種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種76『八重の記憶』

 種屋の書斎にて、私は惰眠を貪っていた。
 意味もなく。店主の膝の上で、すぴぴと心地良く。

 邪魔になると思うのに私を降ろさなかったブラックが悪いと思うのだけど、書斎の机で書き物をするブラックの腕の震動がより私に安眠を促す。

 お客さんのための商品便覧。らしいけれど、そんなに沢山目を通せる人が居るのかどうか、そして、それを余すところなく自分は覚えているというブラックの記憶力のよさに感服する。
 ようは客人さんに説明するのが面倒臭いから、書いておくらしい。

「―― ……ふわぁ……」

 身を預けていた震動がいつの間にか止まっていて、ふと目が覚めた。
 ちらりと見上げれば、猫もうとうと中らしい。

 すぅぅっとお行儀の良い寝息が聞こえる。
 寝ていても美人さんだ。

 スリーピングビューティーとは彼のこと……いや、それはオカシイ。
 女としてちょっと負けた気分だ。

 暫らくは見るだけで堪能していたものの、それが終われば触ってみたくなるもので……くんっと背伸びをして肌理の細かな肌に触れる。

 ズルイなぁ。

 特に何かしているのなんて見たことないのに、ブラックの肌は綺麗だ。
 それでも目を覚まさないことに気を良くした私は、もう少しだけ大胆にブラックの足の間に膝を落としてブラックより少しだけ背を高くすると、その顔を覗き込む。

 そっと、頬に触れゆっくりと撫でる。すっと通った鼻筋に指を滑らせ、ちょんっと唇を軽く弾く。

 ふふ、可愛い。
 くすぐったかったのか、耳がぴくぴくっと反応した。
 それにしても…… ――

「……睫毛長ーぃ」

 どの部品を取り上げても敵わない気がしてきた。
 いや、勝負なんて考える事態おこがましいってもんだ。

 人の本能的な行動として、見て触って、その次は……

 つぅっと睫毛に触れ、頬を寄せると目尻に口付けた。

「―― ……そのまま、襲っていただいても構いませんよ」
「っ!」

 びくりっ! と声に驚いて身体を起こせば、がっつり腰を掴まえられて抱き寄せられるとくつくつと笑われる。

「襲わない、よ」

 もう。起きてるなら起きてるっていえば良いのに、と不貞腐れれば、タイミングを逃していたんです。と微笑まれ額を胸の間に押し付けられる。
 くすぐったくて笑いが伝染してしまい、そっとブラックの柔らかな髪の間に指を差し入れ抱き締めた。

 とても、幸せで穏やかな時間だ。
 普通なら出かけても良い、日曜日の午後だけど、種屋の性質上私たちは屋敷に居ることの方が多い。
 それが私の望みであるから……なんだけど、ね。

「今日は凄く静かだね」
「ええ、そうですね……静かで、穏やかです。私にはとても不釣合いなほどに……」

 いって、顔を上げれば言葉ほど沈んだ様子もなく、にこりと微笑まれる。その笑顔に笑みを返し、私は促されるまま再びブラックの膝の上に腰を降
ろした。

「シル・メシアって驚くほど年間イベントが少ないよね」

 ふと机上のカレンダーが目に付いて、ほろりと溢す。
 その声に応えるように、私の髪に頬を擦り寄せていたブラックも同じようにカレンダーを見た。そして、そのカレンダーを引き寄せると

「では、勝手に増やしますか?」

 と、冗談なんだか、本気なんだか分からないようなことを口にする。

「何? 記念日とか?」
「そうですね。記念日は多いほうが良いですか? 何記念日から始めましょうか」

 シル・メシアにイベントが少ない理由は安定しない暦に影響されているんだと思う。全てが気まぐれであるように、この日と決めても、来年またその日が同じときにあるかどうか微妙なのだ。

 季節祭なんてもっと難しい。
 月日で決定してもそのときに、その季節がめぐってきている可能性も低い。なんていい加減な世界だ。

 しかもその世界に慣れ親しんでしまっている私はもっといい加減ということになる。

 そんな中で、唯一、全てを記憶し記録しているのも種屋なのだろう。私が油断している間に、ブラックはどんどんカレンダーに文字を刻んでいく。

「え、私落ちてきたのってこの日だった?」
「そうですよ。ファーストキスした日ですよね」
「―― ……あれは、キスといわない気がする」
「えっ! どうしてですか? 私にとっては自分から他人に触れた初めての日でもあったのに」

 この人嫌いめ。

「……ちょ、ちょっと待って、細か過ぎない? いや、過ぎるっ。も、もうやめて、なんか恥ずかしくなってきた!」

 毎日が日曜日ではなくて、毎日が記念日状態になりそうだ。
 恥ずかしいというかどこまで馬鹿なんだ。

 どこまで覚えている! やめてっ! やめて、この晒し者感っ!!

 私は、えいっ! とタイミングを見計らってブラックの手の中から卓上カレンダーを取り上げる。

「記念日が多すぎたら、記念日の価値ないよ」
「難しいですね?」

 ぱたんっと机上にカレンダーを伏せ両手で押さえつけた。

「いつもと違った特別が記念日でしょう」
「私は毎日違っていて毎日記念日のようなものだと思いますけど」
「―― ……ヘンタイ」
「え、ええっ?! どうしてそうなるんですか」

 いえ、なんとなく。
 記憶力が良いのは悪いことじゃないけど、そんなこと細かに覚えられていたんじゃ私も息苦しいってもんだし、失敗も出来ない。
 この私マニアなんとかしてくれ。

「ストーカー気質だと思ってたけど、筋金入りだよね」
「では、マシロが私をストーキングしてくださいよ」
「―― ……無理」

 どうしてそうなる。無理だ無理。
 無理に決まっている。

 私が、ブラックに付きまとうには限度がある。どこまでも着いて行けるわけじゃない。
 あっさり拒否する私に、マシロは諦めが早すぎますよ、頬を膨らませるブラックは可愛い。

「マシロが着いてくるなら、追いつけるようにゆっくり行動します」
「着いて行かないから安心して」

 えぇ〜っと本当に残念そうなのがおかしい。
 私が付いていけないというよりは、着いて行かない理由くらい、お互いに直ぐに行き着くのにあっさりスルー。

「でも、まぁ、ブラックが帰ってくる場所には出来るだけ、居られるようにするよ」

 ふふっと零れた笑いと共にそう告げれば、つっと鼻先を寄せてきて

「―― ……出来るだけ?」

 問い直される。
 ふっと唇に掛かる吐息に静かに瞼を落とせば誓うように重ねた。

「…… 必ず ――」

 優しく重ねられる口付けは誓いの証。
 自分の居場所が必ず帰ってくる場所だと分かっていれば、待つのはちっとも苦痛じゃない。お帰り。がいえるなら、何をしてきたかなんて瑣末なことだ。
 そのくらいに感じてしまうくらいに、私の感覚も麻痺している。

 恋は人を盲目にする。
 あれは事実だと身を持って実感した。

 きゅっと片手に握り締めたカレンダーの処分はどうしよう。燃やしてしまうのは簡単だけど、それもなんだか勿体無い。

 本当に、もう……私が愛を告げたあの日までのブラックの勝手な記念日があまりにも克明過ぎて持っているには恥ずかしい。まるでラブレターでも貰ったみたいだ。

 ……きっとこうやって、この人は私を好きになっていってくれたのだろう。

 そう思うとじんわりと胸が温かくなる。
 私が気がつかない間にも、
 沢山の好きを、沢山の想いを、こうして重ねて …… ――

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