宝石旋律 〜嵐の雫〜
【7】
蒸気と土埃の舞い上がる現場周辺で地道な探索作業を続けている兵士の一人が、ふと訝し
げに顔を上げ、辺りを見回した。
「・・・おい、何か水音が聞こえないか?」
「何をとぼけたこと言ってんだ? すぐ近くに川が流れてんだから水音がするのは当たり前
だろうが」
彼のすぐ隣で作業していた兵士が呆れたように汗をぬぐいながら応える。
「――いや、そうじゃない。流れる音じゃなくて、なんというか、ええと、・・・滴り落ちる? 水が一滴一滴間隔をあけて、高いところから落ちて来るみたいな音というか・・・」
そこまで言って、彼は自分の言っていることの馬鹿馬鹿しさに苦笑した。すぐ近くには川
が流れ、多数の人間が呼び交わし、号令を掛け合いながら瓦礫をかき分ける音で周囲はうる
さいほどだ。そんな中でそんな音が聞こえる方がおかしい。
幻聴だ。きっとこの暑さのせいだ。
彼はそう考えなおし、首を一つ振って作業に戻った。
「バカ野郎! てめーがあんな事言うから、変な夢見ちまったじゃねえかぁ!」
天主塔の執務室で目覚めたアシュレイは、ろくでもない悪夢を見るきっかけの言葉を言っ
た柢王への恨みを、先ほどの喧嘩のリターンマッチも兼ねて果たすべく彼に馬乗りになって
叫びながら殴りかかる。
「何わけの分からないこと言ってんだアシュレイ! 元はと言えば魔族を見たら頭に血がの
ぼって周りが目に入らなくなっちまうお前が悪いんだろうが!」
顔面を殴られた柢王がお返しとばかりに肉の薄いアシュレイの脇腹を横合いから殴りつ
ける。
「なーにが『お前が心配だ』だ!」
「それよりも岩だ! お前が魔族ごと壊した岩ってのはどこら辺にあったんだよ! つーか、何で魔族ごとぶっ飛ばしちまうんだよ! おまえは!」
執務室の床の上で殴り合い、もみあいながら、二人がわめきあう。
「なーにが『おまえの存在を支えきれずに、世界は崩壊するのかもしれない』だ! ろくで
もない夢を見させやがって!」
「目撃証言の出来る奴もいねーのに、何で跡形もなく消滅させちまうんだよ! そーゆー時は
証拠を残すってのが鉄則だろうが!」
「うるさいうるさいうるさ―――い! とにかくてめーが悪いっ!」
「いくら妖気が残ってても、証拠になるモンがなきゃあ、何にもならねえんだよ! このバカ!」
お互い話がかみ合っていないことにも気づいていない。
上からアシュレイが柢王の腹を殴りつけると同時に下から柢王がアシュレイの顎を殴り
あげたが、派手にもみ合っているのでどちらも大した打撃にならない。
・・・幼なじみの喧嘩というものは始末が悪い。
本気で殴り合っているのだが、なにしろ互いの癖を知り尽くしている者同士の喧嘩なのだ。よほどのスピード、あるいは力で抜きんでているか、あるいはフェイントをつく攻撃でもしない限り、決定的な一撃が撃てない。
結果、決着が付かないので、はてしなくもみ合うハメになるのだ。
「・・・ああもう、非常時というのにバカばっか」
額を押さえる桂花の隣で、ティアはオロオロとうろたえ、アシュレイが殴ったり殴り返さ
れたりするたびに小さな悲鳴を上げていたが、ついに何を思ったか自ら扉の所まですっ飛ん
でゆき、外で控えていた使い女に急いで大きな容器に水をくんで持ってくるよう言いつけて
戻ってきた。
「・・・守天殿?」
「えーと、だって、喧嘩を止める時には水をかけるのが一番効果的だって前に誰かに聞いた
から」
猫の喧嘩じゃあるまいし、と桂花がため息をつきかけ、バルコニーの方角からした音に目
をやった。
「冰玉?!」
バルコニーの所で青い小鳥が結界にはじかれてピイピイ抗議の声を上げているのを見て
ティアが首をかしげた。
「おかしいな、緊急措置として今日に限り冰玉も結界を超えられるようにさっき結界を設定
し直したばっかりなのに」
桂花が慌ててバルコニーの窓を開け放つ。
青い小鳥は桂花目がけて飛び込もうと羽ばたく。その瞬間冰玉がくわえていた黒いものが
はじかれた。落ちていくそれを冰玉は慌てて追いかけて空中で拾い上げ、再度執務室に入ろ
うと羽ばたいた。
・・・冰玉そのものがはじかれているのではない。冰玉がくわえているものがはじかれてい
るのだ。
「まさか、あれって・・・」
「守天殿!」
桂花の声にティアが慌てて結界を取り払う。
結界が解かれた瞬間執務室に飛び込んできた冰玉は、挨拶のように桂花の周りを一周し、
それから一直線に執務室を横切ると、まだわめきながらもみ合っている二人の周囲をピイピ
イ鳴きながら飛び回った。
小鳥の声で我に返った二人が同時に喧嘩の手を止める。
「冰玉!」
柢王が上に乗っかっていたアシュレイをはね飛ばすような勢いで半身を起こして差し出
した腕に冰玉はとまり、同時に反対側から差し出されたその手の中にくわえていたものを落
とした。
手の中に落とされたものを見て柢王が歓声を上げる。柢王の上から転げ落ちたアシュレイ
が何事かと近寄って手の中を覗き込み、「あッ!」と叫んだ。
ティアと桂花も近寄って覗き込み、「やっぱり!」と同時に言う。
柢王が差し出すそれを、アシュレイはつまみ上げてまじまじと見た。
温かいような冷たいような、あるいは固いようにもやわらかいようにも感じられる奇妙な
触感と質感をもつ、黒く平べったい塊。
親指の爪ほどの小ささだが、まぎれもなく、妖気が感じられる。
桂花が頷き、ティアがほっと安堵のため息をついた。
