▼ 小種11『闇猫と少女』
何となく予感的なものはあったけれど、本当に落ちてきたときには正直驚いた。
シル・メシア以外に世界が存在するなんて寓話の中だけで十分だと思っていた。だから、白い月の中も青い月の中も空っぽだと、そうあって欲しいと思っていた。
マシロがどこから落ちてきたのかは定かではない。
定かじゃないけれど、少なくともこの世界の住人でないことは分かった。
この世界で人が使う言葉は統一されている。古代語とか、種族が変われば少し違うものもあるが大抵は同じだ。話が通じない、言葉が聞き取れないという不便は、これまで感じたことはなかった。
「何、ぼんやりしてるの? 暇ならちょっと、この本あの上のところに戻してよ」
「良いですよ」
蔵書整理を任されたのか埃臭い一室で、マシロは黙々と本棚の整理を行っていた。
―― ……何より。
何より、闇猫と呼ばれ忌まれることのほうが多い人物に、ほいほい雑用を頼むような人間はこの世界には居ない。
彼女の手の中から本を抜き取って「あそこ!」と必死に背を伸ばし指差している先へと本を納めると、マシロは素直に嬉しそうな顔をする。
「マシロは可愛いですね」
「は? そ、そんなわけないでしょ!」
それを褒めると赤い顔をして怒る。なぜ怒るのか分からない。
女性へと賛辞を向ける行為は、おそらく間違っていないはずだ。……ちょっと、自信はない。
「私は思ったままをいったんですよ? マシロみたいな女性は可愛いと思いますし、好ましいと思います。ということは愛してるってことですよね?」
作業を再開し始めたマシロを眺めながら机の端に体重を預けて話を続けると、マシロはやや固まったあと深い溜息を一つ吐いて振り返る。
「あのねぇ! そういうことは軽々しく口にするものじゃないの!」
また怒っている。琴線の本数が多いか脆いかのどちらかなのだろうか?
「軽々しく口にしているつもりはありませんよ? それに女性はそういうことをいわれるのが好ましいのでしょう?」
特に悪気もないし間違ってもいないはずだということを口にしたのに、どうやらまた琴線に触れたようだ。マシロは眉間をぐっと押さえてやや俯いたあと、顔を上げると真っ直ぐに私を見上げてくる。
「心が篭ってない。ブラックのは心が篭っていないのはそのせいなんだよ! きっと。うん。納得した」
何を勝手に納得したのかマシロは、うんうんと頷いている。
「形式的に口にしているだけでそこに気持ちとか全然伴ってないでしょう?」
「そう、でしょうか?」
「そうだよ」
あーすっきりした! と、マシロは勝手に自己解決して新たに机上の本を数冊抱えると背を向けて作業に戻る。
―― ……気持ち、気持ち、ねぇ?
自分の胸に手を当てて問い掛けてみる。
多くの知識も経験もあるはずなのに、マシロに掛けられる言葉はいつも、いまいちぴんっと来ないものばかりだ。
口から発せられた言葉と心がイコールではないということ、なのだろうけれど……特にこれまで偽りを述べる必要もなかったから虚言を吐いたこともないと思うのに。
「出掛けましょうか」
「は? 駄目に決まってるでしょ。今私が何してるか分かってる?」
作業の手を休めることなく……とはいえ、不慣れなのか見ていて正直かなりローペースに見える……あっさり断ってくれたマシロに苦笑する。
「この本を棚に戻せば良いんですよね?」
「そうだけど、あと三十冊近くあるよ」
「手の届かないところ以外でも、頼っていただいて問題ないのですけどね。私は今、無性にマシロと親睦が深めたいのです。早く終わらせましょう」
「だから、もう少し待って」
「待てません」
作業が終わらないとマシロは本当に動きそうにない。
動きそうにないので、机上に残っている本のタイトルを目で追ったあと、本棚の並びを確認して全て同時に本棚へと帰っていただいた。
コツコツコツと棚に戻っていく音が消えてから机の端に預けていた体重を、よっと戻し「片付きましたよ」と声を掛けるとマシロは、ぽかんっとしていた。
その表情があまりにも間抜けで思わず笑ってしまう。
「本当、マシロは可愛いですね」
はた! と我に返ったマシロは眉を寄せて非常に不愉快そうな顔でぼやく。
「今のは馬鹿にされたと分かったわ」
「馬鹿になんてしていませんよ? さぁ、出掛けましょう?」
ぐぃと手を引くと今度は難なく従ってくれる。
この世界で唯一、飾らないままで接してくる、偽りのない瞳をむけてくる存在。言葉に心を求め、私の誘いを瑣末な用事で断る存在。
それは彼女が異世界人だからか、マシロだからなのかが分かるまでは、きっと私でも愉しめると思える不可思議な存在。
白い月の中も青い月の中も空っぽだとは思うけれど、彼女の中には面白いものが沢山詰まっているとそう思う。
|