種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種84『食べても良いですか?』

 白壁に包まれた空間はどこか我らの住処にも似ていた。
 建物全体を囲む空気も清廉さと清浄さを持ち、呼吸するごとに清められているような気がしてくる。

 ここは居心地が良い。
 駆け回るにはかなり狭いがな…… ――

 外の冷たい空気も我々には関係ない。
 心地良く肌を撫でていくことに双眸を伏せるくらいのことだ。だがしかし、生死を彷徨ったあとの同胞には辛いだろうと、部屋に転がした。

 前とは完全に立ち位置が逆だ。

 人間の医療行為に大した意味はないと思うが、レニは魔法士と呼ばれる人間を迎え同胞の手当てを丁寧に行わせた。気高い白銀狼としては人間などに治療されるなどとても屈辱的なことだろう。

 それは、残っていた片方の瞳がそう訴えていた。
 寧ろ殺して欲しいというその態度が、良い罰になるだろうと私はそのままにした。

 それに何よりこの者への罰は我が主が認めなかった。


 ***


「―― ……え? 何」
「処分の検討をしている。主の意見も聞きたい」

 主が一人ぽつんっと図書館の屋上庭園に居たのを見つけて相談に行った。他の従者――ではなかったようだが――は王宮へと出ていて、ここには主しかいないということだ。

「処分ってなんの?」

 ふわふわと私の頭を撫でつけながら主が不思議そうな声を漏らす。人間に触れられるなど有り得ないと思っていたが、実際、こうして主の小さな手で丁寧に梳き整えられるととても心地良く、ゆったりと身体を伏せ前足に頭を載せると瞼を落とす。

「主を傷つけた同胞の跡始末だ」

 口にすれば、主の手がぴたりと止まった。

「―― ……主?」

 動きの止まった主がうんともすんともいわなくなってしまったので、訝しげにその姿を見ようと頭を起こしかけたら首にぎゅっと抱きつかれた。

「はー……ハクアふわふわもこもこあったかーぃ」
「主?」

 そのまま顎を預けて、はぁと落ち着いてしまった主に問い直せば、ぽつぽつと口を開く。

「もう、良いじゃん……跡始末とかそんなの。もう、良いよ。ああ、でも、ハクアも被害者だから、ハクアが許せないからというのならあれだけど、でも、出来れば許してあげて。私も、ハクアも痕になっているわけじゃなくて、今こうして生きてるんだし……その人……? 人? まあ、良いや。その人だって反省しているでしょう?」
「さあ、どうだかな。まだ目が覚めていない」
「なら、尚のこと物騒なこと考えないほうが良いよ……それから、傷酷いなら」

 いいかけて、主は口をつぐんだ。恐らく種屋でも寄越すといいたかったんだろうが、白銀狼と種屋との関係の悪さを思い出したのだろう。もぞりと顔を埋めて「なんでもない」と締め括る態度が実に愛らしい。

「本当に良いのか? 主はあれのせいで手痛い思いをしたのではないか?」
「―― ……もう終わったから良いよ。それに粛清なら既にハクアがやっちゃったでしょう。まだ目が覚めないなんて酷い傷」

 もう十分だよ。ありがとう。ともたれかかったまま背を撫でる。主がこの世界のものでないことは良く分かった。この世界のものがこれほど穏やかでいられるはずはない。

 我らも崇める白月よりの使者。
 違うと否定されてもそうとしか思えない。

「それにしても、ハクアってぬくぬくだよねー。なんか最近考えることがいっぱいで……眠くなっちゃう……」

 ふわぁあ、と無防備にも欠伸を零す。

「主」
「―― ……なんで人型になるの?」

 思わず人型を取り、ぎゅっと抱き締めれば非難めいた声を上げられてしまった。しかし今戻るつもりはない。

「こちらのほうが私は主を抱きやすい。それに、あれでは食べ難いだろう?」
「だから私は食用じゃないっていってるでしょ? それに牙を失くしたら食べられないじゃない」

 お腹空いているの? と首を傾げる。
 完全に夢現のようだ。普段なら人に変わればある程度警戒されるのに、今は白銀狼の姿のときと同じように大人しく腕に納まってくれている。
 それに本当に疲労困憊しているようだ。

「主の憂いはなんだ? 私では取り除けぬものか?」

 ふと、抱き上げて傍にあった長椅子に腰掛け、主をその膝に抱く。こめかみ辺りに、鼻を摺り寄せればくすぐったそうに身体を縮めて「ないない、なんでもないよ」と笑うが、何もなくて主がこんな顔をしていることは少ないのではないかと思う。