「よっしゃあ! 証拠だ! ―――でかした冰玉!」
満面の笑顔の柢王にもみくちゃにされた(当人は撫でているつもり)冰玉が抗議の声を上
げて桂花の懐に逃げ込んだ。
立ち上がった柢王が魔族のカケラをつまんだまま展開についていけずにぽかんとしてい
るアシュレイの背中を笑ってばんばん叩く。
「カケラが残ってて良かったな、アシュレイ! ティア! 書状は俺が持っていくから現場に
いる南と中央の連中をいったん引かせてくれ!」
「よかったね、アシュレイ! わかったよ柢王、すぐに手配する!」
ティアがアシュレイの肩をぎゅっと抱いて笑い、すぐさま帰還命令の書状を書き上げるべ
く執務机に走ってゆく。
「・・・・・」
冰玉が飛んできてアシュレイの手首に降り立ち、つまんだままの魔族のカケラをつんつん
突っつくとみるや、ひょいとアシュレイの指からそれを奪い取るとアシュレイの周りをパタ
パタと飛び回った。
「コラ遊ぶな冰玉。大事な証拠だ」
柢王が捕まえようとすると、ピピ、と冰玉は鳴いて離れたところに立つ桂花の肩口に降り
立った。桂花が手を差し出すとカケラをその手の中に落とし、桂花がもう片方の手で撫でて
やると自慢げに鳴いて目を細めた。
「よしよし、本当によくやった。えらいぞ。・・・しかしまあ無茶をする。いくら頑丈な竜鳥
とはいえ、雛のおまえがあの熱さの中でよく探し出せたな」
「いっとくが桂花、俺は何かあったら知らせに来いって言っただけだぞ」
「言われたこと+αのことをするこの行動力は、ひとえに吾の教育のたまものです」
「お前スパルタだもんな・・・」
お前の薬と同じできついのなんのって、と軽口を叩いた柢王が、まだ立ちつくしている
アシュレイを覗き込んで首をかしげた。
「なんだなんだアシュレイ、せっかく証拠が見つかったってのに何でそんなシケた顔をして
んだ?」
「・・・・・」
目が覚めてからの短い間に一気に物事が進みすぎてアシュレイはついていけてない。
何となくわかるのは、彼らがいろいろ手を回してくれていたということ。
証拠の品が見つかったことに、彼らが喜んでいるということ。
自分は今まで長椅子の上でのうのうと寝ていたのだ。
けれど、誰もそのことで自分を責めない。
ただただ、本当に喜んでくれている。
(ちくしょう)
不覚にも涙が出そうになった。
(こいつらどうして)
目頭がひりつく。
(何で俺なんかに そんなに・・・)
―――まずい。本気で泣きそうだ、と思った時、ティアが書類を折りたたみながら戻って
きた。そっちを見るふりをしてさっと目頭をこする。
「場所が境界線の所で本当によかったよ。中立地帯なら天主塔の権限の方が通りやすいから
ね。でなきゃ綱紀に触れるから色々大変だったと思う」
「サンキュ、ティア。アシュレイ、お前も来いよ。問題の岩があったトコは、お前じゃなき
ゃわからないんだからな」
「・・・岩? 何が?」
きょとんとアシュレイが聞き返すのに、やっぱ聞いてなかったな、と柢王が苦笑する。
そして話をかいつまんで説明する。
「・・・岩の数がおかしい?」
話の途中でアシュレイが首をかしげた。
「そうだ。18個のハズが19個あったというんだから、あからさまにおかしいだろう。
図面と現場の両方を知ってる俺が見たかんじ、どうもお前が魔族ごとぶっ飛ばしたって岩が
どうもそれに当たるみたいだ」
「ああ・・・」
居心地の悪い顔でアシュレイが頷く。
「その岩がどこから持ち込まれたかが分からないから問題なんだ」
「・・・なんでだ?」
柢王の言葉にアシュレイが心底不思議そうに首をかしげた。
何で分からねえんだ?! 問題大ありじゃねえか! と柢王が本格的に怒り出す前に、ティアが
間に割って入ってアシュレイを問いただす。
「アシュレイ、どう考えたっておかしいと思わないかい? 18個のハズが19個に増えて
いるなんて。しかもあんな大岩がいきなりあんな所に現れるなんて。誰かが作為的にやった
としか思えないじゃないか」
ティアの言葉にアシュレイはますます困惑の表情を浮かべた。
アシュレイの困惑ぶりにティアが首をかしげる。
桂花が魔族のカケラを長椅子の前にあるテーブルの上の飾り皿の中に慎重に置きながら、
こちらを向いた。
「・・・何が問題なんですか? それともあなたは、その岩がどこから持ち込まれたかをご存じなんですか? 南の太子殿?」
こちらを向くきつい紫の瞳に一瞬気押されかけ、それでも持ち前の勝ち気さでにらみ返す
と、「南に決まってンだろ!」とアシュレイは怒鳴った。
「岩の数が減っているなら問題大ありかも知れねえけど、増えてる分には別におかしくもな
んともないじゃないか!」
「・・・?!」(×3)
アシュレイの問題発言に思わずあっけにとられた3人の前で、アシュレイは心底不思議そ
うに言った。
「ある日いきなり岩の数が増えてるなんて事は、南領じゃそう珍しい事じゃないだろ?」
【8】
「・・・知ってっと思うけど、南領には火山地帯がある。」
三人の驚きようにアシュレイが「知らなかったのか?!」と面食らい、「聞いたこともない!」
と、口々に事情の説明を求めてくる彼らに、アシュレイはためらいつつぽつぽつと説明を始
めた。
「熱すぎるから、誰も住んでねーし、入り込むのは火山観測に命かけてる火山学者や、欲の
皮が突っ張ったイカレた鉱石ハンターくらいなモンだ。・・・そもそも、まともな神経の持ち
