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REBIRTH・1章







 ・・・・・・・・・・・・むかしむかしひとびとは、土の上にすんでいたんだよ・・・・・・・・・・・・・・。



 人間は愚かな生き物だ。
 地上を我が物顔で闊歩する時代は終わった。
 しかも、自然という神の手によってではなく、自らの手で幕を下ろしたのだ。ちっぽけな土くれの体に宿るあさはかな知恵。いや、こんなものが知恵と呼べるのだろうか?
 そしてあさはかさにふさわしいだけの空間を与えられた。氷山のように、大半が地下に埋もれた都市。イルクーツクの人口は200万。現存する五都市を合わせて1300万。人間の場所は、地球の5つのふきでものの中だけなのだ。地図は一万年も前に作られたものしかない。都市同士を結ぶ航空路だけが、古い地図に書き加えられている。現在の地形がどうなっているか、誰も知らない。
 まあ、いい。地上がどうなっていようと。知る必要はとりあえずないし、第一、人間の好奇心は外には向けられないのだから・・・・・・・・・・・・・・。
 クリュセはしめっぽい展望室でひとりベンチに寝ころがり、ぼんやりとしていた。高い天井と壁はガラス張りになっている。そこからは、柔らかい日の光がそそいでいる。外には、かつて春と呼ばれた季節がめぐってきていた。
 半地下の広い空間には緑がふんだんに生えていた。下の広場でも上のバルコニーでも、草花は花壇からはみで、あふれかえる。蔓植物はわれもわれもと葉をしげらせる。そのすきまをこけが埋める。聞こえるものは、かすかな葉ずれと、クリュセが神経質に爪をはじく音だけだった。
 イルクーツク市で地上に出ているのは、空港とここだけだ。
 市民の憩いの場として作られた展望室では、一度に100人ほどが日光と花の香り、そして談笑を楽しむことができるはずだった。実際、ここは24時間市民に開放されている。ただ、利用する者がいないだけだった。
 手間のかかる花は枯れ、生命力の強いものだけが残った。いくつもあったベンチの大半は地下の広場に持ち去られた。飲み物の自動販売機はとっくに止められていた。残っているのはさびかけたわずかな設備と、はびこる草木と、クリュセだけだった。
 生まれた場所、そこが地下だった人々は地上に興味を示さない。太陽も、山も雲も月も、時折姿を見せる鳥も、何の感動も引き起こさなかった。
 誰もが存在を無視する場所。それが、クリュセが展望室を気に入っている理由だった。計画倒れの空間では、活動の意味すべてが消滅する。生きた時間が少し長くなり、生きられる時間が少し短くなる。ただそれだけ。
 そして、法的に成人となる時が近づいてくる。クリュセはもうすぐ16才になろうとしていた。伸びざかりの健康な肉体、知的好奇心、それを十二分に活かす能力。恵まれた資質のすべてを彼はもてあましていた。
 爪をはじく音に、甲高いコール音が混じった。クリュセは耳にかけてあるセルキュラー−−−−通称セルと呼ばれている通信機−−−−のマイクを伸ばし、めんどくさそうにスイッチを入れた。
「はい」
『クリュセか。どこにいる。展望室か?』
「そのとおりですよ。よくおわかりですね」
『すぐ私の部屋に来い。話がある』
返事を待たず、発信者は通信を切った。
 クリュセはマイクを元に戻し、また爪をはじき始めた。スプリンクラーが水をまいていた。水音は通り雨のように右から左へとすり抜けていき、やがてぴたりとやんだ。
 彼はあきらめて、えいと起き上がった。
 クリュセはエリート専用エレベーターに乗り込んだ。階数を指定すると、ボックスはゆっくりと地下深くへすべりだした。
 地下500メートルに及ぶ都市は、層ごとに異なる役割を持つ。もっとも地上に近いのは、空港業務層。五都市を直接結ぶ役目を果たす、ほとんど唯一、地上に密接した場所だ。それに続くのは工業区、農業区などの生産層。そして少しずつ市民生活層にきりかわっていく。それも細かく分けられ、身分の低い者から順に、地上に近い区域が振りあてられていた。それは、現代人の地上を拒絶する感情の表れだった。
