▼ 小種65『仕事のあとに』
「おかえり」
「―― ……」
ふぅ、と溜息吐きながら、お疲れの様子で帰ってきたブラックに微笑んだ。
微笑んだのに、対峙したブラックは小動物のように人の顔を見て目を瞬かせる。
「何しているんですか?」
「何って、お出迎え。おかえり」
「……只今戻りました……」
確かに週末じゃないし、迎えも呼ばずに帰ったから、居ないはずの私が居たら吃驚するかもしれないけど……家なんだし、いつ帰っても良いと思う。
違うのかな?
ブラックの困惑した空気に私まで困惑する。
「駄目、だった?」
「え、いえ、駄目ではありませんよ。嬉しいです」
にこりとくちにしても、どこかぎこちない。
もやもやと湧いてきた不安が拭えない私に気が付いていないはずないのに、ブラックは正面の階段へ向かって歩き始める。
「ブラック。どこ行くの?」
「書斎ですよ。種を回収してきたので、片付けておきますね?」
ちゃんと振り返ってそういってくれるブラックはいつも通り。そう、いつも通り向き合ってくれているのだから、私がどう、という話ではないのだろう。
私が納得するのを待ってからブラックは階上へと歩を進めた。
私もそれにちょこちょこと着いていく。
尻尾がどことなく、しょんぼりして見える。
―― ……ぱたんっ
書斎の扉を閉めるくらいまでには、ブラックの困惑していた理由が分かった。だから閉めた扉を背にして、今度は私が溜息を吐く番だ。
ブラックは淡々と片付けをしている。
展開した隠し棚から、瓶を取り上げ種をころころ……一つ、二つ……の数じゃない。
きゅっと蓋をして瓶を元の場所に戻すと静かに書棚は元の位置に戻った。音もなく滑るように仕舞いがつくと、ブラックはこつこつと歩み寄ってくる。
「今夜はもう遅いですよ。食事は済みましたか?」
ふんわりといつもと変わらない体を装ってそういったブラックに「ねえ」と問い掛ける。
見上げた私の視線と絡んでブラックが少し警戒したのが分かった。
「この距離、何?」
あと一歩が遠い。
他のみんなならこのくらいの距離だと思う。
でも、ブラックはいつももっと近い。私が邪魔にしない限りは、文字通り袖触れ合う距離にいる。
私が、つっと詰めるとブラックは避けることも出来ずに、微かに唇を噛んで視線をそらした。はあと、溜息を重ね肩を落とす。
「―― ……」
無言で暫らく見つめたけれど、ブラックは私を見ようとしない。
きっと、このまま状況を察した私が回れ右して、部屋に戻ることを望んでいるのだろう。
短い付き合いじゃない。
そのくらいは分かる。
分かるけど……その通りになんてしてやらない。
「っ! マシロ」
「何」
「いえ、その……」
出来るだけ素早く、ブラックの手を取った。びくりと、身体をこわばらせたことに少しだけむっとした調子で疑問符もなく問い返せば、ブラックはしどろもどろになってしまう。
取った手を持ち上げて、頬を寄せようとしたら「駄目です」と僅かな抵抗にあう。
どうして? と睨めば、恐る恐るといった風に私を見る。
そして、困惑した瞳が泳ぎまくっている。その愛らしさに嗜虐心を擽られる。と、いうのもあるけれど、ちょっと一言物申したい。
「分かってるよ。“仕事”してきたんでしょう?」
言葉での返事はなく、こくんっと首肯する。
「あの、ですから、綺麗ではないので」
「嫌」
「え、と……」
「だから、嫌だっていってるの」
ぐぃっと手を引いてその手のひらに頬を寄せた。駄目だというように力が入ったけど、私に放す様子がなければ諦めたのか拒絶はしなくなった。
私はそのままブラックの手のひらに頬を擦り付ける。
少し火照った頬に、ひんやりとした手のひらは心地良い。
これが、なんだというんだ。
いつもと変わらない。
全然変わらない。
私の大好きな人の一部だ。
「私、気にしないよ」
気にしてない。
何度もいったはずだ。