主なら何があっても近づかないようなトコだ」
三人は突っ込みを入れたい衝動を抑えて先を促す。
「休火山や死火山が多いんだが、そんでも活火山だってあって、そいつらが定期的に噴火す
るのさ。まあ、噴火っていったって、火口から溶岩を垂れ流すおとなしい火山がほとんどな
んだが、時々驚くほど派手に噴火をしてくれるヤツもある。中には噴煙柱の高さが2万mに
達するスゲエヤツもある」
「にまん・・―――20kmぉっ?! どんなだよ?!」
柢王が驚きながらも先を促す。
「そういうのになると、火山灰と一緒に火山弾(上空に噴出された溶岩の塊が回転しながら
落下して弾丸状に固まったもの)や噴石(火口を埋めていた岩石や古い溶岩が噴火によって
吹き飛ばされ、岩隗として落下してきたもの)も一緒に噴き上げて、そこら中にまき散らす。
噴石のでかいヤツになると5t位の大きさがあるしな」
「5トン!」
「そーゆーのが噴っ飛んできて落ちてくるってわけだ。―――以上。説明、終わり!」
そそくさと話を切り上げてしまったアシュレイに、原因は察しがついたものの、こまかい
ところで納得がいかない三人は口々につめよる。
「・・・ちょっと待てよアシュレイ。火山地帯からあの境界線までどんだけの距離があると思
ってんだ? いくら二万メートルも噴き上がるったってそりゃ火山灰とかだろ。いくら何で
も五トン級の岩が境界線のトコまで飛んでくるとは普通考えられねえだろ!」
「・・・う。」
「そうだよアシュレイ。私の知る限りの記録や資料に残る噴石や火山弾の最大飛距離は、
少しの例外を除いて噴火口から2km地点が限界のようだし。いくら何でもその説明じゃ信
じられないよ」
「・・・ううっ!」
「そうです。第一噴煙柱が20キロメートルも上がるような噴火なら、天界のあらゆる所で
目撃されているはずです。吾はここに来てそんなに経っていないですが、噴火が話題にあが
っているのは聞いたことがありませんよ」
柢王、ティア、桂花にまとめて詰め寄られたアシュレイはダラダラ汗を流しながらタジタ
ジと後ずさったが、あっという間に壁際に追いつめられ、3人に囲まれると首を振りながら
叫んだ。
「・・・火山地帯は現国王の直轄地だ! そこに張り巡らされてんのは、当然親父の強力な結
界に決まってんだろ! 考えても見ろよ、二万メートルの噴煙柱なんかが目撃された日にゃパニックが起きるだろ
うが! 火口から飛び出る火山灰や軽石の量だってハンパじゃねえ。ほっといたら天界中に降
り積もってとんでもないことになる! ―――そうならないよう、噴火のない時はどんな奴ら
でも出入り自由だけど、大規模な噴火が起きた時だけ侵入できなくするような機能はもとよ
り火山灰や火砕流を火山地帯内で食い止め、一般民や他国の者から見えなくするような、
南領の王族、しかも直系の王族しか知らない特殊結界があるんだよ!」
『特殊結界』。―――ならばますます巨石がそんなところまで飛んでくること自体があり
得ない。
「・・・と言うことは、まだ隠していることがあると言うことだ!」(×2)
アシュレイに柢王とティアが同時に詰め寄る。壁に背中が当たったアシュレイがほとんど
ヤケになって叫び返す。
「・・・しょーがねーだろー! 特殊結界については南領の機密なんだから! 王族の俺が
ベラベラ喋るわけにはいかねーんだよーっ!」
「・・・機密? ふうん。そういうことならますます是非とも知りたいねえ。天界の統治者で
もある守護守天の私には知る権利はおおいにあると思うよ。・・・言わないなら実力行使する
って手もあるけど!」
「つーか、そこまで言っといて、ハイおしまいってのはあんまりだろが! 他言無用にするか
ら教えろ! ・・・さもなきゃ文殊塾時代にしでかしたあーんなことやこーんなことを天界中
に言いふらすぞ!」
「・・・て、てめえらあああぁぁぁ! 汚ねえぞ〜〜〜っ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るアシュレイに、「絶対何があっても黙ってるから、教えろ!」と
さらに二人が詰め寄る。
壁に張りついてもはや一ミリたりとも後退できないアシュレイはそれでもまだ逡巡して
いるようだったが、ついに観念して降伏の印として両手をあげた。それからちらりと二人の
後ろに控えている桂花を見た。
「・・・吾は柢王の副官であり、現在は守天殿の秘書でもあります。上官のお二方が他言無用
とおっしゃるのでしたら、吾はそれに従います」
静かに応える桂花の肩の上で、冰玉までピピッと鳴いた。
南領の機密なんだから本当に黙ってろよ! とさらに念を押したアシュレイが背中で壁を
こすって床に座り込み、ようやく口を開いた。
「現在一番高い火口から・・・ああ、大規模な噴火を起こす火山ってのは、たいがい高いヤツ
なんだ・・・上空2km地点を頂点にして、親父の結界が火山地帯いっぱいにドーム状に張り
巡らせてあって、火砕流と噴煙を食い止めてる。」
「噴石を止めるためのものじゃないのか?」
「・・・さっき、ティアが言っちまったけど、噴石ってのは高く高く吹き上がったとしてもそ
の重みでまっすぐに落下するから、そんなに遠くには飛ばないんだ。火山が噴火して何より
