種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種67『月の歯車2』

 命には別状がないと聞いた。

「―― ……ですが、痕には残ると思います。女性には辛いかもしれません」

 そう続けられた台詞に胸が痛む。望む望まざるは関係ない。彼女を傷つけるきっかけを与えたのは私だ。

「―― ……っ……ん……ぅ………」

 部屋から漏れてくる苦しげな声。痛みと熱との両方と闘っている。
 そこへ足を踏み入れる前に、一度深呼吸。平気だと自分にいい聞かせて、足を踏み入れた。

 月明かりしか差し込んでこない部屋の中に、僅かに魔法灯を灯すと、オレンジ色の柔らかい明かりが室内を照らし出す。

 寝台に横たわる彼女は、頬を上気させ肌には汗が浮かび、苦悶の表情を浮かべている。

 傍にある椅子に腰を掛けてこめかみから流れ落ちる汗を拭う。
 額に載せてあるタオルを取り替えると、少しだけ呼吸が和らいだ。

 そして、ふと目に付く。

 前に流れてきていた髪に、血が固まってしまっている。
 治療の際に、治癒師が綺麗に拭ってくれたのだけどまだ残っていたようだ。
 手にしていたハンカチを濡らして、その毛束をそっと包み拭き取り、深く息を吐く。

「……ぉにぃ、ちゃ、ん……」

 微かに聞き取れた声は微笑ましいものだった。
 彼女の家族関係は、どんな手を使っても掘り下げることが出来なかった。
 大抵の人間ならば縁者の一人も直ぐに出てきそうなものだが、彼女は、ぽつと降って湧いたような。という表現がぴったりくるほど、ほかに何もなかった。

 そのことが余計に白い月の少女に近い気がした。
 ……していたのに……

「……そう、お兄さんが居るんですね」

 綺麗に血の痕を拭って、まるで痛みを堪えるように握り締められた拳を両手で包み込む。

「―― ……たしの…、プリン……」

 苦しそうなのに随分と楽しそうな夢を見ているようだ。
 プリンが好きなのかな? 目を覚まして起きられるようになったら、差し入れよう。
 ふふっと場違いな笑みが零れてしまったのも束の間「っ!」と息を殺し拳に力が篭る。

「っ……! し、んじゃ……ぅ……った、ぃ……」

 慌てて鎮痛剤をと思ったが、先ほど処方してから時間が経っていない。
 まだ、もう少し我慢してもらわないと……我慢をして……。

「……っ」

 そう思った瞬間。
 私はこれから、彼女にどれほどのことを我慢してもらわないといけなくなるのだろうと、胸が詰まった。

 胸が詰まって、苦しくて、息を殺した。

 ―― ……きゅっ

 驚きに心臓が跳ねた。

「……ぇ」

 顎を胸に埋め、きゅっと唇を噛み締めて息を詰めれば、小さな拳を包んでいた手が握り締められる。

「いく、と……おね……ぇちゃん、だいじょ、ぶ、だよ? ……か、ってに、殺さないで」

 夢と現実の狭間で口にされるには、あまりにも良いタイミングだった。しかしあとは、苦しげに息を吐く唇が、音もなく、大丈夫だと象(かたど)る。

 ―― ……はらり

 慌てて片手で拭ったが間に合わなかった。
 頬を伝ってしまった涙は止まらなかった。

 己の罪深さに許しを請う先もなくしていた。
 許される必要などないことも分かっていた。

 全て負うつもりで、だから、心も嘘で固めて凍らせてしまうつもりだったのに……。簡単に綻びてしまうほど、強くありたい私は弱い。

 でも……許されるなら、今日だけ、今、このときだけ…… ――

 そう誓って、彼女の小さな手を握り締め止められない雫を許した。



 *** 



 私には薬師の素養はない。
 だから、一般教養以上の薬の精製は出来ないし、何より理解が出来ない。

 彼を信じるしかなかった。

 あのあと、ユイナが見慣れないものを首から提げていたので、訪ねれば“優しそうなお兄さん”にあの日貰ったのだそうだ。鼻につくような臭いはなかったが、中には乾燥した実が入っていた。
 調べれば……獣を惑わせるものらしい……ようするに、他者が介入してきているということだ。

