春日神社の森。阿知川の段丘の上にある
拝殿正面。本殿は覆屋の中にある
区画整理された水田地帯が広がる
備中原の春日神社の由緒は明らかでない。しかし、「伊那郡神社仏閣記」(1745頃)では古跡と評価されている。また、境内広しと書かれているが、現在の境内はゲートボール場1コートになっており、それ以上の広さはない。ただ、備中原全体が一つの平原になっており、集落と神社は一体に感じられる(写真上、下)。
春日神社の本殿は覆屋(写真中)の中にあり、一間社流れ造りである。向拝の龍の彫刻等入念で、江戸時代中期の作と推測されている。また、本殿の基壇になっている切石の石積みが8.5尺四方もあり見事だという。
天正年間(1580頃)、産土の森のそばに林久左衛門の屋敷があったと伝えらる。神社の東隣の地籍(写真上:神社の右側)を「殿垣外」という。久左衛門は上中関(春日明神を祀る)の領主市岡和泉の二男である。飯伊地区で春日明神を主神とする旧村社は4社しかないことから、久左衛門が移り住んだ際に、守護神として祀ったと考えられる。
市岡氏、林氏は下条氏配下だったが、天正15年(1587)に下条氏(牛千代丸)が美濃へ落去。久左衛門は飯田城主菅沼定利の手の者によって討たれたという。「備中原」という地名は、支配者の名前によるかと思われるが、久左衛門以前のことは不明である。
備中原村が関係する江戸時代の記事は、向関村の「村方有来訳」の中にいくつか見られる。
→ 『阿智村誌』 p.727
→ 『愛郷探史録』
p.313 文化4年の備中原村
p.380 「向関村・村方有来訳」より
p.382 日の入山のこと
p.384 日の入井のこと
p.386 大鹿倉のこと
p.396 丸山平開発のこと
p.486 備中原の橋供養塔