も怖いのは、噴煙柱が崩れた時に発生する火砕流なんだ。火山ガスやら軽石やら火山灰やらその他モロモロがごちゃ混ぜになった、温度数百度にもなる大量の火砕物が地響きをたてながら、秒速100メートルの早さで斜面を流れ落ちて何十キロという範囲に広がる。巻き込まれたら、まず助からねえ」
「―――秒速100メートル。1キロメートルを10秒の早さで雪崩れ落ちてくる、灼熱の
大津波、ですか・・・」
桂花が寒気を憶えたように肩をすくめた。
「・・・俺の小さい頃に人界のベスビオス山が噴火した時、それが原因で、ポンペイとヘルク
ラネウムって都市が一夜にして滅びている。」
ティアが、資料で見た事がある、と頷いた。
「それに噴火によって噴き上げられる大量の火山灰が何メートルもの規模で積もるしな。
・・・まあ、そういうわけで、火山灰と火砕流を火山地帯内で食い止めることを重点において
作ってあるから、勢いよく飛び出した火山弾や噴石とかは結界を突き抜けちまう。・・・それ
から落ちてくる時に結界に弾かれて外に落ちるんだ」
「弾かれたからってそんなに飛ぶものじゃないでしょ?」
聞き返すティアに、言いにくそうにしていたアシュレイが、渋々と口を開いた。
「・・・その結界ってのは、並はずれた膨張性と弾力性を持ってるんだ・・・」
「―――・・は?」(×3)
三人が口を揃えてあっけにとられるのを見て、「あー ちくしょう、バラしちまった」と
苦々しい顔つきでアシュレイはため息をついた。
「例えが適当じゃねえんだが、突ついても壊れないような、ものすごく丈夫なシャボン玉を
想像するのが一番わかりやすいと思う。薄っぺらい石けん水の膜に息を吹き込んでやればど
んどん膜が伸びて、もとの数十倍の大きさのシャボン玉が出来るだろ? 石けん水の膜が、
結界。噴火の勢いが、吹き込む息と考えて貰ったらいい。・・・俺の言いたいことわかるか?」
「だいたいの所はわかるぜ」
「まあそういうわけで、結界は噴火の勢いがどんだけ凄くても、上空に向かって膨張するか
ら結界は破れない。ただ、膨張するだけだと結界の機能としては弱いから、表面に弾力性を
付加して強化してあるんだ。結界の復元力も高まるしな」
・・・膨張性・弾力性を持たせることによって、噴火の衝撃や火山灰・火砕流の勢いも留め
ておける優れものの結界なのだが、数少ない欠点をあげるとするなら結界を突き抜けて高い
ところから勢いよく落ちてきた噴石などが弾力性のある結界の表面に弾かれることにより、
余計に飛距離を稼いでしまうと言うことだった。
「だから、高いトコから落ちてきた重い噴石とかは、結界の上を2回3回と跳ね飛んで、火
山地帯の外へ飛んで行ってしまうんだな」
しかも結界にめり込む時に、結界の上に降り積もった軽石や熱いままの火山弾やらがそれ
にくっついて、さらに巨大化してしまうというおまけ付きだ。
「・・・そーゆーわけで、親父の結界に弾かれた噴石やら火山弾やらが四方八方に飛び散って
地面に刺さるわけだ。南領の各市街地上空には親父の結界があるから降ってこないが、結界
に弾かれて周りには落ちる。だから、郊外の森やら山にいきなり岩が増えてても、南領じゃ
別におかしくも何ともないんだ」
・・・沈黙がおちた。
「・・・何てデタラメな」
桂花が呆然とつぶやいた。柢王とティアが思わず頷き返しそうになったほど、その一言は
聞き終わった後に訪れた彼らの心境を端的に現していた。
「―――だまれ魔族! 魔族の分際で何てことを言いやがる! 先祖代々試行錯誤を重ねて
きた結界だぞ?! 口にしちまえば簡単なようだが、結界に膨張・弾力性を持たせることによ
って噴火の衝撃をうまく受け止められるよう改良されるまでどんだけの時間と呪言と霊力
が費やされたと思ってんだ! カチンコチンの固い結界を使ってた時代なんか、噴火の勢いが強すぎて、結界が壊れてしま
ったその力の揺り返しの直撃を受けた当代の王が1月くらい意識が戻らなかったって話も
あるくらいなんだぞ!」
起き直って桂花に掴みかかるアシュレイをティアが慌てて止めようとする彼らの背後で、
実に晴れ晴れしい笑い声がはじけた。
柢王だった。
「で、でっけえ岩が空中をビョンビョン飛び回ったあげくに地面に突き刺さるなんざ、フツ
ー考えられねえって! ・・・なんてぇ すげえお国柄だよ、南領!」
床に腰を落とし、体を震わせて笑っている。
「あ――― すっげーバカバカし! 悩んだ俺が馬鹿だった!」
床に転がり腹を抱えてゲラゲラ笑う柢王にアシュレイが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「バカだと!? 柢王! コノヤロ! 俺の親父の仕事を馬鹿にしやがったな!」
「アシュレイ、アシュレイ、誤解だってば」
桂花を離して今度は柢王に掴みかかろうとするアシュレイを止めに入ったティアも笑っ
ている。
「柢王が笑っているのは、安心したからだよ」
「ああ? どーゆーことだよ?!」
「あのね・・・」
説明をしかけたティアがノックの音で振り返る。執務室の扉が開き、一メートル近い大壺
を使い女が三人がかりでよろめきながら運び込んできた。
「お・お持ちするのが、た・大変遅くなりまして・・・」
使い女達はそれを長椅子の近くに置くと下がっていった。大壺の中には清水が満々とたた
えられている。
桂花とティアが顔を見合わせた。
「・・・何回ぐらい(喧嘩を)止められそうかな」
「10回は確実かと・・・・」
