種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種69『四角い月』

 どんっ!

 鈍い音で床に叩きつけられる。
 こんなものでさえ拘束されていなければ、私はすぐにでも主の元へと駆けつけることが出来るというのに、忌々しい。

 赤い輪は変わらずキラキラと私の腕に納まっている。
 これのせいで、私は自然治癒力も鈍り未だに傷が完全に癒えてはいない。なければもう回復しても良い頃だ。右の前足がまだくっ付いていない。ぶらぶらしているから、踏ん張りが利かなくて、この程度の結界が解けない。

 ここがどこか分からない。

 三方向を白壁に包まれ、正面には鉄格子がしてある。背にした小さな窓からは白い月が小さく顔を出していた。
 ここは、私が居るべき場所ではない。私が居るべき場所は、今は主の膝元だ。ここではない……ここでは……。
 募る苛々を少しでも晴らすように、狭い室内をうろうろとする。

「―― ……驚いたな……」

 かたんっと通路奥から扉の開く音と人の気配が近づいてきたと思ったら見知った顔だった。
 鉄格子の前に置いてある小さなテーブルと椅子。そこに腰掛けた男はまだ忘れるには早いものだ。

「そのまま種に還ってしまうかと思いましたよ」

 唸り声を上げても意味はない。私はここから自力で出ることが叶わないのだから。
 私は剥いた牙を納めて、ふ、と人型を取る。こうしなければ、対峙した相手との対話は無理だ。

「主はどこだ」
「主? 頭首殿がどなたかにお仕えになっているんですか?」

 白々しい男だ。私を頭首と分かっている時点で、この男も関係者であることは分かる。ああ、無関係であるはずがない。

「……マシロさんなら無事ですよ」

 囁く程度の小さな声でそう告げて、ちらりと私の手首に視線を走らせる。

「治癒師を呼びましょうか」
「必要ない」

 ぶらりとだらしなく落ちていたのが目に付いたのだろう。
 だがどうせ直ぐにここから脱出する術を得ることは出来ない。下手に人間の手を借りて何かを仕込まれる危険性を冒すよりも、時に任せるべきだ。我々は普段常にそうしている。

「それで、主に何をさせるつもりだ。我が同胞を唆し、何を成すつもりだ」
「―― ……さぁ。なんでしょうね……」

 男はいって、視線を落とす。どこを見ているのかも分からない。取り留めのない感じだ。
 この男が我々の元を訪れたときは、もっと強い意志があったような気がした。だからこそ、それに靡いてしまったものが居たのは確かだ。

「ふふ、貴方も何をしていんですか? お仲間を連れ戻すだけの目的だったのでは? それなのに、人の元に下るとは……本当に、何をしているんです?」

 嘲笑とも取れるはずなのに、男の笑いは自嘲的なものに見えた。まるで自分のことをいっているようだ。

「見届けたいものが出来た。ただそれだけだ。もちろん。同胞は返してもらう。あれはまだ若い、このような人間の中で生きるには窮屈だろう。私とは違う」
「闇猫に拘束されてもなお、見届けたい……彼女は本当に特別なのですね」
「ああ。そうだ。たかが人間が拘束して良い存在ではない。少なくとも私はそう思う。過ちを犯す前に……」
「遅いです。もう、遅いですよ」

 吐き捨てるようにそういって男は立ち上がった。そして、いいわけのように

「私は間違えていません」

 と呟いてその場を去っていく。過ちに気がつきながらも、正すことが出来ない。人間とは本当に愚かしい。
 とりあえず、今私に出来ることといえば、体力温存と傷を癒しておくことくらいだ。

 元の姿に戻って床に伏せる。目だけで見上げた月は、その姿を変えることなく柔らかな光を地上に注いでいた。

 ゆっくりと瞼を落とし、集中すれば微かながら主の気配がする。
 この建物のどこかに居ることは確かだ。そして、気配がするということは生きても居るということだろう。ならばまた、会うことも叶うだろう。
 今私はそのときをただ静かに待つばかりだ。




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