 やがてふんわりとボックスは停止した。パネルが点滅し、乗員の照合をうながす。クリュセはパネルにてのひらを当てた。権利を持つ者であることを再確認し、ドアは開いた。
 クリュセが降りたのは、最深部に近い区域だった。そこは管理層の一部、特別教育区。
 限られた空間での生活では、資源は貴重であった。人的資源も同様である。
 子供は2才から10才まで、早期教育が重要な一部の分野での才を見せた者を除いて、出自に関係なく基本的に同じ条件で教育を受ける。その間に適性、能力度を細部にわたって審査される。
 そして10才になると、能力によって振り分けられる。大多数は16才まで、その中の優秀な者はさらに数年の教育を受ける。その後、健全な中流市民となる。
 能力が著しく劣り、高等教育の価値が認められなかった一部の者は、単純作業に従事すべく職業訓練に入る。
 そして上位数パーセントの特に優秀な子供たちには、政治、経済、学問、すべての分野で後々リーダーとなるべく徹底した教育が与えられる。それが特別教育区だ。
 クリュセがここに連れてこられたのは規定より3年遅れの、13才の時だった。10才の時には、彼は職業訓練コースに振り分けられていた。ローワーからエリートへ。最下層から最上層への前代未聞のコース変更だった。
 クリュセは学術・理数科の職員専用棟に向かった。そこの5階に彼の担当教官であり、親権者でもある人物の部屋がある。
 ドアの前に立ち、一度だけ舌打ちすると、クリュセはインターフォンに向かって言った。
「キリエ・アルギューレ、クリュセです」
アルギューレは数学研究部主任、成績科補佐、ほかにもナンバー2かナンバー3くらいの肩書をいくつか持っている初老の男だ。
「今日は初歩経済学の集合講義が組まれている日じゃなかったのか」
「興味がなかったもので」
クリュセはつっけんどんに答えた。
「興味がある、ないの問題じゃないと何度も言っただろう。全般的な知識を習得するのが未成年のおまえの義務だ、と」
「大丈夫です。テストはパスします」
「クリュセ・・・・・・・・・。私たちはおまえの才能を活かすために必要のないことをやれとは言わん。定められたプログラムをその通りにこなすこと自体も重要なカリキュラムなんだ。それがわからないおまえじゃないだろう?」
「わかりません。そんなことが重要なんですか?オレよりずーっと進度の遅れている低能どもと机を並べるなんてマネをして、足をひっぱられるのはまっぴらです」
「クリュセ!」
クリュセは不意にきびすを返した。そしてスタスタとドアに向かう。
「クリュセ、話は済んでおらんぞ!」
「続きはいつもと同じお小言でしょうが。それこそ無駄ですよ、キリエ。罰はおとなしく受けますよ。いつも通りレポートを一本でっち上げれば文句はないでしょう」
 出ていく前に、クリュセは親権者を一瞥した。アルギューレはうまく出てこない叱責の言葉をのどにつまらせ、爆発しかかっていた。
 クリュセはくつくつと、おさえた笑い声をたてた。



×××



 コミュニケーション・エリアに、期待と不安が混じったものがたちこめていた。3ヵ月に1度の、新入生ガイダンスの日だ。初等教育を終え、今日から特別教育区の学生となる子供たちに、先輩の生活指導委員が施設の説明を行っていた。
 コミュニケーション・エリアを見下ろすカフェテリアは、いつもより学生の数が多かった。ガイダンスの日はいつもそうだ。自分がエリートに選ばれた日のことをなつかしむために。エリートの自覚を強めるために。あるいは心理学学習の一環として。目的は何であれ、後輩の姿は学生たちの興味のまとだった。
 やがて社会をリードすることになる10才の子供たち。どの顔も、選ばれたことに自信と誇りを持つように教えられ、そうあろうと努めている。だが、ほとんどの子供が親に甘えられなくなる淋しさを先に自覚してしまう。しかしそれも、厳しい教育のなかで自己管理の方法を覚え、ハードなカリキュラムをこなすうちに忘れていく。そしてかつての自分を後輩のなかに見つける、こんな時にだけ、甘い感情をふと思い出すのだ。
 カフェテリアにはクリュセもいた。彼は焦点のあわない目を新入生たちに向けていた。