 まだ付き合いは短いが、主の人となりくらいはなんとなく分かる。
 この小さな身体で主は背負いすぎる。

 その僅かでも代わり、行く末を見届けたいという思いで血の契約を交わした。

「その割には皺が寄っている」

 ぺろりと眉間を舐めれば、ふふっと笑いを零す。
 なるほど、主はこれで笑うのだな。続けて頬を舐め首筋を舐める。

「ちょ、ちょっと、ハクア、やめ、て、」

 外耳を舐めたところで腕を突っ張られた。
 顔を覗き込めば頬を染め、瞳が僅かに潤んでいる。まるで宝石のように艶やかで美しい。

「やはり、一度食べても良いだろうか?」

 きょとんとしている主の顎に手を掛けて、くぃと軽く引き上げ距離を縮める。
 互いの吐息が掛かる距離で、主の何をされるのか分からないという瞳が愛らしい。
 自然と口角が引きあがる。

「え、うわっ!」

 ―― どごっ!

「い い わ け な い よ ね」

 ―― ……とっ!

 折角だったのに、突然放たれた殺気にその場から跳躍する。
 適度な距離を取って振り返ると、小さな騎士がさっきまで座っていた長椅子を真っ二つにしていた。

 物騒な幼子だ。

「ちょーっと! マシロちゃんっ! その駄犬から離れください!」

 怒り露わな騎士を前にして、いきなり飛ばないでと私に一言物申し「降ろして」と続けられて抱えたままになっていた主を素直に降ろせば「もう!」と騎士に眉を寄せる。

「直ぐに抜刀しちゃ駄目でしょ。あーぁ……カナイ一緒に帰ってきた? ベンチ治してもらわないと」
「え、あ、ごめんなさい。って、そうじゃなくて、今正にマシロちゃんはその犬に食べられそうになってましたよっ!」
「やだな。大丈夫だよ。今は人型なんだから牙もないし……一応、主ですからね。ばりばり食べたりしないでしょ」

 えへんっとばかりにいい切られると、こちらも微妙にがっかりする。

「い、いや、マシロちゃん……もっと警戒心持とうよ。いくらマシロちゃんが犬っていっても」
「犬ではない」
「ほら、本人も犬じゃないっていってるし……」
「そんなことないよ。ハクアは犬だよ。だって、ブラックだって猫じゃないっていつもいってるけど、猫じゃん。だからハクアも」

 ―― ……あれは好ましい存在はないが、なぜか同情するような気分になった。

 なんだか、気が逸れて人型を保っているのが面倒臭くなった。ふわりと元の姿に戻ればぽすっと頭に主の手が乗っかって、わしわしと撫でていく。
 そして、向かい合うと僅かに腰を屈めて主は「いーこね、ハクア」といいながら私と視線を合わせた。

「お手」

 たしっ!

「おかわり」

 ぱしっ!

「はい、良く出来ましたー」

 曲げた腰を伸ばし「ほらね」と後ろを振り返る。

「犬です」
「犬でしょう?」

 あ、あぁあぁぁぁあぁ……私は誇り高き白銀狼だというのにっ! 白銀狼だというのにっ! 反射的に手を出してしまったっ! しかも二度もっ!
 ぽすっとその場に伏せて頭を抱える。羞恥心に苛まれているというのに、尾が地面を掃除する勢いでぱすぱす揺れてしまっている。
 これは、だから……。


 ***


「―― ……悪夢を思い出した」

 主は恐ろしい少女だ。白銀狼を従わせてしまうとは……。

「長……?」

 弱々しい声に耳を傾ける。目が覚めたようだ。

「本気でこの地に留まるのか?」
「……ああ。白月が地上に降りたのだ、見届けるのが我らの定めだろう」

 くんっと小さな窓から覗く夜空を見上げる。
 丁度良い具合にここからは白月しか望めない。同じようにつられて重たそうに首を上げた同胞は苦いものでも噛むように月を見上げる。

「美しいときなど、この地で紡げるとは思えない」
「私の美しいときは主の下にある。私の判断に疑心を抱くというのか」

 低い声で続ければそれ以上物申すことはない。再び頭を擡げて静かに瞼を落としてしまった。

「……お前は戻れ。戻って他の同胞に事の成り行きを伝えよ。そして、私がここに滞在することもな」

 すっくと立ち上がり部屋をあとにする。外に出れば憎らしくも青月まで拝めてしまう。
 しかし、これはこの世界での常だ。あれほど性質が違うというのに、白月と青月はともに夜空に上がる。

 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで大きく呼吸をし整える。

 人間に興味はない。
 種屋を嫌悪する気持ちは変わらない。
 しかし、その傍に白月が寄り添うというのならば……。

「まずは」

 犬という汚名を返上せねば。




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