 刹那、血を分けた兄弟のことを思い出したが、彼は白月に興味を持たない。力こそが全てだと思っているし、私が白銀狼を招きいれようと興味の一つも示すことはないだろう。

 それに、もう、何年も会っていない……。

 ふぅ、とばれない程度に息を吐く。
 食事をする彼女の傍に座して当たり障りのない話をしている間、偶然訪れた沈黙。
 そっと窓の外を見る。
 あの日から降り始めた雪は止む気配がない。

 白く冷たく……凍らせて閉じ込めて……。

 人は心に負いきれる以上の重さが掛かると分散しようとする。そして、大切なものほど壊れやすい。脆いものだ。

「ありがとうございます」

 微塵も疑うことをせずに、私から薬を受け取ってその目の前で口にする。彼女の喉元が上下するたびに胸が締め付けられる。

 仕方がない。
 誰かがやらなくてはいけない。誰かに代わってもらうしかない。

 誰かに……そう、私ではない誰か。

 人々の心の不安を取り除き、安堵のときを分け与える存在がなくてはいけない。月から光は走った。その存在を求める声は日々強くなって来ている。

 そんな折り答えるように私の前に現われた少女。

 もちろん、白い月の少女であるかどうか分からない。違うかもしれない。しかし、肯定するだけの要素もなければ否定するだけの要素もない。だから、私は賭けに出た。

 もう、時間がなかった。

 白銀狼を留めておくのも限界がある。彼らは惑わされ難い。
 何度甘言に堕ちても這い上がってくるだけの強さを持っている。

「レニさん?」
「え……あ、ああ、すみません。少し考え事をしていました」

 策を講じることに囚われた私にまで、心配そうな瞳を向ける。

「泣きそうな顔をしていますよ?」

 そういって、反射的に手を伸ばそうとしてくれたのだろう。動かした腕の痛みに僅かに眉を寄せた。
 彼女はとても慈しみ深く聡明で……そんな彼女の良く映りこむ黒い瞳に自分が映ると、本当はみんな知っているのではないかと恐くなり、曖昧に微笑んで顔を逸らしてしまう。

「あ、あの。面倒を掛けてごめんなさい……本当……みんなどうしたんだろう……」

 それをどうとったのか慌てて付け加える様子に、演技ではなく自然と頬が緩む。

「構いませんよ。どうか気に病まないでください」

 だから、極普通に穏やかに告げることが出来るのに、彼女は心底申し訳なさそうな、物悲しそうな顔をする。彼女の心がじわじわと壊れていくのを待っている自分が聖職者だなどと哂い話にもならない。

「きっと、忙しいんですよ」
「……そう、でしょうか……」

 そう、なのかな……? そう繰り返す言葉尻がどんどん弱くなる。直ぐにでも彼女の求める“帰る場所”へと送り届けたい衝動を抑え、緩やかに、ここに居れば大丈夫だと刷り込んでいく。

 彼女の心が、今の空模様のように薄灰色に染まり、冷たく凍えるのに、もうそれほど長い時間は掛からないだろう。

 自分の足で戻ると口にしなくなってきたのが、良い証拠だ……。

「マシロさん」
「はい?」
「プリンお持ちしましょうか?」

 にこりと告げれば、きょとんと驚きに丸くなった愛らしい瞳が不思議そうに私を見る。

「町で売っているほど美味しくはないですが、作りますよ」

 重ねて告げれば、数回瞬きした瞳は細められて、柔らかな笑みを作る。

「私、カラメルソースがたっぷりなのが好きです」
「では、そのように」

 ふふっと笑いあえる距離が心地良かった。

 そして、直に見ることが叶わなくなるだろうその笑顔を、しっかりと目に焼き付けて胸の奥へと蓋をした…… ――


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