 彼らの中のひとりだけでも気がつくだろうか?自分たちは現状を再生産するために、社会に何一つ変化が生まれないようにするために選ばれたのだと。
「今回の新入生は32名」
その声に、クリュセの目に冷たい光が一瞬にして戻った。
「かなり少ないが、つぶぞろいだそうだぞ、クリュセ」彼の前に同級のエドムが座った。「ガイダンスの日には、必ず来てるな。なんでだ?自分が味わうことのできなかった新入生の気分を疑似体験するためにか?」
コミュニケーション・エリアの子供たちが動き始めた。次は場所を変えて、共通カリキュラムの説明があるはずだった。
「僕たちより3年も遅れたってのに、教養コースは一緒に終われるそうだな、クリュセ。よかったな、一応心配はしてやってたんだ。落第は即ノーマルクラスへのランク落ちだからな。そうそうクラス変更をされるのはかなわんだろう。機械いじりを3年もさせられたうえに、エリートの学習を半分の期間で押しつけられ、それを必死にこなしたってのに結局はノーマルどまりではな」
 ふとエドムはテーブルの上の用紙に目を止めた。
「これはなんだ?出さなきゃならないレポートがまだ残っていたのか?」
彼はレポート用紙をつまみ上げた。それには数式がびっしりと、くずれて読みづらい字で書かれていた。
「さわるな」クリュセは用紙をもぎとった。そして紙をそろえながら、彼はつぶやいた。「エリート・コース、か。あれっぽっちのカリキュラムをこなすのに6年もかかる奴がエリートとはね」
「何が、言いたいんだ?」
エドムの頬にさっと赤みがさした。
「自分で考えな。オツムはいいんだろう?」
クリュセは用紙をまとめ、立ち上がった。その耳に、誰かがつぶやく声が届いた。
「・・・・・・・・ローワー出の犯罪者の息子がいい気になりやがって・・・・・・・・」
クリュセはきっとなって振り返った。
「誰だ?!言いたいことがあるのなら、はっきり言え!」
その場のほとんどの者が彼の様子を堂々と、あるいはこっそりとうかがっていた。クリュセと視線が合った者は目をそらし、くすくす笑いだした。
「誰が、何を言ったんだって?クリュセ」
エドムはひょいと肩をすくめた。皆が一斉に笑いだした。彼も笑っていたが、目は冷やかにクリュセを見すえていた。
 クリュセはつかつかとエドムに近寄ると、いきなり彼の頬を殴り飛ばした。彼は椅子やテーブルをまきぞえにして、派手に倒れた。
「ちくしょう、下手に出てやれば・・・・・・・・・・!」
 傍観者だった2、3人がクリュセに殴りかかった。彼は反対に彼らを床にころがした。それが合図だったかのように、さらに数人が彼にとびかかった。彼は床に叩きつけられ、抵抗する間もなく押さえつけられて、身動きひとつできなくなった。誰かの手がクリュセの耳に伸び、セルをもぎ取った。その小さな機械が踏みつぶされる音が響くと、回りからどっと笑いがおこった。笑いはたちまち罵声に変わった。クリュセはさんざんに殴られ、けとばされた。口の中に血の味が広がった。
「あなたたち、いいかげんにしたら?!」
誰もがただ見ている中で、ひとりだけ止めに入る者がいた。エリート学生全体の総合委員を務めるアリシアだった。
「止めるな、アリシア!一度こいつに、自分の立場ってものを教えてやらんとな!」
エドムはすっかり興奮していた。
「こんなやり方が有効とは思わないわ。もっとマシな方法で処理できないで、それでもエリートのつもり?」
「しかし・・・・・・・・・・」
「いいわ、勝手にすれば。だけど、専門課程に進もうって時期になって、こんなくだらないことでマイナス点をつけることもないと思うけど?−−−−それとも、もう遅いかも。セルをわざとこわすなんて。叱責はまぬがれないわね」
 エドムはものたりなそうに口の中で何かもぐもぐ言っていたが、突然きびすを返し、カフェテリアから出ていった。彼と一緒にクリュセを袋叩きにしていた者や、はやしたてていただけの何人かも彼を追うようにその場を後にした。
 アリシアはころがったままのクリュセの頬をはたいた。
「クリュセ、起きてる?」
「・・・・・・・・・・うるさいな。ベッド以外のところで寝ているはずがないだろう」
彼は額を押さえていた手を離した。かなりの血で赤くなっていた。彼は気に入らなそうにその手を握りしめた。
