皇大神社(八幡大菩薩、八幡宮)
所在地(氏子):阿智村智里(大野)
祭神:○天照皇大神(てんしょうこうたいじん)
誉田別命(ほむだわけのみこと/八幡大神)
春日明神(天津児屋根命(あまつこやねのみこと)、比売大神(ひめおおかみ))
伝承によれば、長篠の戦い(1575)の後、武田家の家臣原善左衛門(大野修理太夫)が大野に土着して開拓し、神々を勧請したという。
寛文10年(1670)に再建した際の棟札によると、伊勢大神宮を主神として、八幡大菩薩、春日大明神を相殿にしており、当社の創建は伝承と同時期と見られる。棟札に残る領主名は宮崎太郎左衛門(駒場村上町領主)、庄屋名は井野原善左衛門である。
また、安永8年(1779)の棟札には、天照皇大神、八幡大神宮、春日大明神と書かれており、伊勢大神宮とは天照皇大神であることがはっきりしている。初期の社名がどのように呼ばれていたかは明白でない(お伊勢様だったのだろうか?)。
伊勢神宮は皇祖神であるため一般民衆の参拝を禁じていたが、徐々に緩和されたという。寛永13年(1636)の『伊那郡寺社領之帳』に「伊勢」という名称で上伊那の2社、延享年間(1745頃)の『伊那郡神社仏閣記』に「神明宮」「神明社」という名で伊勢神宮系の神社が上下伊那に10社ほど見られる。
江戸初期やそれ以前に、一山村の鎮守として皇祖神を勧請したことは極めてまれである。伊那街道の宿場的な位置にあったため、伊勢御師・伊勢参宮などの影響かとも思われる。
文化8年(1825)の文書には、八幡大菩薩、秋葉大権現、山之神の3社が大野分の神社として書き上げられており、天保14年(1843)の文書でも当社を八幡宮と呼び、本来の主神の影が少し薄くなっている。現在、秋葉様と山之神は摂社として境内に祀られている。明治4年より社名を「皇大御社」とした。
本殿は簡素な三間社造りで、覆屋内にある。拝殿は切妻造り妻入りで、伏谷社同様に堅魚木、千木、小狭小舞をつけた神明造りの屋根をもつ。