次の瞬間ティアが吹き出し、声を立てて笑った。桂花まで肩を震わせて笑っている。
両側に笑い合うティアと桂花、正面には笑い転げる柢王。笑い声に囲まれてアシュレイは
あっけにとられて彼らを見回し、そして顔を真っ赤にして叫んだ。
「何なんだ! コラお前ら! 内輪受けしてねーで、俺に説明しろ―――!」
【9】
・・・・・ ピシャン・・ ―――
黒い水が波立って、湖面がざわめいた。
揺れる湖面の中央が、金色に光り輝いている。
湖に面した館の階に腰をかけた人物の髪と同じ色だ。長い長い髪の一部は湖にひたされ、
扇のように広がっていた。
そのわずか先の湖面には、中央と南の境、南の太子が魔族を破壊した場所を背景に飛び回
る兵士達が映し出されている。
片膝を立て、もう片方の足は階の上に伸ばし、立てた膝の上に置いた腕の手の甲に顎を載
せ、もう片方の手は扇をもてあそんでいる。一見懶惰に見えるその姿も、この人物がすれ
ば奇妙に似合う。
それは、この人物が醸し出す誑惑の気配と、並はずれて美しい容姿と、威圧的な金黒色の
眸のせいかもしれない。
今、その金黒色の眸は、わずか先の湖面に映し出される映像ではなく、光り輝く湖の中央
を見据えていた。
波立ち、金の波紋を広げるその中央で、金黒色に輝くひとしずくが浮かび上がり、垂直に
立ちのぼって果てのない冥界の暗闇へと消えてゆく。
冥き再生の水―――・・
それは力となって教主の望むところへ向かう。
また 金黒色のひとしずくが波紋の中央から生み出され、上空の闇へと消えてゆく。
教主の傍らにひっそりと従う赤毛の女がわずかに膝を進めた。
鮮やかな赤毛が流れ落ち、伏せたままの女の白い貌を覆い隠す。
「冥界から天界まで直接力を渡し続けるのは、いかな貴方様でもお体に触りましょう・・・」
ましてや、霊力の満ちた異界の地で力をふるうとなれば・・・
ぱちり、と扇を閉じる音が、奇妙なまでに大きく湖面に響いた。
「・・・何のために閻魔の協力を取り付けたと思っている?」
李々の言葉を冥界教主はわずかな哄笑で退けた。
閉じた扇を李々の伏せた頤にあてがい、強い力で顔を上げさせる。
目と目があった。
「あの、愚かで醜い閻魔に近づいたのは、なんのためだと思っている? 先代の守護守天が
戯れに与えた快楽の味を未だに忘れられないがために、己の養い児にまでおぞましい情欲を
寄せるあの老人に?」
李々は身を引こうとした。金黒色の眸とその声に呪縛される、その前に。
「今頃閻魔は、我があてがった姿形だけはおのが養い児に似た人形に溺れていることだろう
よ。我に感謝すらしながら。」
髪を掴まれてさらに引き寄せられる。激しい痛みが走ったはずだが、李々は瞬きすら出来
ずに、魔王の貌を見上げ続けることしかできなかった。
「・・・そのまま溺れ死んでしまえ老醜め! 偽物ごときで満足できる程度の浅はかな妄執で
手に入れられるとでも?」
呼吸をすることすら忘れたままの李々の喉が小さく鳴った。床についた手は蝋のように白
く、小刻みに震えて今にも崩れ落ちそうだった。
その時、湖面がひときわ光り輝いて李々の視界の端を焼いた。
「――――」
髪が離されると同時にすべての重圧が離れていった。のど元を押さえて浅く息をつぐ李々
に背を向けた教主が湖面を見おろし、ゆっくりと笑う。
「・・・あの兄妹が 魔刻谷に到着したらしいな―――・・」
・・・笑いの発作に見舞われていた柢王をアシュレイが引きずり起こし、脳みそが飛び出る
んじゃないかと思われるくらい揺さぶったあげくに事情を聞き出せたのは、それからしばら
くしてからだった。
ちなみに水の入った大壺を見て笑ったティアと桂花は何も言わずに先に執務に戻ってい
る。
「じゃあ何か、あの岩が、魔界から持ち込まれたんじゃないかと思ってたんだな」
「ああ、治水工事が終わったばっかのあんなとこに、いきなり大岩が生えてること自体が
・・お、おか、かしいから、な」
アシュレイに応える柢王の言葉の語尾が震えたのは、またもや笑いの発作が襲ってきたか
らだ。
口元を押さえて必死で笑いをこらえている柢王をアシュレイはじろっと睨み付け、それか
ら内心で首をかしげた。あの時、足元の岩の色は何色だったかな、と。
激しい噴火を起こす火山のマグマが固まった岩は確かに白っぽいモノが多いので、境界線
の所に立てられていた数柱の岩と混同しても可笑しくはないのだが・・・
「・・・・・?」
何だろう この感じ。
道を行く途中で忘れ物をしたと気づいたのに、何を忘れたのかがわからないような。
「・・・どうした、アシュレイ?」
柢王の声にアシュレイは引き戻された。
アシュレイは考え込むことを放棄した。いくら考えても分からないなら、それ以上の事は
アシュレイにとっては時間の無駄なのだ。
それならば一旦原点に戻ってみればいい。柢王と一緒に現場に行って確認すれば済むこと
だ。
「いや、何でもない。・・・つーか、いつまで笑ってんだよ! いー加減にしろ!」
「・・・おかしな気分だ」
むき出しの岩肌に背をつけて座る氷暉が黒紫色の瞳をすがめて言った。彼の本来の瞳は藍
色。今は魔刻谷に満ちる赤い結界光に照らされてそんな色に見えるのだ。
「何が?」
座る彼の足の間の地面にちょこんと腰を下ろした水城が振り返って問い返す。彼女の白い
肌も髪も赤く染まっている。瞳だけが同じ赤だ。
「目の前にお前がいるのに、お前が見えているのに、頭の中にもう一つの風景が見える。天