「ずいぶんひどくやられたものね。医療官を呼んだほうがよさそうだわ」
「やかましい」
クリュセは起き上がった。平気なふりをしようとして、余計に頬がひきつった。
「でも、医務室には行かないと。ついていきましょうか?」
「ローワーはこの程度のケガでいちいち医者なんぞに見せてる金はないんだ」
「クリュセ、あなたも態度を改めなさいよ。差別してくれ、と言わんばかりの行動はやめて」
「あいつらは自分の感情に正直だ。そしてオレもだ。おまえも無理はやめたらどうだ?成績がらみの同情より、その方がよっぽどかありがたいね」
 クリュセは散らばったレポート用紙を集め始めた。アリシアは手伝おうとしたが、彼はその手をはらいのけた。彼は枚数を数えながら拾っていたが、2、3枚にちぎられたものもあって途中でわからなくなり、結局数えるのをあきらめた。
「クリュセ、あなたの考えはそれとして受け取っておくわ。でも、あなたはこの世界で生きていくしかないのよ。そうでしょう?」
クリュセは答えなかった。



×××



 アリシアの机に、配付されたばかりの書類が置かれていた。成績自己分析及び進路希望調査書。エリートの教養課程においての、最後の提出物だった。
 全課程終了の後、1ヵ月間に限って学生は自分の成績表と適性検査結果を閲覧することができる。それを客観的に分析して、自分の進むべき道を判断するのだ。
 適性のない分野には、どんなに希望しても決して進むことはできない。それが現代教育の大原則だった。進路の自己判定は、判断力養成と義務の認識が主な目的と言えた。
 しかし、実質的な意味が全くない訳でもなかった。2つ以上の分野で同等な能力が示されていれば、本人の興味のより強い方面に進むことができた。あるいは、才能と希望が完全に相反し、それがのちのち実務に多大な支障を与えるほどと判断されれば、ノーマルに格下げされて、希望の方向に進むこともあった。もっとも、そんな例はほとんどなかったが。
 アリシアの希望する分野は、とっくに決まっていた。
 政治学。
 それは、彼女が生まれる前から決まっていたといってもよかった。都市の最高権力者たる市長、悪くしても省庁の長官クラスとなるべく、彼女は生まれたのだから。
 アリシアはチューブベビーだった。
 優秀な精子と卵子を選抜し、エリートクラスを再構成する子供を造りだす。それには膨大な金と手間がかかり、数は決して多くはなかった。その上、半数以上が「失敗作」として脱落していく。研究が始められて300年あまり、未だ実験の域を出ない存在だった。
 そんな中でアリシアは、数少ない完全な成功例だった。幼い頃から彼女は計算通り、あるいはそれ以上の才を見せた。学業も生活も他の模範であった。下級、同級の学生はもちろん、時には上級にさえ一目おかれていた。いつの頃からか、彼女はそれを自覚し、さらに磨きをかけるように心がけてきた。努力が無駄にならないだけの力がある。それが彼女の誇りだった。
 だが、それを傷つける者がただひとりいた。クリュセだ。
 社会の秩序。それはエリート社会では特に、完全に保持されていなければならないものだ。エリート候補生社会の秩序維持に、自分の力が不可欠だったとアリシアは自負していた。
 しかし、クリュセが編入してからの3年間はどうだっただろう?客観的に判断して、クリュセにばかり非があるとは責められなかった。だが同時に、すべてのトラブルが彼から発生したとも言えた。血の気の多い者がクリュセを刺激し、彼が火種を何倍にも大きくする。その繰り返し。トラブルをもみ消し、双方にエリートの自覚と行動を求めてきた。だが、それがどれほどうまくいったか、彼女にはこればかりは自信が持てなかった。なにしろ、自分自身の気持ちにすら責任が持てないのだから。
 アリシアはそっと耳に触れた。そこにはいつも、小さな通信機がある。セルキュラー。エリートであることの証。
  −−−−クリュセのセルが踏みつぶされるのを見た時、私は心のどこかで拍手をしていた−−−−。
 そんな感情が自分の中にもあることを、アリシアはとうとう否定しきれずに認めた。