いったはずだけど、ブラックは気に掛ける。自分が私が気にする器を壊すことを……。
私だって気にしないようにしないと気になるのは本当だけど、それも含めたものが今のブラックで種屋なのだから受け入れる覚悟を持っている。
ブラックは私を大切に思ってくれてるから、そのことを気にしているのは分かるけど、私は気にしないといっているのにそれを疑われているようで面白くない。
―― ……ちゅ
軽く音を立てて手のひらに唇を寄せる。
「っ」
刹那息を詰めたブラックをワザとらしく睨む。
「何?」
「……で、す、から……」
ブラックの困惑を無視して、私はブラックの手のひらを、つぅと舐め指先に唇を寄せる。
順番に一本ずつ、丁寧に唇で食む。
ちらりとブラックを仰ぎ見れば、頬を染めて息を殺すように唇を噛み視線を落としている。
「―― ……っん、駄目、です」
「どうして? 何が駄目なの? 私がしたいの」
ぷいっとブラックから顔を逸らして肩をブラックの胸に預けると、指先への愛撫を続ける。
時折、息を詰めているブラックの様子を肌で感じるとぞくぞくする。
「っも、ほん、と……やめて、くだ、さい」
「……やめて欲しいなら、そんなに色っぽい声出さないでよ」
憎たらしい台詞を吐いた私に、ブラックは切なげに、そんな……と声を漏らす。
ああ、顔を逸らしていて良かった。
ふわりと腰を折って額を私の肩に寄せ、甘ったるい声を漏らすブラックに私の頬は赤くなり、身体は熱くなる。
最後に残った親指を軽く咥えると、また少しだけ抵抗される。私はそれを引き寄せて駄目だと首を振る。
「逃げないで。私が気にしないっていってるのに、分からないブラックがいけないの。だから……」
「分からせてくれるんですか?」
「そ、そうだよ」
あ、あれ?
なんか、今の一瞬で形成が逆転してしまったような、気が、しない、でも、な・い?
私は不穏なものを感じて、恐る恐るブラックの顔を見た。
しょぼーんっと先ほどまで萎えてしまっていた耳が、ぴんっと好機に立っている。視界の隅っこに入る尻尾が、ゆらーりゆらりと揺れている。
もしか、しなくても……火、点いちゃいました、よね?
じりっと今度は私が後退しようとすると、あっさり「嫌です」と捕まえられる。
そうだよね。
そう、だよねー……。
「ん、んぅ!」
空いていた腕に腰を捕られて、反射的に顔を上げると唇を奪われた。
「んっ、んぁ……っ」
急に深いところまで犯されて、じわりと目尻に涙が浮かんだ。応じる隙もなく、強引に口内を貪られる。
膝に力が入らなくなって、ぎゅっとブラックの服を掴んで耐えていると、少しだけ解放される。
潤んだ瞳で見上げれば、ブラックの目尻も僅かに朱を帯びていた。
「仕事のあとは、どうしても気分が高揚してしまうんです…… ――」
きつかったらすみません。と重ねたブラックに、思わず、そんなっと非難めいた顔をしてしまったのだと思う。
ブラックは、くっと声を殺して笑うと今度は丁寧に唇を重ねて、ぐっと私に体重をかける。
もちろん、私がそれを支えられるはずもなく、ぐらりと後ろへ倒れると……
―― ……ごぽ、ごぽ、ぽ……
変な浮遊感と、暖かな水圧に包まれた。
慌てて目を開けると、喜色を含んだブラックの瞳とかちあう。唇は触れたままだけど、息苦しく、ごふっと泡が溢れた。
そのまま、ぶくぶくと沈みかけて、私は暴れた。溺れると思った瞬間ぐいっと腕を引かれて、私は湯底に膝を立てて盛大に咽た。
「ごほっ! っほ……!!」
「大丈夫ですか?」
「っ、じょぶ、」
「ん?」
「大丈夫なわけないでしょっ! どうして、お風呂に入るなら普通に入らないのっ!」
猫は水が嫌いだけど、目の前の猫はお風呂が好きなのか、屋敷にはご立派な浴室――いや、もう浴場――がある。
時々は一緒にはいったりもするけれど、大抵は私がのんびり使うところだ。
そして、当然、突然放り込まれて良いところではない!