界人がうろつき回っている風景が」
「あたしにも見えているわ。氷暉と、その向こうに同じ光景が」
「目障りだな。蛟(ミズチ)を出してあいつら全員川底へ沈めてやりた―――」
頭上でおこった小さな物音に、氷暉は妹を胸元まで引き寄せて覆い被さった。
チリン、カシャン、とくぐもった鈴のような音が頭上で交錯し、彼らからわずかに離れた
場所に、水晶の小片が落ちてきた。それを見届け、兄妹は安堵のため息をついた。
・・・水晶は 魔を祓う。
水晶をこそげ落とされ岩肌をのぞかせる、人一人がようやく腰と背を落ち着かせられる場
所に彼らはいる。だが彼らの周りは水晶だらけだ。ろくに身動きもとれない彼らにとっ
てはここは牢獄、いや、拷問部屋にも等しい場所だ。
「水城、お前は別に来なくても良かったんだぞ」
「馬鹿を言わないで。同じ血を持つ者同士の力の共振で氷暉がもっと強くなれるなら、あた
しは氷暉の側にいるほうがいいでしょ。・・・それにあの赤毛! この前ここであたしの邪
魔をしたばかりか、私をずたずたに切ってくれたのよ? あいつに仕返しが出来るせっかく
の機会なのよ! それだけでも来た甲斐があるってものだわ」
いまいましげに言う妹を宥めるように氷暉は妹の細いうなじを撫でる。
「もうすぐ結界が閉じる。水が満ちればアレが目覚める。今回俺たちの役目は、水を通すた
めの『管』だ。・・・楽なものだ」
最後の言葉を語る声に不満は感じられない。少なくともこの任務で妹を危険にさらさずに
済むことに氷暉は安堵していた。自分のことはどうにでもなるし、最悪死んだところですぐ
に湖に浮く(そのことについてはよほどの自信がある)。
しかし妹に何かあれば―――彼女が傷つくことさえ氷暉には絶えられない。妹は無用の心
配だと笑い飛ばすが、そういう問題ではない。以前の任務で天界人に肉体を寸断されて湖に
浮いた妹の姿を見た時の衝撃は、未だに氷暉を苛む。
当人は何でもないふりをしているが、時折仕草がぎこちなくなる事を氷暉はとっくに気づ
いていた。おそらく天界人に斬られた傷はまだ完治していないのだ。
(何とかしなければ・・・)
今の状況で妹を守り抜くのは無理だ。もっと根本的な―――
(そこまでだ。考えるな)
己の膝をきつく掴んで氷暉は自分を戒めた。
それ以上は 考えてはいけない。
術の触媒として、黒い水に直接繋がっている今は特に―――
「・・・・・」
あの、水底の修羅達を支配する、美しい恐ろしい魔王が笑む様を思い出し、氷暉は奥歯を
噛みしめた。
―――息苦しい。
蒸気と土埃の舞い上がる現場周辺で地道な探索作業を続けている兵士の一人が、手をかけ
た岩隗にもたれかかるようにして息を吸い込み、吐きだした。この体勢が一番息を吸い込み
やすく感じるのだが、どれほど息を深く吸い込もうとしても、胸の奥まで空気が落ちてこな
い。そして、すぐ息を吐き出してしまう。まるで、体が息をすることを拒んでいるかのよ
うだ。
そしてこの蒸し暑さ。いや、『蒸す』などという生ぬるいレベルではない。
頭まで湯につかっているような気分だ。
暑いが木陰に入れば嘘のように涼しい、乾燥した南領の気候とは違う。
(少し前までは、こんな感じじゃなかったよな・・・。風向きが変わったのか?)
兵士がちらりと視線を向けた方向の地は、未だ土煙と蒸気を高々とあげ続けている。
あの蒸気が風に流されてここに満ち始めているのだろうか。
胸苦しさを解消させようと浅く息をついだ兵士が、ふと顔を上げた。
「・・・気のせいじゃない。やっぱり、聞こえる」
気が遠くなるくらい 高いところから 水が 一滴 一滴 間隔をあけて落ちて来る
そんな水音が。
「・・・でも、一体どこから・・・?」
汗をぬぐいながら周囲を見回す兵士からわずかに離れた場所の、瓦礫が積み重なって出来
た山が崩れたのは、次の瞬間だった。
「―――・・っ!」
柢王とアシュレイが、そしてわずかに遅れて桂花が弾かれたようにバルコニーの方角を振
り返った。
高々と上がる土煙と蒸気は執務室からでもよく見える。
「ティア! 遠見鏡! 境界を映してくれ!」
振り返った柢王の声に弾かれたようにティアが手をかざすと、境界の場所が映し出される。
「―――魔族!」
空中で、高々と伸び上がって身をくねらせる、黒く、長大な姿。
「でかい! ・・・蛇、いや百足(ムカデ)か? ティア! もっと近づけてくれ!」
ティアが遠見鏡を操作するのを嘲笑うかのように長大なモノは身をくねらせて瓦礫の山
に身を沈めた。はじきあげられた瓦礫が空中に舞い上がり、土埃がもうもうと立ちこめる光
景が遠見鏡の画面に映し出される。
「クソッ! 隠れやがった!」
「・・・人界の水生昆虫に似ています」
柢王の怒声のかたわらで、いままで食い入るように画面を見つめていた桂花が言った。
「・・・・・!」
柢王の怒声と桂花の押し殺した声をアシュレイは背中で聞いていた。バルコニーから見え
る光景を目を見開いたまま見つめている。
あそこには、南と、天主塔の兵士達が、いる。
魔族が 出現したのだ。それも、巨大な。
あそこには、兵士達が、まだいるのに。
兵士達がいるところに魔族が出た。
「アシュレイ!」
考えるより先に、体が動いていた。気付いた時にはアシュレイはバルコニーの柵を蹴って
飛び出していた。
【10】
