江戸時代初期の阿智地域の支配は複雑で、村誌編集の折にも中関・小野川等を誰が支配したのか決め手がなく困却しましたが、その解決の糸口となったのが伊豆木の松村美登里氏蔵の文書です。
表紙の標題には「宮太郎左門殿流帳(ながれちょう)」とあり、その両側に「慶長・十一月」と記されていますが、年号も干支もありません。宮太郎左門とは、駒場上町領主の宮崎太郎左衛門のことで、「流帳」とは水害等で荒れ地となった田畑を書き上げた帳簿です。この中に「なかぜき」があり「おの川之郷」「河内之郷」「くりやの之郷」がありました。
宮崎太郎左衛門の領地は上町の二百余石だけですから、右の村々は幕府領(天領)で、上町宮崎氏の預り地と解されます。当時はまだ「郷」と呼ばれていたのです。(図版は郷名部分を示す) (S62・11)