私は顔をぐいっと両手で拭ってから、目の前に膝をついて楽しそうに笑っているブラックの胸を叩いて、抗議する。
しているのは抗議なのに……抗議のはずなのに……ぴちゃんっと尻尾がお湯を弾いたのが視界に入ってしまった……怒りを削ぐ。
むーっ! と顔を睨みつければお湯が滴っているのは髪だけじゃなくて……もう、耳とか勘弁して。頑張ってお湯を払っているのは、反射的な、もの、だよ、ね……我慢、我慢して、私。
私は今……怒ってるの。怒っているのに……そんなブラックと目が合うと
「ぷ」
同時に噴出してしまった。
どうしようもなくて、結局、くつくつと笑いあう。
本当、ブラックは時々やることが突拍子もない。
怒るのも馬鹿馬鹿しい。
とはいえ
「もー、お風呂は服を着て入るところじゃないでしょ」
髪と服が身体に纏わりついて、気持ちが悪い。だから、なんとか、ぶすっと告げれば、ああ、そうでした。と微笑んで、ぐぃっと私の腕を引く。
「直ぐに脱がせて差し上げますよ」
蠱惑的な笑みを浮かべたブラックは、そういって可愛らしく、私の鼻先に口付けた。
そのまま、視線が絡めばどちらともなく瞼を落とし、ふっと掛かる吐息に誘われるように唇が重なる。
纏わりついて重くなる服を邪魔に感じながらもブラックの首に腕を絡めて、強く引き寄せる。
しっかりと腰を捉えられているのに、器用に身体の間に滑り込んできた手が服の前を開放し緩い拘束が解かれる。
同時に流れ込み肌を滑る水流に柔らかく愛撫されているようで、燻る熱を呼び起こされ小さく声が漏れた。
「……っ、は……ぁ……」
熱さと息苦しさで、私はブラックの肩に寄りかかり、身体に張り付く服と肌を裂くように撫でつける指先の動きを心地良く感じながら、私もブラックの服に手を掛ける。
でも、これが、なかなか……
「ダメ……上手に出来ない、よ……」
「先ほどまでの勢いはどうしたんですか?」
冗談めいた受け答えに「意地悪いわないでよ」とむくれつつ、私は湯船から立ち上がった。
ぐらりと足元がふら付けば直ぐに抱きとめてもらえる。
そのときに掛かった、大丈夫? は本当に心配そうに聞こえて少し可笑しかった。
「大丈夫じゃない。もう、大丈夫じゃない、よ。のぼせた」
不機嫌にそう告げれば、それは大変とばかりに、すっと抱き上げられる。ぼたぼたぼたっと私からお湯が流れ落ち大きな音を立てた。
湯船の端に座らされ、肩から服が落とされ、一瞬だけ肌が外気に晒されてひやりとする。それに身体を縮める暇もなく、頭からバスタオルが被せられる。
ふわふわなタオルにほっこり気分になると、顔を覗き込まれて、ちゅっと可愛らしいキスを貰った。
「やめる気はないんだ?」
苦笑した私に
「そこは焚きつけたマシロが悪いと思います」
と、笑みを溢される。
「大丈夫ですよ。最後まで面倒見ますから」
「―― ……それは、どーも」
ぱああぁぁと赤くなる顔を逸らしてぼそぼそと告げる。くすくすと笑うブラックに既に負けた気分だ。
もう、今夜は茹で上がること必至だろう…… ――
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