「アシュレイ! クソッ! 何て速さだ! ―――ティア! あのぶんだと負傷者が出てる! 応急処置用の聖水をくれ! それと、さっきの書類も!」
すでに点としか映らないアシュレイの後ろ姿に舌打ちしつつ、怒鳴る柢王も既にバルコ
ニーの柵に足をかけていた。
「あー! ったく! あのバカ! 少しは後先ってものを考えろよ!」
「バカはあなたもです」
その肩にマントを着せかけてやりながら、桂花が押し殺した声で言った。
「熱があるのに・・・」
「・・・帰ったら何でも言うこと聞くから、カンベンな」
止めても無駄なことは桂花にも解っていたので、黙って睨み付けるだけにしておいた。
「・・・気をつけて。ハッキリとは見えませんでしたが、あの巨虫が吾の知っている水棲昆虫
と同じモノなら、あの大顎には絶対に捕まらないで。大顎の中は空洞で、強力な有毒の溶解
液がつまっているから」
「巨大ムカデじゃねえのか?」
「足の形が全然違うでしょうが!」
「わっかんねーよ! 見えたのなんか一瞬だぜ?! どんな動体視力してんだよ桂花?」
「一目瞭然だよ、柢王。オールみたいな形の六本足が生えてたじゃないか。あれはムカデじ
ゃないよ。絶対」
バルコニーへ走り出てきたティアの手から聖水瓶と書状を奪い取った柢王が目を丸くし
た。
「ティア。お前もか?! 俺には全然見えなかったぞ?」
「・・・天界中を飛び回るアシュレイを遠見鏡でつかまえようと日々頑張ってたら、いつの間
にか鍛えられちゃってたみたいでさ・・・」
「・・・お疲れ様です」(×2)
遠い目をして語るティアに、柢王と桂花がどこか哀れみを含んだ声で同時に言った。
柵の上に飛び乗った柢王が、何かに気づいたようにふと振り返って言った。
「ティア、お前の役職は何だ?」
「・・・? え・・ 守護主天・・だけど?」
いきなりの問いかけに、ティアは面食らいながら応える。
「ちゃんとわかってんじゃねえか。―――その いいおつむで よーく考えな。自分にどん
なことが出来るかってことを。自分が簡単に壊されるようなタマじゃないって事を」
困惑した表情で見上げてくるティアの額を(御印を避けて)指でつん、と突っつき柢王は
笑った。
「―――お前は、俺たちより強いってことを」
「・・・柢王?」
不思議そうに見上げるティアを横目に、柢王は手を伸ばすと指でそっと桂花の頬に触れた。
「ティアを頼むな」
次の瞬間 風が巻き起こってバルコニーに立つ二人の髪を激しく乱した。
「・・・!!!」
暴風を巻き起こした犯人は、既に視界には点としか映らない。
室内から青い小鳥が飛び出してきて桂花が差し出した腕の上に乗った。
「・・・お前も行くのか?」
ピピ、と応える小鳥にどこか寂しげに笑いかけ、羽をひと撫でしてやってから空に放つ。
(・・・せめて返事を聞いてから行けばいいのに)
螺旋を描いて上昇してから目的地へと羽ばたいてゆく青い小鳥の姿を小さくため息をつ
いて見送り、桂花は隣に立つ守護主天に、室内に入って遠見鏡で状況を確認しましょう
と促した。
(・・・それにしても・・・・)
室内に入り、ティアが執務室に入ってきた文官に救援の指示を飛ばしているのを聞きなが
ら、桂花はバルコニーの方をもう一度振り返った。
(あの巨虫・・・)
遠見鏡で数瞬しか見えなかったが、あの大きさは尋常ではない。
巨体にかかる重力を考えれば、あの大きさは異常だ。
人界の海には島のように巨大な、鯨という名の魚のような生き物がいるという。
だがその巨大な生き物も、陸に揚げれば重力に耐えきれず自らの重さで圧死する。
水の浮力があってこその巨体なのだ。
(虫はあらゆる生物の中で 一番 力が強い というけれど―――・・)
重力の支配する地上において、何故あの巨体であのように素早く動けるのか。桂花はそれ
が腑に落ちない。
「桂花?」
「すぐに参ります」
ティアの声に桂花は一旦考えることを止めた。
闘いに赴かなくとも、やらなければいけないことは山のようにある。
それでも、忙しく立ち働いている間は、心配のあまりあれこれ考えてしまうことをせずに
済む。何も出来ずにただおろおろと待ち続ける事を考えれば、やる事があるというのは幸せ
なことなのだ。
・・・・・たとえそれが南の太子に荒らされた執務室の片づけだとしてもだ・・・
「・・・・・」
桂花は眉間に皺を寄せてため息をつき、それから執務室へと足を踏み入れた。
天主塔から境界線まで、全速力の兵士達の足(というか飛翔力)で通常30分から40分。
普段のアシュレイなら20分。
それをアシュレイは摩擦熱で服が燃え出すのではないかと思われるほどの凄まじい速さ
で飛び、境界線の場所まで12分で到達した。
「ア・アシュレイ様!?」
一瞬にして(兵士達にはそのように見えた)暴風と共に現れた南の太子に兵士達が目を見
開いた。
さすがに息の乱れたアシュレイが肩で息をつきながら、それでも油断のない目で周囲を見
渡す。魔族は地中に潜ったままのようで、土埃が地表をもうもうと覆っているのが見えた。
土埃に汚れた兵士達がひとかたまりになって上空に浮いている。
皆が皆、起こったことを把握しきれず、とまどいと恐怖の表情を浮かべていた。
「・・・被害は・・・・・」
まだ整わない息で兵士達に向き直ったアシュレイが顔を歪めた。初めて血のにおいに気が
ついたのだ。
・・・怪我のない者を数える方が早かった。退避することで手一杯だったのだろう、治療す
