種シリーズ小話:銀狼譚
▼ 小種51『箱の中の月』(ハクア視点:本編より)

 油断していた。

 話が通じる相手だと、そう信じていたのに、言葉くらいでは曇ってしまった瞳は真実の虚しさを映しはしなかった。
 人間の宣教師の甘言に唆され、山を下り都へと出た。
 私たちは人間と関わるべきではない。彼らは短命であるが故、生き急ぎ愚行を犯す。そんなものに我々が干渉されてはならない。

 私たちは誇り高く、気高い種族で……何より、人間と関わってきた同胞の末路は、常に悲惨なものだ。

 その結果私たちの個体数は減った。

 私が連れ戻すために都へ下るのをシラハには最後まで反対された。仕方ないと思った。了承を得ている、理解を得るまでの時間すら私は惜しんだ。

 人気のないところまでは来たと思うが、ゼロではない。このまま多少なり回復するまで、誰にも見付からず居られれば良い。

 私の僅かばかりの願いは脆くも消え去った。

 傷口の修復と体力の回復のために、僅かでも動くのが億劫だというのに無遠慮にも歩み寄ってきた少女に、威嚇も込めて僅かに唸る。

「大丈夫だよ、この子は襲い掛かったりしないし、そんな力残ってない」

 ああ、その通りだ。

 私のような気性の荒い希少種を確保するには良い条件だろう。
 見世物になる前には、全てを消して私の用事を済ませることも出来るだろう。ああ。しかし、人間はやっかいなものを良く使う……私の知らない間に、特殊な何かがあれば、もう逃げられないかもしれない。

 ―― ……そういえば、私はあとを継ぐものを決めていなかった。


 ***



 どんな檻の中へと担ぎ込まれるのかと思ったら、檻にしてはあまりにも脆そうだ。
 引き裂かれた皮膚を引き上げられ、縫いとめられる感触は正直気持ちの良いものではなかったが、それにより多少回復が早まるだろう。

 食事にと席を外して、周りの人間にマシロと呼ばれていた少女は、部屋に戻ってくると私の傍に膝を着いた。

「寝てる? かな。ご飯はあとで良いよね……ごめんね、ぱっと治るような方法があれば良いんだけど」

 気だるさに瞼と落としたままにしていれば、小さな手が額を撫でていく。人に触れられるのは嫌だ。我々に甚大な被害を及ぼしたアレも人であった。
 力だけではない姑息な手段でことを仕掛けてくるかもしれない。人間は信頼に値するものではない。

 ならば、利用して捨てれば良い。

 どうせ、虫以下の命だ。火を吹き消すように簡単に消えてしまう。

「今日はさ、私もちょっと色々あって、身体中ぐったりさんなんだよね。でも、貴方ほどではないから、大丈夫。ちゃんと面倒見てあげるから早く良くなるんだよ」

 私を白銀狼だと踏まえたうえでの台詞だろうか? そこらの駄犬を相手にしているのと変わらないその台詞に、色々と考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
 自身でも纏わりつく血の臭いが気になるというのに、マシロは気にならないのか、撫で付けていた手が止まったかと思ったら、そのまま私に圧し掛かって瞼を落としていた。

 鼻先で頭を押してみたが目を覚まさない。
 色々あったという言葉を思い出し、生きているのか戸惑われたが彼女から伝わる鼓動と体温に、胸を撫で下ろした。

「マシロちゃん、入るよー」

 耳に入った声とほぼ同時に、私をここまで簡単に運んでしまった少年たちが姿を見せた。身動き出来ないうちに何かを仕掛けにきたのでは、と、頭を持ち上げて唸り牙を剥いた。

「静かにしてよ」

 ぱしりっ。

 ―― ……な。

 手刀で額を打たれた。
 白銀狼を手刀で……馬鹿にしている。冗談ではない、愚弄するにも程があると、後ろ足を庇った形で身体を持ち上げようとすれば、傍に膝を着いていた男に「駄目」と遮られた。

「マシロが落ちちゃうでしょ。動かないで。僕らは何もしないから、残念ながら、僕は白銀狼に興味はない。君がマシロに危害を加えない限り、僕らは君に危害を加えない」

 分かる? と真っ直ぐに私を見据えてきた男の深い湖の底の色をした瞳に、目を細める。そして、ちらとだけマシロを見た。私の身体をしっかりと握っているのは余りにも非力な小さな手だ。

「僕らの望みは、君が傷を回復させ、マシロを安心させてからここを立ち去ってくれることだけだよ。だから、君は傷の回復に全力を注いで欲しい」

 それがお互いのためだ、そうだよね? と、続けられ、私は苦い思いを噛み締めたまま、先程と同じように身体を横たえた。

 そして、瞼を落とせば、相手もぴりぴりとした緊張感を解き立ち上がる。

 それにあわせて、マシロに毛布が掛けられる。
 もちろんその一部は私の身体にもかかり暖を落とす。

「ここに置いておけば気がつくかな?」
「マシロちゃん抜けてるから、書置きもして置いたほうが良いですよ」

 ええと、紙と、ペン……、傍の机からそれらを持ち出して渡せば、何かを書き留めて机上に残すと、三人はばらばらと部屋を出て行った。

「―― ……白銀狼は賢いって聞いているから大丈夫だよね? 利の一致、忘れないで、ね?」

 最後に扉に手を掛けた男が念を押す。
 人間はどこかで変質を遂げたのか、それに引けをとりはしないが、文字通り釘を刺された思いだった。

「あんま、手負いの奴を苛めてやるなよ。それよりさっきの話の続きを…… ――」
「えー、もう一回話すんですかー、なら、夜食がいりますよね?」
「今お前食ったばっかりだろーが」

 閉まった扉の向こうから聞こえてくる馬鹿馬鹿しい会話に、ふーっと深く息を吐き、身体に伝わってくる震動に呼吸を合わせ、瞼を落とした。



 久しぶりに夢を見た。
 父の掉尾(ちょうび)は実にあっけなかった。青い月の下に立つ姿が、脳裏に焼きついた。薄っすらと笑みを浮かべたその姿は、優麗過ぎて恐怖すらした。

 父の死に深い哀悼すら感じることもなく見上げた白月は、ただ静かにその惨劇を見守っていた。

 私は残された仲間を守り、閉鎖的に生きることで美しいときを手に入れようとした。

 私の考えに賛同するものが多かった。

 そうでないものもいつかは理解を得られるものと思っていた。一体いつ、私は選択を間違えた?

 白い月は何故いつも我々の味方をしてくれぬ。我々に、何故いつも苦難を敷く…… ――


 何故……。



 くんっ! と毛を引っ張られ覚醒した。
 情けなくも濡れてしまっていた双眸に、乾いた笑みが零れる。
 去るものを追うなという声も多かった。シラハもその一人だった。だが、私は去ったものの想いが分からない。それが、どうしても知りたい……彼は一体何に、美しいときを見たのだ。

 マシロが落ちてしまわぬように、首だけを持ち上げ格子の奥を見上げる。

 この狭い箱の中では白い月は見られないのだな。

 白月を恋うことも出来ぬ場所で、人は何を求めているのだろう……
 宣教師は何故、我々を求めたのだろう……。

『なぁ、マシロ……お前は何故私に手を伸ばした……白銀狼である私に何を求める?』
「大、丈夫……ちゃんと、守るから、怖くないよ、何も……」

 ―― ……っ

『言語素養を持つのだな』

 ああ、美しいときは私を、我々を完全に見放したわけではないのだ、な……。

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