには人間らしい他を思いやる姿も、動物の一種としての自然な姿も存在しませんでした。 19世紀、イギリスを初めとする植民活動が本格化すると、それらの習慣が少しずつ法律で禁止されるようになりました。その中で最後まで残ったのが、厳格で細かい身分制度、カースト制度です。
 2059年、アジア連邦成立とともにインドという国家は消滅しました。その頃にはこの伝統に疑問を持つ世代が上位階級の中にも育ち、身分差別はジャーティ、セクトなどの細かいくぎりから少しずつですが、事実上も消えていきました。しかし、伝統的身分制度を全ての人々が捨てたわけではありませんでした。
 23世紀、人口が激減を始め、異身分間の結婚を拒否していたのでは子孫を残すことがほとんど不可能になっても、身分の壁を乗り越えられない、乗り越えようとしない人々がいました。彼らは最後まで異ヴァルナ間の交流、結婚を拒否し続け、空白期とその後の混乱期を待つまでもなく、思想ばかりかその血をも自ら滅ぼしてしまったのです−−−−−−−−
 −−−−−−−−このような身分制度は、現在も形を変えて生きています。それが現在の我々の教育制度の悪しき一面です。今では、インドのように生まれで差別を受けることは、少なくともたてまえでは、ありません。しかし、生まれて10年後にはエリートからローワーまでいくつもの階級に分けられ、それが新たな差別を生んでいます。
 人間の能力には差があり、才能には違いがあります。それを活かすため個々に応じた教育の必要は、確かにあります。個性を認め、個々の能力の限界を認識する、それは人間が全くの同一物でないかぎり、重要なことです。しかし、「区別」が「差別」にとって代わられていいのでしょうか?
 エリートの仕事も、ローワーの仕事も、それぞれがこの狭い世界で生きていくために必要なものです。エリートが生きるためには、ローワーの行う単純な労働が必要です。ローワーが安心して暮らしていくためには、エリートが社会を統率し、発展させなければならないのです。
 しかし、互いの必要性を認めず、尊重し合うことのない今の社会は、古代インド社会と比べて、どれほどの違いがあるのでしょう。悪しき伝統を守って滅んでいった人々と同じ道をわたしたちは歩んでいないと、誰に言えるのでしょうか? 』


「これを、見たか?」
エドムは1冊の雑誌を机にほおり投げた。
「見たわ」
アリシアは表紙を見るのも嫌、と顔をしかめた。
「ならば、話は早い。僕が訪ねてきた理由は見当がつくだろう」
「クリュセのことでしょう」彼女は横を向いた。「あなたもしつこいわね。学生時代から言っていることが変わらない」
「そっちもだ」エドムは吐き出すように言った。「しかしそれを口先だけのことにとどめていたのは、君の言うことが正しいことは客観的に理解できるからだ。いや、できた、と言うべきかな、今となっては。奴の文を読んで、どう思う?もはや、エリートとして遇するのは危険ですらある。そうは思わないか」
「エドム、あなたはまだ知らないわね。−−−−クリュセは、このままいけば半年以内にキリオスに昇格する」
「いや、聞いてるよ。キリエになって10年近くともなれば、そろそろ順当な時期だろう。しかし、年数だけでそんな話が出るのは解せないな。かろうじて学位を保持していけるだけの仕事しかしていないんじゃないのか?」
「それは、量だけの話。論文の質は最高、教育者としても全く手抜きをしていない。彼が指導した学生のなかから、理学系のキリエがすでに3人も出ているのよ。−−−−教育庁長官が言い渡したキリオス学位論文の提出期限は来週の初め。なのに、クリュセはひんぱんに行方をくらまして、ほとんど連絡がとれない状態。もちろん、論文を書いている気配は全くない。あせっているのはむしろ、教育庁の方。過去2年間に発表済の論文を対象としてでも、学位認定委員会は彼を早急に昇格させる予定。昇格させなければならない理由ができたから。新都市制御コンピューターシステム開発の話は、知ってるわね。5年後の実用化を目指して年内にプロジェクトが発足するんだけど」
「それに、奴を参加させるって?」
「そのとおり。このコンセプトを提唱したのはパテラス・アンダリウム。コンピューター工学の権威の。だけど、そのアイディアの元になったのが−−−−」