 最下層民の子、犯罪者の子。そんな生まれの人間が自分と同じ身分になることを、彼女も受け入れられないのだ。そのように生まれついたのはクリュセのせいじゃないとわかっていても。シティが彼をエリートになるべき人間と認めたのだとわかっていても。
 時折、彼女は思う。クリュセさえいなかったら、と。
 しかし、これからは彼とは別の道を進むことになる。そして、望まなければかかわりを持つことはもうないだろう。
 彼女はもう思い悩むのをやめた。害をなすだけの、必要のない感情だと割り切って。



×××



 627B生は引っ越しの準備に追われていた。6年間の教養課程を終え、専門課程へ。分野別の新しい居住区への移動がもうすぐ始まろうとしていた。
 そんな喧騒に、クリュセは無関心だった。彼もすでに全教科の単位を取っており、同年の学生たちと一緒に専門課程に進むことになっていると教官に聞かされていた。しかし、同期生たちの進路と住居がすべて決まっても、彼にだけは何の通達もなかった。そんなことは彼にはどうでもよかった。我慢できないのは、まだ身のふり方の定まらない彼を見る同期生の、憐れみともさげすみともつかない目だった。
 それから逃げるかのように、クリュセは自室から一歩も出ずに歴史研究に熱中していた。図書館から借りられる歴史関係のディスクや書籍全部を、彼は暗記するほど何度も読み返していた。資料を検証・分析し、独自の観点でまとめ直す。それは彼の唯一の趣味だった。
 歴史学は価値の低いものとして軽視されていた。教養として教えられるだけのものだった。人類が地上で生活していた時とは違い発掘などの調査は不可能で、新しい発見は期待できなかった。資料は図書館に収められているものがすべてだった。歴史的事実の評価は確定し、異論を唱える者はいなかった。いたとしても、異端の考えとして葬られてしまうだろう。歴史学は完結した学問として凍結されていた。
 そして過去を振り返ること自体が、無駄なこととされていた。大事なのは、未来だけだった。
 だが、シティの閉じられた空間に、いったいどれだけの未来があるというのか?
 実際、近代文明に発展らしき発展はなかった。新たな発見、発明はある。しかし社会環境は、覚醒後の混乱のおさまった400年前からつゆほども変わっていない。人口すら300年間、抑制策をとっている訳でもないのに50万人以上の変動はなく、安定したものだった。
 シティにあるのは、永遠に続く「現在」だけ。
 クリュセがエリート教育の中で学んだのは、その事実ひとつだけだった。
 クリュセは、たかが知れている未来などに興味はなかった。二度と帰ってこない、現代の人間には触れることのできない混沌とした世界こそが、彼の想いのすべてだった。
 歴史へのあこがれは、父の膝の上ではぐくまれたものだった。過去の世界を垣間見る時、それは幼くして引き離された父親のことを思い出す時でもあった。
 不意にセルが鳴りだした。クリュセは現実に引き戻された。教官の呼び出しだった。彼はしかたなく部屋を出た。
 何人かが廊下で立ち話をしていた。彼らはクリュセに気がつくと、声をひそめた。そしてうわっすべりな言葉を彼にかけた。
 −−−−進路は決まったのか?荷造りを手伝おうか?ひょっとして、来月からもまだ教養課程のままじゃないのか?そんなこと気にするなよ、実務につけば3年の差くらい−−−−クリュセはそれを無視した。
 角を曲がり、彼らの姿が見えなくなると、クリュセは廊下につばを吐き捨てた。
 担当教官兼親権者のアルギューレの部屋では、5人もの管理者然とした中年から初老の男女がクリュセを待っていた。アルギューレの机には、いかにも一番偉そうな男が主を追い出して、5人の中でただひとり座っていた。その仰々しさに、彼はあからさまに眉をひそめた。
「学生番号627B42、クリュセだね」
机に座っている男が言った。
「そっちがセルのコールナンバーを間違えていなければね」
「クリュセ、言葉をつつしみなさい」アルギューレが変に穏やかな口調でたしなめた。「今日呼んだのはだな」
「またお小言ですか。今度は何ですか。もう授業はないんだから、またさぼったなとは言わせませんよ。となると、さて、どの悪さがばれたんですか?」
