種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種66『月の歯車1』

 どんっと膝辺りに衝撃があった。悲鳴が聞こえて駆けつければ、必死に腰に縋りつき「助けて」と繰り返す。
 小刻みに震える小さな身体にはもちろん見覚えがある。

「ユイナ?」

 悲鳴はユイナのものだったのだろう。
 彼女が飛び込んできてからは、辺りは水を打ったように静かになってしまっていた。物音一つしないことが気味悪いくらいだ。
 がくがくと震えているユイナを、腰を屈めて抱きとめる。
 そっと背中を擦り、事情を話すようにと促す。ユイナは、歯がかみ合わないのかカチカチと鳴らしながら指先を駆けてきた方へを向ける。

「あっちに何か?」

 首を傾げれば、途切れ途切れに繋いだ。

「おねーちゃ、んが、犬……犬が居て、大きくて」

 犬で粗方の見当が付いた。
 今現在、自分がここにいるのもその『犬』を探してだ。ユイナが指したほうを睨みつけて、眉をひそめる。

「ユイナはここに居なさい、壁に背を預けてじっとしているのですよ? 大丈夫、私がちゃんと確認してきますから」

 良いですね? と重ねて、ユイナを工業区特有の赤茶色のレンガ壁に預けて足を進める。二歩三歩進めたあとは、小走りに進んだ。

 現場は角を曲がれば直ぐだった。

 ぱちゃんっと水が跳ねた。
 降り始めた雪はまだ水溜りを作るほどではなく、その色は赤い。

 ユイナが見、そして、自分が探していた犬の姿はなかった。

「―― ……もし、もしっ!」

 地面に膝をつくとじわりと法衣の裾が赤に染まる。
 痛みを堪えるように身体を丸くして横たわるのは、まだ若い女性だ。

 大きな傷は腕と……肩口……かろうじて致命傷的な部分は深く傷付いてはいないように見える。
 けれどこのままでは助からないこともある。

「……ぐるぅ……」

 傷口には直接触れないように気をつけて、抱き上げようとすると傍で唸り声が聞こえた、もう駄目なのではないかと思えていた仔犬だ。
 よろりと立ち上がり、ぐらぐらしているにも関わらずこちらを威嚇する勇姿、仔犬だというのに美しい金銀妖瞳……

「―― ……白銀狼……ですか?」

 驚いて溢した声に反応したのか、腕の中の女性が、はぁっと苦しげな息を漏らした。

「マシロ、さんっ?!」

 血に濡れた髪が重力にしたがって、下へ流れれば隠れていた顔が覗いた。

「マシロさん! 聞こえますか? マシロ、」
「―― ……」

 掛けた声に反応しているのかうわごとなのか、唇が何かを告げようとしているがはっきりとは聞き取れない。
 耳をギリギリまで近づけて、息を殺せば微かに聞こえてくる。

「……ア、を……ユ、イナ、ちゃ……け、て」
「大丈夫ですよ。ユイナは無事です。無事ですからね?」

 忙しなく答えれば、一瞬だけ、きつく閉じられていた瞼が持ち上がり、私の姿を捉えると再びその双眸は閉じられ、完全に意識を手放してしまったように脱力し、ずんっと抱き止めていた身体が下に下がった。

 それと同時に、随分と離れていたように感じたのに、直ぐ傍までにじり寄っていた、幼い白銀狼もその場で、ぐったりと横たわった。


 ***


 ―― ……こんなはずではなかった。こんなはずでは……

 ぶつぶつと繰り返し、真っ白な廊下を靴音高く闊歩する。
 いつもならば、汚れ一つ目立たないそこに、赤い足跡が転々とついている。
 四本中二本、右と左一本ずつ濡れているのだろう。かなり不規則な赤い染みを辿っていく。

 教会の敷地内の奥の奥。

 今では入ることを誰も許されていない一室。司教の間へと向い、多少乱暴に開く。

 司教の間といっても私室のことだ。
 簡素な机と寝台があるだけで他に特別に誂えたようなものはない。

 父は多くを望まない人だ。

 開いた先では追いかけていたはずの白銀狼が既に戻っていて、先ほど見かけた小さいほうを咥えてきたのか傍に転がしていた。
 遣いを出したのに、そちらは無駄に終るだろう。

 大きな溜息を一つ。

「何をどうしたんですか?」

 大きななりをした白銀狼は、前足の間に顔を埋めて何もいわない。まあ、私に白銀狼の言葉を読み取るような素養はないから、このままの状態で意思疎通は難しい。

「そちらは、貴方の何か、ですか?」

 先の問いには答える気が全くなかったというのに、それには反応したのか、すぅっと人の形を得て、気だるそうに寝台に腰掛けた。白銀狼の姿であってもその若々しさは伝わるが、人の姿をとるとそれはなおはっきりとしたものになる。
 見目十七、八といったところだ。
 そして彼は信じられないことを告げた。

「頭首だ」
「そんなはずはありません。頭首殿でしたら、私もお会いしました」
「知らん。私も気がつくことが出来なかった。だが、今なら分かる。頭首の臭いがする。我々は仲間を間違えない、その、はずだ」

 同時にちらりと床に伏した幼い白銀狼を見る。きらりと前足に嵌った腕輪が目に付いた。

 魔法具の一種だろうか?