「奴が発見した数学理論だ、なんて言うんじゃないだろうな!」
「事実なんだから、仕方ないでしょう!」
アリシアは自分の声に驚き、口を押さえた。
「−−−−彼にはプロジェクト参加の要請がいずれ正式に伝えられるわ。これは現在のシステムを大幅に進歩させることになる大事なプロジェクト。その中枢となるスタッフがたかがキリエ程度の身分では、体裁が悪いんでしょうね。第一、それほどの発見をした者をいつまでもキリエにとどめてはおけない、そう意見が一致しているのよ」
「そんな−−−−」
「教育庁長官秘書なんてことをやっていれば、そういう話は嫌でも耳に入ってくるわ」彼女はとってつけたように言った。「できれば裏から手を回したようなことはせずにキリオスに昇格させたかったから論文を書くように長官直々に命じたんだけど、それが妙な結果を呼んでしまったようね。それ以来だわ。クリュセが現体制を真っ向から批判する文をなりふりかまわず立て続けに発表するようになったのは。今までもそれっぽいものは書いていたんだけど」
「それでも政府の方針は変わらないのか?」
「今のところは」
 エドムはいらいらと室内を歩き回った。爪をかみ、舌打ちする。
「シティの立場はわかったよ。で、君はどうなんだ?」
「私?」
「そう。君の考えだ。賛成か?反対か?」
「つまらない質問ね。私は、現体制を維持する立場にある者。この仕事にクリュセの力は不可欠なのよ。拒絶する理由など」
「アリシア−−−−。もう少し素直になったらどうなんだ?」
「どういうこと?」
「奴の思想がいずれ体制そのものを危うくすることになる。放任、あるいは極端な優遇を続ければ、利用しているつもりが利用されるようになる。そのことをシティのトップもいずれ理解するだろう、と思っていた。だが、この様子ではそういうことがあるとしても、ずいぶん先のことのようだ」
「エドム、あなた、自分が何を言っているのか、わかっているの?」
「わかっているよ。僕が言っているのは、君が考えていることだ」
アリシアは青くなって立ち上がった。
「もう帰ってちょうだい。これ以上あなたの話を聞いたりしたら、私はそれを上司に報告しなければならなくなる」
「君は、そんなことはしないよ、アリシア」
エドムは彼女の手をつかみ、椅子に引き戻した。
「僕だって少しは年をとった。今でも短絡的な部分の持ち合わせはあるが、これは考えに考え抜いた末の結論だ。君をいたずらに困惑させることはしない。具体的な計画はすでにある。協力者もいる。そのうちの何人かは、君も知っている人間だ。同じことを考えている者は、結構いるんだよ」
「だったら勝手に何でもやればよかったでしょう?!どうして私に話したりしたの。知らなければそれで済んだのよ!」
「君をつまはじきにはできない。それは当初からの考えだ。間違っていないと思うが?」
エドムはアリシアの手を離した。
「まあ、すぐに返事のできることとは思わないからね。しばらくは考えてくれてもいい。だけど、そうのんびりとは待っていられないよ。キリオスともなれば、今より手を出しにくくなるのは目にみえている」
「待って−−−−。具体的な計画って、いったい何をするつもり?」
「反体制派の本性を現してきたことを利用する。奴の出入りしている出版部には手を回してある」
エドムは滔々と計画をアリシアに語って聞かせた。彼女は黙って彼の話を最大漏らさずに聞いていた。
 話が終わると、彼女は言った。
「ずいぶん回りくどいことを考えているようね。そんな方法ではよほど完璧な証拠を用意して周到に進めていかないかぎり、成功はしない。シティは今まで彼の言動に目をつぶってきたのよ。生半可なことなら、やはり目をつぶられてしまう。たとえそうでなくとも、期待しているほどの効果は無理だわ」
「他にいい方法でも?」
「単純が一番よ」アリシアはつぶやくように言った。「クリュセは今も時々ローワーの居住区に出入りしている。汚いなりに身をやつしてね−−−−」
 呆然としたアリシアの口調は、いつしか熱のこもったものに変わっていった。
 エドムは満足げに、笑みを浮かべながら聞いていた。




Home NovelTop Next