種シリーズ小話:紅譚
▼ 小種3『有り得ないもの』

 

 月明かりに照らされて、艶やかな毛並みをした黒猫が私に媚びるように額を擦り付けてくる。
 凛としていて品も良く、麗人を思わせるその姿からは誰かに懐くことなど決してなさそうなのにと、そう思うと不思議な感じがする。
 私も普通に小動物は好きだ。だから素直に可愛らしいと思うし和むのだけど。

「お話があります」

 首根っこを捕まえて、ぽいっと私の膝から落とすと黒猫は、ふっと人型を得る。人になっても猫耳尻尾が残るのは未だにどうだろう? と、思うもののこの世界では珍しくないということも良く分かった。
 既に別色の猫とウサギ耳にも出会ったし。

「なんでしょう? 私の元に戻る気になりましたか?」

 ゆるゆると楽しげに尻尾を揺らし、綺麗に微笑む姿は見惚れても良いと思う。

「そうじゃなくて! どうして図書館には薬師階級以外もあるって教えてくれなかったの!」

 つい、流されそうな雰囲気を払拭するようにいい切った私に、ブラックは本当の猫のときのようにすぅっと瞳を細めて口角を引き上げる。

「何を怒っているのですか? 私はマシロにとても親切にしていると思います。貴方の投げ掛けてくださる質問には、きちんとお答えもしておりますし……当面の生活に苦労がないようにも計らっております。こういうのを至れり尽くせり? というのではないでしょうか」
「た、確かに感謝してるけど! ……ん? あれ? いや、感謝は良いの、今そんな話じゃないから。話し逸らさないでよ!」

 好戦的な瞳に押されて感謝とか口にしてしまったが、今はそこじゃないっ! 慌てた私が面白かったのかくすくすとブラックは笑いを零す。

「そうでしたね。情報は貴方の得たいものを与えただけですよ。マシロは最初に薬師の種を指したではないですか。ですから私はそれについて情報を提供したのです。貴方の質問に答えたに過ぎない。過ぎる情報は貴方を惑わせるだけでしょう?」
「う……っ!」

 一見親切心からそうしたのだというような台詞に、私は二の句が告げないが何かやっぱり騙されているような気がする。

「私はもっと普通の環境で!」
「普通の環境?」

 酷薄ともいえるような冷たい笑みを浮かべたブラックに、私は背筋がすぅっと冷えた気がする。

 ―― ……怖い

 本能的にそう思った。

 ―― ……そうだ。

 私は、こんな世界に落ちてしまった時点で普通の環境なんかに置かれていない全て今更な話だ。

「おや? 私に怯えているのですか?」

 これは失礼しました。と、謝罪したときには冷ややかな空気が消えていた。

「良いじゃないですか。お陰で王子様とお近づきになれたわけですし。女性はそういうのお好きでしょう?」
「問題はそこじゃないわ!」
「……おや? ではどこが問題ですか?」

 にこにこと人好きのしそうな笑みに戻ったブラックは、真っ赤になって怒った私との距離をつぃっと縮めて迷いなく私の手を取った。
 体温の低い手が、ひやりと私の熱持った手の温度を奪っていく。

「分からない……分からないけど、なんだか怖い。騙されているような……違うような。でも気がついたら逃げられなくなってるような気がする」
「ああ。それはそうでしょうね?」

 ブラックは特に大したことを口にするわけじゃないように軽く微笑んで、くっと私の腕を引くとよろけた私の肩を抱き耳に唇を寄せる。
 吐息の掛かる距離に身じろぎしたがびくともしない。

 どくんどくんっと心臓が大きく脈打ち、全神経が耳に集中する。

「マシロは私のものなのですから」

 囁かれ身体に刻まれた紋章をつんっと弾かれる。

 ―― ……っ!

 くっと息を呑み、反射的にどんっとブラックを押し退けると、おやおやとブラックは簡単に離れてくれたけど、私の何かは囚われたままのような気がする。

「まあ、取り合えず何でも聞いてください。マシロが問い掛けて下さることについては出来る範囲でお答えします。私は決して嘘は吐きませんよ」

 眉を寄せ複雑な表情を見せる私に、ブラックは益々笑みを深めそっと私の頬を撫でると「今夜はこれで……」と夜の闇に溶けるように消えてしまった。

 私はブラックの綺麗な長い指がすり抜けていった頬を押さえ夜を仰ぐ。

 夜空に浮かぶ二つの月。
 私の部屋からではこれからの私の行く末と同じように良くは見えない。

 これは夢。
 それも白昼夢のようなもの……

 これは……夢……


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