領主の位牌

 伍和向関の宗円寺は浄土宗の寺で、はじめは雲洞院といったが、慶長6年(1601)宮崎半兵衛重次が向関村の領主となって材木奉行の役を命ぜられ来住し、重次が浄土宗を信仰していたことから近くにあった曹洞宗の元空寺(初代半兵衛泰重の妻の菩提寺)を合併して浄土宗雲洞院としました。

 この位牌は半兵衛重次のもので、正保元年(1644)没、位牌の表に「捐館通岳宗円信士」と書かれています。「捐館(えんかん)」は戒名ではなく、通常「帰空」とか「帰寂」に同じ頭書ですが、「館を捐(す)てる」とは、現世を離れて冥途へ向かう在村武士の死出の旅にふさわしい。しかし、その下の戒名「通岳宗円信士」はあまりにも簡素で小前(こまえ)百姓と変わらず、当時は領主も百姓も戒名の差別はなかったようです。 

 貞享3年(1686)に、この戒名から寺の名を「宗円寺」と改めたといわれ、重次の戒名も「柳眼院殿慶誉通岳宗円大居士」と十三文字になって過去帳に記されています。 裏面には「正保元甲申年三月十四日」とありますが、この年の改元は12月で、重次死去の三月はまだ寛永21年でしたから、この位牌は没年の12月以後に作られたものと考えられます。  (S63・6)

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