 マシロさんが連れていたのだから、その細工は種屋の施したものかもしれない。

 閉ざされた情報は、僅かに綻びが見えると直ぐに崩れて、彼女と種屋が近いことも分かった。そう、とても近しい間柄だということが……。

「生きていますか?」
「放っておいても、数日で回復する」
「手当てをしたほうが良いですね。今なら治癒師を呼んでありますから……」

 いった私に白銀狼は首を振った。人間の助けなど必要ない。そういうことだろう。

「では、長殿は置いておくとして、話を戻しましょう。貴方はどうしてここから出たのですか? 行動に制限などしてはいませんが……」

 咎めるように口にすれば、年若き白銀狼は自然と揺れていた尻尾を下げ、耳を下へ向けてしまうと顔を背けた。
 子どもが叱られているときの姿と変わらない。ということは、好奇心というヤツだろう。

「では、なぜ」
「知らん。私は何も知らない。分からない。ここから出ただけだ。出て……あの幼子を追うと逃げた逃げたから追った……なぜ牙を剥いたのか分からない、そのあとは、なお分からない」

 その話を聞いて猫がネズミを追う程度の心境かとも思ったが、僅かな違和感を覚えた。

 嫌な感じがする……余分な手がどこかから掛かっているような……大体、こんなはずではなかった。
 彼女を傷つけるような手は考えていなかった。
 種屋を遠ざけ、内に引き入れるだけの簡単な話だっただけだ。彼女くらいの少女なら、溝を入れることは容易い。
 そこへ戸を立ててしまえば引き離しこちらへ引き入れることも直ぐだ。

 それなのに、歯車は別のところで回り始めてしまった。

「レニ」
「―― ……はい?」

 思案に耽っていると、苦々しい声が掛けられる。
 顔を上げれば、白銀狼が苦い視線をちらりと投げていた。

「その格好をどうにかしろ。血の臭いが濃い」

 ふぅぅぅっと口の端から漏れる息に胸の奥が震えた。巨大な獣を前にした本能的な恐怖だろう。

「貴方のしでかしたことでしょう。仲間に牙を向けることはご法度ではありませんか? しかも相手は長。その責任は重い……」
「―― ……」

 きゅっと口を引き結び苦悶に眉を寄せた白銀狼にぴしゃりと告げたあと、優しく囁く。

「大丈夫。私もその罪を分かち合います」
「何故?」
「貴方を引き入れた私の責任でもあり、白月は咎人にも美しいときを分け与えるものですよ。貴方はその恩恵を受けるべき存在である……」
「美しい、とき」

 白銀狼はここからでは見えもしない月を仰ぐように首を反らした。

「破壊しかもたらさない青月への積年の恨みを果たすのでしょう? そして、美しいときを同族にもたらす」

 ゆっくりと語り、絶妙な間とトーンで締め括る。

「そのときこそ、貴方の罪は許される……」




 そのあとは大人しいものだ。
 長は別に隔離して、封じておいた。手当てはしたものの、息はあるがあれで回復するというのは些か信じがたい。次に訪れれば種に還っているかもしれない、そんな風に思い嘆息する。

 着替えを済ませ、白い月の少女の待つ居室へと足を進める。

 途中、回廊から夜空を仰ぐ。
 雪は止むことなくあたりを仄白く浮き上がらせる。
 彼女への確信が、間違いであったら……そう思うと胸が痛む。しかし、内に秘めるもう一つの感情が、違うのであればそうであるよう仕立てれば良いと囁きかける。
 青い月に偏った世界を憂い、白い月の恩恵を望む己自身が一番に青い月の影響を受けている気がする。

「……っ、違う」

 違う、違う違う……私は、この教会を守らなくてはいけない。
 子どもたちを守らなくては。彼らはこの教会の庇護がなければ生きてはいけない。
 そのためには、今のまま不安定な状態であっては駄目だ。
 確固としたものを、信仰だけではなく、その軸を揺るがないものにしなくては。

 私がやらなくては…… ――

「司祭」

 止めた足を踏み出すと、跡始末を頼んだものが戻ってきて、私の前に膝をつく。

「白銀狼の仔は既にありませんでした」
「そうですか」
「その代わり、これが……」

 いって白い布を広げた。
 いくつかは血に汚れていたものの、赤くその身の内から輝いているような、紅珊瑚がいくつもあった。

「ただそこに転がっているには不自然な数でしたから、出来る限り集めてきました」

 恭しく捧げられ私はそれを受け取った。
 一つ摘み上げれば細工がしてある。装飾品として仕上げられていたものだろう……彼女のものだろうか。

 そうであったなら、僅かな罪滅ぼしとしても修復してやりたい。

 そう思ってそれを丁寧に包んで懐にしまう。
 そして、膝をつき腰を折っていたものの手を取って礼を告げた。

「手間を掛けさせてすみませんでした。貴方に白月の恩恵があらんことを……」

 いって額に手を添えれば深く深く頭を下げられる。私自身にそんな価値などないに等しいというのに。ちくりちくりと痛む胸の痛みに気がつかないフリをして私はどれだけのときを重ねるのだろう。

 仰々しく立ち去っていく信者を見送って、私は細く長く息を吐く。
 それにあわせて白い筋が浮かんで消える。

 そこに至る経過がどうであったとしても、もう、まわり始めた歯車を止めるわけには行かない。

 私は行うしかない。

 心を奪うほど美しい白月の隣には、世を衰退させるしか能のない青月が並び付く。

 表裏一体とでもいうように二つ月は寄り添うのか。
 常に物事とはそうあるべきなのか。

 もし、そうであるのならば、私は荒廃し衰退する青月になる。
 そう、だな……どれだけ望んでも、無いものを強請り羨むことしか出来ない私は月で構わない。
 きっと、それは、違わない。

 ……だから、どうか……

 もうそれは呼吸をするくらい自然と、額に指を組んだ手を押し付け瞑目し月に祈る。
 強く、篤く、切望する。


 どうかこの白き宮殿に美しいときを
 変わらぬものを、揺るがぬものを
 安寧を…… ――

 私には、已む無き犠牲を出したとしても、守らなくてはいけないものがここにある。


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