「クリュセ!」
アルギューレの穏やかさは簡単にはがれ落ちた。机に座る男が、彼を制した。
「私は教育庁エリート学術部部長、パテラス・エリシウムだ」
「誰かと思えば、役所のお偉方ですか」
「君は物の言い方をよく知らないようだね」
「すいませんね、13まであんたたちの言うところの『教育は無駄』な連中の中で育ったんで。で、オレに何の用です」
「あなたの進路について、部長から直々にお話があります」
初老の女が、上司にファイルを渡しながらクリュセに言った。
「ほう」クリュセは腕を組んだ。「目上の人間への接し方を知らんから、もう少し教養課程にいろって?それとも、矯正の余地なし、ローワーに戻れ、とでも?」
「君自身はどうしたい?進路希望を提出していないが」
「さあ。提出すればオレの希望通りにしてもらえるんですか」
「君の場合、他の学生よりさらに難しいね。君は特殊な例だ」
「そうでしょう。−−−−オレにしては喋りすぎました。判決を、どうぞ」
 エリシウムはクリュセの目を見つめた。そして改まった口調で言った。
「クリュセ、来月1日付で君はキリエの学位及びその権利と義務とが与えられる」
 クリュセは唖然とした。
 そして腹をかかえて笑いだした。
「学位認定委員会はいつからそんな冗談が好きになったんです?オレはエリートに入ってまだ3年ですよ。しかも、まともに授業に出ようともしない。そいつはそこにいるオレの親代わりとやらがよく知ってます」
「それは私たちも同じだ」エリシウムはファイルをひらひらさせた。「ある意味では、私たちは君自身より君のことをよく知っているよ。他の学生に対するより何倍も、君には注目してきたからね。なにしろ、君には『前例がない』という枕詞がいくつつくかわからない」
クリュセはいらいらと爪をはじき始めた。
「素行には何かと問題があるが、それは今後の課題として、とりあえずよしとしておこう。で、学業成績のことだが。君は規定の半分の期間で全教科の単位を取り、しかもすべてで上位5パーセントに入る成績を修めた。それに、この一年間に数学の論文を5つまとめているね」
「・・・・・・・・・・それが、なにか」
「集合講義をさぼった罰として提出を命じられた論文だが、そんな理由で書かされたものであるにもかかわらず、内容はすばらしく濃いものだった。君は何をするにも手を抜くのが嫌いなようだね」
エリシウムの言葉じりに、皮肉っぽい響きがあるのをクリュセは感じた。反抗のしかたもはんぱじゃない、と言いたいのか。
「最初の2本はキリエ・アルギューレの独自の判断による単なる罰だったが、3本目以降は委員会の指示により、真の意図は君に隠したまま執筆を命じた。そしてキリエの学位認定に最低必要な5本の論文がまとまったところで、それが水準に達しているか、十分時間をかけて検討した。2本目で結論を導いた根拠に致命的なミスが見つかったが、それ以外は論理的であるだけではなく、大変独創性に富んでいる。討議の結果、学位認定委員会は全員一致で君をキリエに推挙、エリート学術部で承認された。そして、さっきも言った通り、来月1日に学位が与えられる」
 エリシウムは立ち上がった。
「16才のキリエが生まれるのは実に32年ぶりだ。我々が委員であるうちに君のような優秀な人材を発掘できたのはまことにうれしい。キリエであることに誇りを持ち、これからも研究に邁進してくれるよう切に望む」
そして彼はクリュセに手を差し出した。
 ローワーの職業訓練コースに進ませられた時と同じ、釈然としない思いがクリュセに残った。
 一体、どんな思惑があるというんだ?オレに何をさせたいんだ?
 ただひとり、アルギューレだけは掛け値なしに喜んでいた。クリュセのエリート昇格時に親権者になることを引き受け、問題児の言動に責任を持つという、誰もがいやがった賭に彼は勝ったのだ。万年中間管理職の彼に、何らかの見返りがあるのは間違いなかった。
 クリュセは面倒くさそうにエリシウムの手を握った。管理者の思惑はどうあれ、キリエに与えられる権利は歓迎すべきものだった。




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