ら始まっていず、中には手足のあちこちから血を流している者や、意識がないのか二人がか
りで抱え上げられぐったりしている者達の姿もあった。三人ががりで抱え上げられている
一人の兵士の片足がなく、三人目が傷口の上部を両手で締め付けて圧迫止血を施そうと奮闘
しているが、それを嘲笑うかのようにズタズタの傷口から鮮血が滴り落ち続けているさまを
見たアシュレイが青ざめ、次の瞬間怒りを爆発させた。
「・・・・・!」
アシュレイの戦闘霊気(バトルオーラ)の反応して周囲の大気がバチバチ音を立てた。間
近で見る王族の霊気のすさまじさに兵士達が一斉におののいたその時。
まるでその瞬間を待っていたかのように、地表から瓦礫を弾きあげて魔族が伸び上がって
きたのだった。
「・・・出た!」
もはや執務そっちのけで遠見鏡に張りついていたティアが叫んだ。その声に、南の太子が
散らかしてくれた書類を分類し直していた桂花が駆け寄ってきて共に覗き込む。
―――黒々とした広くて平らな頭部、それに続く三段階にわかれた胸部には剛毛の生えた
オールのような三対の足が生えている。そしてそれに続くのは10から先は土煙にまぎれて
見えない環節の結合が連なる長い腹節。
その、流線型の長大な姿―――。
「・・・やはり、人界の水棲昆虫にそっくりです。・・・大きさの違いさえのぞけば、ですが」
体長は15メートル。瓦礫の下にある残りの腹部を考えれば、20メートルを超すかもし
れない。
桂花の隣でティアも目をこらす。
「信じられない・・あんな巨体、持ち上げるだけでも・・ ―――アシュレイ!」
巨虫はその巨大な姿形に似合わないひどくなめらかな動きで、上空に集結しているアシュ
レイ達に向かって伸び上がったのだった。
地中から伸び上がった巨虫の姿を、はるか前方に柢王は認めた。
「クソッ! 間に合うか?!」
さらに加速した柢王は、ふと違和感を感じた。
―――何かを突き抜けたような感覚があった。
それは、彼の友人が彼の恋人と大事な友人達だけが通り抜けられるように設定した、その
特殊な結界を通り抜ける時の感覚と同じモノだった。
「・・・・ッ?!」
それと同時に柢王は息苦しさを感じた。
周囲の大気が一段と重みを増した、そんな感触だった。
妖気がまとわりついてくる。濃霧の中に立っているようなその感触に、柢王は嫌悪の証と
して眉をひそめた。
(―――あのデカ虫の放つ妖気かよ? ・・・にしては広範囲すぎないか? ・・一瞬だったが、あの、突き抜けるような感覚・・・ まさか結界? ・・いや、ティア以外にこんな広範囲の支配領域を持つ結界を短時間で張れるヤツなんかいるわけが―――)
高速で飛ぶことに全力を注いでいるため、とぎれがちになる思考に苛立つ柢王の視線の先
で炎が上がったのは次の瞬間だった。
伸び上がってくる流線型の巨大な魔族の姿を見て恐慌状態に陥った兵士達の恐怖に歪ん
だ声を背後に聞きながら、悪夢のようにギラギラと黒い巨大な大顎を持つ巨虫に向かって飛
び込んでゆきながらアシュレイが叫んだ。
「てめえぇぇぇぇ! よくも!」
アシュレイの右てのひらに白熱した炎が吹き上がった。それはアシュレイの霊気で精製さ
れ収斂された、凄まじい力を持つ炎だった。
アシュレイはそれをそのまま巨虫目がけて放とうとした。
「よせ! アシュレイ!」
「!」
背後からの声と同時に、アシュレイのてのひらの間に収斂されつつあった炎が身をよじる
ようにして消えた。
次の瞬間、アシュレイと巨虫の間に文字通り暴風と共に突っ込んできた柢王が巨虫に向か
って収斂させたかまいたちを放ったが、その表甲に悉く弾かれてしまった。しかしその衝撃
と暴風の圧力にさすがに驚いたのか、巨虫は素早く身を翻して地中に潜った。
「くそ! あの程度じゃだめか! なんてぇ固いヤツだ!」
弾きあげられる瓦礫の破片を巧みに避けながらアシュレイの隣に浮かび上がった柢王が
舌打ちした。同時にアシュレイが吼えかかる。
「柢王! てめえ さっき俺に何しやがった!!」
「お前の手元の酸素を抜き取ってやったのさ! 酸素がなきゃ火は燃えないからな!」
「この非常時に何て事しやがるんだ! 馬鹿野郎!」
さらに吼え懸かるアシュレイに、負けじと柢王も声を張り上げる。
「兵士達が近くにいただろうが! 第一、瓦礫の下に生存者がいるかも知れないってのに、
確認もせずにこんな至近距離でぶっ放そうとしてやがった馬鹿が何言いやがる!」
「だから、ギリギリまで魔族に接近してから炎を出そうとしたんじゃねえか! それを邪魔し
たのはお前の方だろ! つーか! また馬鹿って言いやがったな!」
「魔族を見たら頭に血がのぼっちまうその癖をいい加減なおせよ! お前マジで危なかっ
たんだぞ! それとも何か、お前を酸欠にさせて化けモンの口ン中に落としてやった方が良か
ったか?! そーすりゃ馬鹿が治ったかもな!」
「・・・いつもあんな感じだったんですか? 守天殿・・」
「・・・・聞かぬが花だよ。桂花・・・」
会話が丸聞こえの遠見鏡の前で、桂花が脱力し、ティアは椅子に座ったまま天井を仰いで
嘆息していた。
「昔から、戦いの最中だってのに現場そっちのけで言い合うことなんか、あの二人にはしょ
っちゅうだったよ。・・・そのくせ いざって時は息ぴったりなんだからね」
「・・・・・」
桂花は、ティアが再び小さくため息をつくのを聞いた。
続く。